これまでの二年間、小さな喧嘩はもちろんあったけれど、どれもこれも理由なんて覚えていないくらい些細なものだった。白布が声を荒げたことはないと言っていいくらいだし、本気で拒絶されたこともない。わたしも白布に怒鳴ったことも本気で拒絶したこともない。そう思うと、概ね、うまくやってきていたのだとぼんやり思った。

「どういうことか、説明してもらっていいですか」

 こちらを見ないまま白布がそう吐き捨てるように言った。そんな顔、はじめて見た。ぼけっと喉の奥で呟くわたしを余所に、「いや、違う、誤解だから」と慌てる瀬見の声が聞こえた。
 瀬見に白布のことを聞いてもらって、ずいぶん気持ちが楽になった。一人で抱えずにはじめから話せば良かったな、と思うくらい気持ちが軽くなれて安心していた。ほっとした気持ちのまま瀬見の車に乗り込んで家まで送ってもらった、と、いうところまではよかった。
 マンションの前で車を停めてもらって「ありがとう」と声をかけながら車を降りた瞬間、「は?」という聞き覚えのある声が耳に刺さった。驚いて振り返るとわたしの部屋に寄っていたらしい白布がちょうど出てきたところで、目を見開いてただただわたしを見ていた。片手にコンビニでたまに買う飲み物。何か買ってきてくれて、わたしの家の冷蔵庫にこっそり入れてくれることがたまにある。そのたまに、が今日だったのだ。
 なかなか車のドアを閉めないわたしを不思議に思った瀬見が「どうした?」と顔を出すと「あ」と声を漏らして、慌てて車から降りた。そして、今に至る。白布はわたしと瀬見をそれぞれちらりと一瞥して、ふいっと顔を背ける。それからぼそりと「そういうことかよ」と呟いた。そういうこと、とは。なんとなく不穏な雰囲気がしていることしか分かっていないわたしを押しのけて、瀬見が「白布、マジで違うから」と近寄ろうとした、けど。白布は目を向けないまま「何が違うんですか」と冷たい声で言うだけだった。
 ああ、そうか、わたしが体調が悪いと嘘を吐いたり〝友達〟と会うと嘘を吐いたりしたから、勘違いされているのだ。しかも、最近は連絡が疎かになっていた。白布はたぶんわたしが瀬見とそういう関係なのだと勘違いしている。それがようやく分かった、けど、慌てなかった。だって、白布。白布だって、そうでしょ。そんなふうに思うだけ。必死に白布に理由を話そうとしている瀬見を見ているだけになっている自分がいて、ちょっと驚いた。

「最近連絡がなかったり、様子がおかしかったりした理由はこれですか」
「いや、マジで違うから。俺はの……あー、相談に、乗ってただけ、というか」
「口では何とでも言えますよね」

 ぴしゃりと言った言葉。白布はわたしを睨むように見てから、またすぐ目をそらした。「なんとか言ったらどうなんですか」と言うと、歩き始めた。そのあとで「何を言っても目の前で起こっていることが事実ですけど」と言って顔を俯かせる。立ち去ろうとした白布の肩を瀬見が掴んだ。白布は躊躇なくそれを振り払うとそのままわたしの横を通り過ぎていく。すれ違う瞬間に「こんなことをする人たちだとは思いませんでした」と言って、早足で歩いて行ってしまった。
 瀬見がとんでもなく慌てて「おい、、どうすんだよ」とわたしの肩を掴んだ。どうするって言われても。どんどん小さくなる白布の背中を見つめてただただぼんやり思う。それ、白布が言える立場なの? そんなふうに。どんどん、どんどん、小さくなった白布の背中は、もう見えなくなっていて。呆気ない。そう小さく呟いたら瀬見が「あ~~……」と頭を抱えた。
 こんなことをする人たちだとは思いませんでした、って、それよく言えるよね。わたしもだよ。わたしもそう思ってるよ。白布があんなことする人だと思わなかった。そんな自分を棚に上げて、わたしと瀬見にそんなことを言う人だとも思わなかった。ろくにこっちの話も聞こうとしないで自己完結させる人だと思わなかった。喋らなかったのは、わたしだけど。もっと話を聞いてくれると思った。どうして、とか、なんで、とか。わがままだと思う。でも、それでも、白布なら聞いてくれると思ったのだ。

「瀬見」
「おう……」
「ごめんね」

 ぽつりと出た言葉と一緒に涙が落ちた。瀬見はわたしの顔をじっと見てから目をそらすと「別に、俺はいいって」と言ってため息を吐いた。
 全身の力が抜けた。なんか、ずっと持っていた重りがブツッと切れて落ちていったみたい。もう悩まなくていい。もうあの日のことを思い出して泣かなくていいんだ。そう思ったら涙が止まらなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 家の鍵を乱暴に閉めて、鞄はベッドに投げつけた。胸くそが悪い。気分が最高に悪い。ポケットの中に入れていたスマホをベッドに投げつけて、その場に乱暴に座った。クソ、なんだよ。そうガシガシ頭をかく。
 そんなことをする人じゃないと分かっている。さんも、一応瀬見さんも。だから、きっと瀬見さんが言ったようにさんの相談に乗っていただけ、だと、思う自分もいる。でもそれがどうしても許せなかった。俺には何も言わないくせに。仕事の愚痴はおろか、嫌だったこととか気になっていることとか。相談なんてされたことがない。俺には話さないのに、瀬見さんには話すのかよ。
 そもそも友達とご飯に行くって言ってただろ、さん。体調が良くないならやめたほうがいいんじゃないかと思ったけど、仕事が忙しくて友達となかなか会えていなかっただろうし、俺が止めるのもちょっと違う気がした。友達って瀬見さんのことかよ。なら瀬見さんって言えばいいだろ、友達ってわざわざ言い換える必要あるか? 後ろめたいことがあるから言い換えたんだろ? そうとしか思えない。
 瀬見さんの車から降りてきたさんの顔を思い出して、また頭をガシガシかく。顔色が悪かった。ちょっと痩せたようにも見えた。目の下の隈がひどかった。一目見てすぐ気付いた。でも、隣にいたのは俺じゃなかった。さんが頼ったのは俺じゃなくて瀬見さんだった。それが何より、腹立たしかった。
 さん、なんで何も言わないんだよ。言い訳の一つもしなかった。ただただ俺のことを見て黙っているだけだった。もう俺のことはいいや、ってことなのだろうか。もうこのまま終わりになってもいいと思ったから何も言わなかったのだろうか。それが一番、堪えたかもしれない。


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