十二月二十八日、夜十時。わたしはまだ会社にいる。別にこんなに遅くまで残らなきゃいけないほどの仕事は残っていない。でも、家に一人でいるのが嫌でこうして無意味な残業をしている。パソコンの画面を見つめ続ける瞳が悲鳴を上げているけど、目薬を差して黙らせ続けている。もうわたし以外の人が帰った部署はとても静かで、何の音も聞こえない。心地が良い。何も考えずに済む。そんなふうに天井を見上げて伸びをした。
 デスクに置いたままのスマホがチカチカ光っている。白布からのトーク通知だ。六時くらいに送られてきていたそれにまだ返信をしていない。職場にいるし。家に帰ってからいつも返しているから別に変じゃない、し。そんなふうに言い訳をして知らんふりを続ける。
 わたしは明日から正月休みに入る。白布は明日当直に入ってから一応の正月休みに入るらしかった。だから明日は会わなくて済む。……そんなふうに言った自分にへこんだ。あんなに会いたくて仕方なかったのにな。そう小さく笑った。
 頭から消えてくれない。あの日の白布の後ろ姿。甘い香りも目に痛い真っ赤な色も。何もかもが忘れられずに今も頭の片隅のどこかにいる。今朝、着替えるときに見つけた白布がつけた痕。あの口紅はもっと真っ赤だったな、なんて変な思い出し方をして、ちょっとだけ泣いた。
 時計を見ると思い出す。夜の十時。ああ、あのときもそれくらいの時間だったな、って。白布からの連絡を見ても思い出す。わたしに連絡する前にあの人に連絡したのかな、って。白布がくれたもの、白布と行った場所、白布が好きな歌、白布がおいしいと言った料理。すべてに汚れがついてしまったみたいに思い出してしまう。きれいにしたいのにどんなに擦っても落ちてくれない。白布がわたしにつけた痕はいずれ消えるのに。
 パソコンの画面がちょっと滲んでいる。情けない。仕事中にプライベートのことを考えるなんて社会人失格だ。忘れよう。今だけで良いから忘れてしまえ。あの日のことも、白布のことも、何もかも。ぐっと目を瞑って涙を絞り出す。すぐに拭いて大きく呼吸をした。よし。切り替えよう。仕事と夜を過ごすと決めたんだ、今日は。そう自分を鼓舞した。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 連絡がない。さすがにここ最近頻発しすぎな気がして、じわじわと違和感という形に変わっていくのを感じる。仕事が忙しいというのはもちろんそうだろうけど、これまでさんはどちらかというと連絡がまめなほうだった。返信をしないまま寝てしまったり、返信を忘れたりすることはほとんどなかった。それなのにここ最近はそれが続きすぎている。仕事が忙しすぎて疲れやストレスが溜まっているのではないか。そう心配になってしまう。
 確か新入社員の指導係になったと言っていたし、先輩が異動したとかなんとかで仕事量が増えたとも言っていた。クリスマスにはシステム移行があるとも言っていた。相当しんどいのだろうと思う、けど。さんは仕事の愚痴を言わないし、しんどいとも疲れたとも言わない。言ってほしいと思うけど、それを伝えてもさんは笑って「大丈夫」としか言わないだろう。それが少し寂しくもあり悔しくもある。
 時計を見る。もう少しで日付が回ってしまう。まだ返信はない。ふと、さんが昨日買ってきてくれた飲み物に目を向けた。まだ半分くらい残っているそれをありがたく飲ませてもらっている。それをぼうっと見ていたらふと思った。今思えば昨日のさんは少し様子がおかしかった。なんとなく言葉を考えてから口にしているような、何かずっと考え事をしているような。ご飯を食べているときも、しているときも。
 あ、と思った。そういえばさん、昨日は「嫌」とか「やめて」と言わなかったな。恥ずかしがってつい言ってしまっているのは分かっている。でも、やっぱりできたら違う言葉で言ってほしかった。言わなかったのなら俺はいいのだけど、どうしてだろうか。今まで必ず言っていたのに。
 ほんの小さな違和感。それに一人で首を傾げたけど、答えが出るわけがない。次に会ったときに聞こうとカレンダーを見た。明日は今年最後の勤務予定だ。当直か、と正直げんなりしてしまうけど、やりたい仕事だ。頑張るしかない。
 早くそれなりの立場になっていろんなことが落ち着いたら、さんに同居を提案しようと思っている。少しでも一緒にいられる時間がほしい。まあ、まだまだいつになるんだって話だけど。今のままでも努力すれば会えるし嫌というほどの不満はない。でも、やっぱり。顔が見たいときに見られないというのは、正直しんどいと感じるときがある。本当は今日も会いたかったな、と連絡が来ないスマホを見て思ってしまった。


top / 07.いま抱きしめて