現在時刻、深夜二時半。現在地、会社。以上が今の地獄だ。
 わたしのグループの人たちが帰っていった一時間後、悲劇が起きた。起きた、というかようやく悲劇に気が付いた。手伝っているグループがクラウドに保存している元データを確認しようとファイルを開いたら、目が点になった。真っ白だったのだ。何一つ保存も処理もできていない。いやいや、そんなわけがない。疲れていて見るところを間違えたんだきっと。そんなふうに何度も部署で共有しているクラウドに入り、処理別に保存されているデータをクリックした。けれども、待てど暮らせど、保存されたデータは出てこない。
 ひーひー言いながらデータ処理を行っているグループの人たちに、恐る恐る事実を告げた。その場の時間が一瞬で凍ったし、誰も何も声を上げなかった。数秒経ってからようやくグループのリーダーが「嘘でしょ?!」と泣きながら叫び、職場は阿鼻叫喚に包まれてしまった。原因はデータの保存形式の選択ミスだったり、そもそもバックアップを取り損ねていたり、そもそも保存の仕方が間違っていたりといろいろ。分かることはすべてはじめからやり直し、ということだけだった。
 わたしは自分のデスクをそのグループの島に入れてもらって、徹底的にミスがないかをチェックしながら作業を手伝う役に回っている。みんな泣きながら「ごめんね、ごめんねえ」と言ってとんでもない勢いでキーボードを叩いている。謝らなくて良いですよ、むしろ今日気付いてよかったです。あとわたしが残っていてよかったです。自分で言うのもなんだけど。そう返しながらわたしもさすがに目がうつろになってきた。
 これは徹夜コースかもしれない。徹夜なんて会社に入って一度もしたことがない。すでにテンションがおかしくなっているので楽しみになってきた。徹夜、徹夜かあ。明日というか六時間後には休日出勤なんだけどねえ。おかしい、一日って何時間だっけ。そんなわたしの様子に上司が「これ食べて、飲んで!」と差し入れを買ってきてくれた。
 そんなこんなで、徹夜を覚悟していた作業だったけど、どうにかギリギリ四時台に終了できた。グループの人たちみんなから泣きながらお礼を言われ、リーダーからも泣きながら謝罪を受けた。誰にだってミスはある。でも、あの、今後はご勘弁ください。そうへろへろになりながら言ったら力強く頷いてくれた。役に立てたのなら残って良かった。素直にそう思った。
 このまま会社で寝ていく人もいるようだったけど、お風呂には入りたい。幸いわたしは会社から家まで一駅、十分徒歩で行ける距離だ。「じゃあ、お疲れ様です」と言って会社を後にした。
 歩きながら白布からのメッセージをどうしようか考える。こんな時間に返して万が一起こしたら申し訳ないし、返すなら朝かな。あと残業のことは黙っておいたほうが良さそうだ。気を遣われるかもしれない。昨日はうっかり寝落ちして返信できなかった、ということにしておこう。そんなふうに考えながらスマホをポケットにしまった。



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 クリスマスの土曜日。朝から休憩に入る余裕がないまま働いた。新しいシステムのプロジェクトチームに入っているから、いろんな人からヘルプを求められて自分の仕事が全然進まなくて参ってしまった。わたし以外のプロジェクトチームの面々も同じで、外が暗くなってきたことに気付いて遠い目をしていたっけ。あとひと踏ん張り。明日は日曜日だし、頑張って九時くらいに上がれたらいいな。ちょっと無理そうだけどそんなふうにぱしん、と自分の顔を叩く。
 今日は頑張った、と、自分で思う。たぶん無理だろうけど早めに終わらせられたら、白布の家に行きたいな。頑張ったご褒美としてちょっと甘えてみようかな、なんて思って一人で照れてしまった。今朝連絡ができなかったことを謝るメッセージを送ったら、白布から心配したというメッセージとともに「いってらっしゃい」と返信が来ていた。それを見たら頑張ろうって朝から元気になった。だから、今日はどこまでも頑張れる日。自分をそう励ました。
 バタバタしつつもどうにかシステム移行作業が完了したのは、夜十時前。まあ、そうだよね。苦笑いをこぼして白布の家に行くのはやめておくことにする。明日は日曜日だしいいかなって思ったけど、よくよく考えたらこんなくたびれた姿を見られたくないな、なんて乙女心が出た。
 家の最寄り駅に到着したわたしは自分で分かるほどげっそりしていた。結局システム移行でもトラブルが続出、本当はまだ確認作業があった。いろんな人にヘルプを頼まれていたし、このままもう少し残業になるはずだったところを上司が「昨日大変だったから帰りなさい!」と言ってくれたのだ。わたしのグループの人たちも昨日の悲劇を聞いて「帰りなって!」とみんな口を揃えて言ってくれた申し訳なかった。でも有難い。結構ボロボロだったし、素直に甘えさせてもらって退社。ふらふらと駅から出て、家に向かうべく歩いている。
 ああ、そういえば白布からのメッセージ、返してない。仕事が終わったら返そうと思っていたけど忘れちゃってたな。でも会社から出て歩き始めちゃったし、家についてからにしよう。そう思って家までの近道の路地を、行こうとしてやめた。そうだった。ここは白布から一人のときは歩かないようにと言われたところだ。狭くて人気がなくて薄暗い。わたしの家の最寄り駅は賑やかでいろんなお店があるのだけど、ちょっといかがわしいお店もある。そのせいか治安が悪いイメージがある、なんて言われたりもするのだ。白布もそれはよく気にしていた。暗いし人気のない路地なんて危ないから歩かないでください、とやけに真剣に言われたっけ。心配性だと思うけど白布に言われるとなんとなく歩きづらくて。いつも駅前の大通りを歩いている。
 ふらふらと人混みに紛れて歩いて行く。土曜日だからなのかやたら人が多いな。そんなふうに周りを観察していると、女の人の大きな声が耳に突き刺さった。ちょっと泣いている声だった。あんまりにも大きな声だったのでびっくりしてしまった。カップルの喧嘩か何かかな。そう少し視線を先に向けた。
 誇張でもなんでもなく、呼吸が止まった。立ち止まってしまったわたしにぶつかった人が「危ねーな」と舌打ちをこぼしたのが聞こえる。それにも反応ができないまま、じっと前を見て、間抜けに固まってしまう。
 ラブホテルの入り口。そこに見覚えのある男物のコートを羽織った、女の人。その人が腕を絡めている、男の人。ぎゅうっと力一杯その腕に抱きついているのが分かる女性と、それを受け入れている男性。女性と男性。ラブホテルから出てきた男女から、目が離せなかった。
 わたし、そのコート、知ってる。毎年同じコートを着ているから気に入っているのか聞いたら、新しい物を買おうにもどんなのがいいか分からなくて買えずじまいでいるだけ、と言っていた。だから、わたしが似合うと思うコートを一週間くらいいろんなお店を見て探したのだ。気に入らなかったらどうしよう、と思ったけど。渡したらちょっと照れくさそうに「ありがとうございます」と言った顔を今でも覚えている。喜んでくれて嬉しかった。あげたその次の日からずっと着てくれるようになったのが嬉しかった。だから、忘れるわけがないのだ。
 冬の冷たい風にさらりと揺れる髪。最近切ったばかりのそれがちょっと気に入らなかったらしくて、早く伸びないかとぼやいていた。さっぱりしていいとわたしは思ったのだけど。でも、やっぱりちょっと短すぎたかもね。まるで別人みたいに見えた。もうちょっとだけ長いのがいつもの髪型だ。でも、わたしが、白布のことを、見間違えるわけなんか、なくて。
 最近家に行っても、何もしてこないなって思っていた。飽きられたのかと不安になって服の雰囲気を変えてみたり、少しだけ香水をつけてみたり、いつもより距離を詰めて隣にいたりしたけど、何一つ効果はなかった。そっか。そうなぜだか、少しだけ笑った。そんなわたしの耳にあの女性が「もうこのまま賢二郎くんと結婚しちゃうもんね!」と言った声が、恐ろしいほど鋭く刺さった。賢二郎くん。わたし、白布のこと名前で呼んだことないなあ。高校時代の先輩後輩というのはなかなか薄れない記憶だ。白布と呼ぶのが当たり前になりすぎているし、白布も同じ。未だにお互い呼び方を変えられずにいる。
 くるりと方向転換する。さっき通りすぎた路地の入り口まで戻って、迷わず路地を歩いた。誰も歩いていない路地はとても静かで、暗くて、本当は少し怖かった。でも近道だからとよく歩いていて。だから、危ないから一人で歩かないでって言われたとき、すごく嬉しかった。嬉しかったんだ、わたしは。
 連絡もなかなか取れなくて、休みもなかなか合わなくて、クリスマスでさえ会えないんじゃ仕方ない。あんなふうに腕を絡めて歩くのも恥ずかしくてやったことがない。可愛げがない。自分で痛いほど分かっている。あんなふうに甘えてくるかわいい人のほうがいいに決まっている。仕事ばかりで、可愛げがないんじゃ、勝ち目がない。横顔しか見えなかったけどとてもきれいな人だった。なぜか少し崩れていたけれど、とてもきれいに化粧をしている、女性らしい人って印象だった。
 路地を抜けて、家の近くには出たけれど。なんとなく家に帰りたくなかった。やっぱり会社、残ればよかったな。そんなふうに思いつつ家とは別の方向へ歩く。合鍵をもらったとき、わたしも自分の家の合鍵を渡した。万が一家に来られたら今、ちゃんと喋る自信がない。まあ、来ないだろうけど。そんなふうに思って鞄をぎゅっと握った。


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