十二月二十七日、月曜日。夜六時。
 定時に退勤したわたしは白布の家に来ている。日曜日の夜に白布に「今日も出勤だったよ。連絡遅くなってごめんね」と返したらすぐに「心配しました。よかったです」と返ってきていた。心配してくれていたのなら嬉しい。やっぱり勘違いだったのかも、と少しだけ心が軽くなった。
 月曜日にお邪魔することを伝えたら「早めにあがります」と言ってくれた。わたしが来た今はまだ帰ってきていないから、少し残業しているらしい。相変わらず忙しそうでちょっと心配になる。ちゃんと寝てるのかな。わたしが言うのも変だけど。
 やっぱりあの日のことは白布に聞かないことにした。絶対見間違いだ。だって、白布がそんなことをするわけがないから。そんなこと当たり前だった。目が覚めた。一人でぐるぐる考え続けたらドツボに嵌まっていただろうから、昨日瀬見と話せて気持ちが切り替えられて助かった。あのとき会えて良かった。心の中で感謝しておく。言っても瀬見は訳が分からないだろうけど。
 冷蔵庫の中に買ってきた飲み物を入れてからいつも座らせてもらっているクッションに近付く。ふと、ベッドの端っこに服が置きっぱなしになっていることに気付いた。珍しい。いつもちゃんとしまっているのに。分けて置いているわけじゃなさそうだったし、大体白布の服をしまう場所は知っている。きれいに畳んであるのでしまおうとしてうっかり忘れてしまったのかもしれない。そう思ってしまっておくことにした。
 カラーボックスにシャツを入れて、マフラーはクローゼットの中。クローゼットの戸を開けると、わたしがあげたコートが入っていた。あれ、今日は着ていかなかったのかな。職場にも着ていくことが多いと言っていたけど。不思議に思ったけど、白布が元から持っているダッフルコートがなくなっている。そっちを着ていったのだろう。あれを着ると学生みたいに見えてかわいいんだよね。たまにデートに着てきてねって言ったら不思議そうにしていたのを覚えている。理由を聞かれたので正直に言ったら「絶対着ません」と不満げにしていたなあ。そうくすりと笑って、マフラーをハンガーにかけるべく、位置的に少し邪魔をしているコートに触る。
 一瞬、何か甘い匂いがした。柔軟剤とか消臭スプレーかと思ったけどそんな感じの匂いじゃなかった。何より白布はこういう甘い匂いが好きじゃない。わたしがたまに使っている香水の匂いが移ったのかとも思ったけど、わたしも白布が好きじゃない匂いのものは使わないようにしている。こういう甘い匂いは白布が好きじゃないから使わないようにしている。じゃあ、何の匂いだろう。
 コートに触ったときに感じたからこのコートからだろうか。不思議に思ってコートをクローゼットから出してみた。顔に近付けてすんすん匂いを嗅ぐと、甘い匂いがしっかりついている。何の匂い? お菓子か何かを入れたまま置いちゃってるのかな。そう思ってポケットを叩いていみたら、硬いものが入っていた。なんだろう。手を入れて筒状のそれを出してみる。
 きょとん、としてしまう。見たことがある。最近女の子の間でとても話題になっているブランドのロゴマーク。派手めなきらきらした装飾が話題で、SNSにたくさん写真が載せられている。口紅。どう見てもそれだった。なんでこんなものが白布のコートに。そう思ったら、どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
 恐る恐る口紅のキャップを取ってみる。真っ赤。派手な色だ。わたしはとてもじゃないけど似合う気がしなくて、興味はあるけど買ったことがない。しっかり使用感のあるそれは、もちろんわたしへのプレゼントではない。誰かのもの。それが白布のコートのポケットに入っている。そしてこの甘い匂い。そんなの、あのときしか考えられなかった。



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「ただいま」
「……おかえり」

 白布は七時前に帰ってきた。帰り道で買ったらしいわたしが好きなお惣菜を見せてきて「食べますか?」といつもみたいに聞いてくる。「うん」と言ったらいつも通り机にそれを置いてからコートを脱いだ。ダッフルコート。着ると学生みたいに見えるのがかわいくて、やっぱり好きだ。ねえ、なんで今日それ、着ていったの。ぽつりと思った疑問は声に出せず、噛み砕くしかなかった。
 コートをクローゼットにしまってから白布がお箸を出してくる。ずっとコンビニでもらった割り箸をストックしていたのを使っていたのに、最近ちゃんとお箸を買った。自分のと、わたしの分。色違いのそれをわたしに渡しながら「飲み物どうしますか」と言った。それに「飲み物、買っておいたよ」と笑顔で答える。白布は「え、すみません」と言って冷蔵庫を開けると、わたしがさっき入れたペットボトルのお茶を出しながら「いただきます」と言った。
 仕事が忙しそうですね、と白布が言う。土日両方とも出勤したことになってるんだった。そう思い出しながら「ちょっとね」と曖昧に笑っておく。連絡できなかったから不思議に思っているんだろう。そう分かったから「連絡できなくてごめん」と言っておいた。思った通り白布は「心配は心配ですけど、まあ仕事なら仕方ないですし気にしないでください」と言う。そうだね。仕方ないんだよ。そんなふうに内心返してしまう。
 やっぱり、信じられない。白布がそんなことするなんて思えなかった。でも、状況証拠だけじゃなくて物的証拠がクローゼットにある。これが事件なら完全に白布はクロだ。だから、聞くのが怖くて。
 わたしは白布に飽きられてしまったのだろうか。もういいやって、思われているのだろうか。いろんなことが頭の中でぐるぐると渦巻いて、どんどん深みにはまっていく感覚。聞いたほうが絶対いい。そう分かっているのに一つも言葉に出来ないし、声に出せない。怖い。そうですよ、って言われたらって思うと、怖くて聞けなかった。
 わたしばかりが白布のことが好きで、白布は知らない間に違う女の人のことが好きになってしまったのかな。思い出せば思い出すほど、やっぱりあの後ろ姿は白布以外の誰でもなかった。あのコートはわたしがあげたもので間違いない。だって、コートに白布が好きじゃない香水の匂いがついていて、わたしが持っていない口紅が入っていた。すべてがあの日の光景を現実だと突きつけてくる。

さん、あの」
「……うん?」
「疲れていることは分かっているんですけど、今日いいですか」

 なんとなく申し訳なさそうな声で言った。白布は照れくさそうに視線をそらしながらそう言うと、小さく咳払いをする。今日いいですか、は白布からのお誘いの言葉だ。最近は聞いた記憶がない。久しぶりに言われたな。月曜日に言うのは珍しい、というかはじめてかもしれない。たぶん次の日もお互い仕事があるから遠慮しているのだと思っていた。わたしからそういうことを誘うのは恥ずかしいから誘うのは必然的にいつも白布から。基本的に断ったことはない。
 あの女性に触れた指で、わたしにも触れるんだ。そう思ったけど頭の中でかき消して「いいよ」と答えた。その代わりに泊まっていってもいいかと聞いたら白布は「え、逆にいいんですか?」と目を丸くした。着替えも最低限の化粧品も置かせてもらっている。白布の家から出勤することに何の問題もない。今までは白布の邪魔になるかとわたしが勝手に判断して帰っていたけど。白布は少し照れくさそうに笑って「無理はさせませんので。しんどかったら言ってください」と言った。いいよ。無理をさせても。内心で思ったけど言葉にはしない。
 比べられたらどうしよう。恥ずかしくて白布にされるがままなだけのわたしを白布はどう思っているのだろう。つい「嫌」とか「やめて」とか、恥ずかしくて言ってしまうわたしをどう思っているのだろう。口からつい言葉が出てしまっても拒否したことはないのだけど。面白くないって思われているのかな。つまらないって、飽きたなって思ったから、あの人と会っていたのかな。それならもうとっくに比べられているのかもしれない。
 前に一度だけ、白布に言われたことがある。恥ずかしいのはよく分かるけど、できれば「嫌」とか「やめて」と言わないでほしい。そうは言われてもわたしの口から出るのはそういう言葉ばかりだった。本当に嫌なわけでも、やめてほしいわけでもない、けど。どうしても恥ずかしくて言ってしまうのだ。そういうところが、嫌、だったのかな。じゃあわたしが二番だ。頭の中でぽつりと呟いて、少しだけ鼻をすすった。
 白布に触られるのは嫌じゃない。白布じゃない人に触られるのは絶対嫌だ。白布じゃないとわたしは嫌だ。だから恥ずかしくても拒否しないし、本当は触ってほしいなって思っている。でも、白布はわたしじゃなくて、いいんだ。わたしじゃない女の人のことも触るんだ。友達が前に彼氏に浮気されたと泣いていたことを思い出す。男なんてみんなそうだって悲しそうに泣いていた。白布もそうなのかな。そう思うとなんだか体がずっしり重くなった。
 二人で食べ終わったものを片付けて、白布がお風呂の準備をしてくれた。お風呂が溜まるまで待っているとき「あれ、服しまってくれました?」とベッドの隅を見て白布が言った。ちょっとどきっとする。あれを見たことに気付かれるかもしれない。どきどきしながら「うん、しまっておいたよ」と笑って答える。白布は「すみません。ありがとうございます」と笑って言った。朝バタバタしていて畳んだは良いけどしまい忘れたのだと言った。そういうこともあるよね。穏やかなまま終わった会話にほっとする。よかった、気付かれていない。そんなふうに。
 お風呂からあがって、髪を乾かして、歯を磨いて。どんどん夜が更けていく。あの日、白布を見かけたくらいの時間だな。ぼんやり頭でそう思っていたら「さん」と密やかな声がした。熱っぽい。そういうときの声だった。好きだなあ。静かに水が流れるみたいな、穏やかで繊細で、優しく光るような声。わたしはこんなにも好きなのに、白布はどうなんだろう。優しく口付けられて余計に胸が痛くなった。
 嘘なのかもしれない。白布の口から出る言葉も、指先から感じる温かさも、溶けるように熱い瞳の鋭さも。全部全部。嘘かもしれない。涙が出そうだったけど堪えた。ここで泣いたら余計に白布にうんざりされそうで。「嫌」とか「やめて」とかも言わないようにぎゅっと唇を噛んだ。比べられたくない。二番でもいいから、嫌にならないでほしかった。わたし、そう思うくらいには白布のことが好きだよ。
 白布がわたしの首元を少し噛んだ。よくこんなふうに甘噛みをしてくるのだけど、本当はちょっと痛い。最初は本当に甘噛みだったのだけど、最近は割としっかり噛まれている気がする。癖になっているみたいで、するときはほとんどどこかしらを噛まれるようになった。でも、痛いとかより、少し経ってから跡が浮き上がってきたりするから困る、というほうが悩みだった。服で隠せないところをたまに噛んでくるから、場所は選んでほしいなって思っている。でも言わない。そうされるのが嫌じゃないから。こんなこと、白布にしかさせないよ、わたし。白布は他の女の人にもしているのかも、しれないけど。
 堪えきれなかった涙が一筋落ちたのを、白布が指ですくってくれる。「大丈夫ですか」と言った優しい声が、どうしても嘘に聞こえなくて。わたしがばかなのか、白布がすごいのか、もうなんだかよく分からなかった。


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