十二月二十四日、金曜日。世間はクリスマス・イヴで騒がしい中、わたしはすでに屍と化している先輩たちに交ざって、システム移行前の最終チェックに追われていた。データのバックアップや締めが間に合わないものの処理、新しいシステムでできなくなるものへの対応。山のようにやることが机の上に溜まっていき、疲労はピークに達している。
 わたしの隣の席で男性の先輩が「今年もクリスマスケーキ、一緒に食べられないかも……」と遠い目をしている。去年のシステムトラブルで家に帰ることができなかった先輩は、帰宅後娘さんに延々泣かれたらしい。一緒にケーキ食べるって言ったのに、と。
 時刻は夜十時を回っている。ちょうど二時間前に新入社員の子たちは帰したのだけど、部署のほとんどの人間がまだ職場に残っている状態だ。明日の移行作業が長引くほうが地獄だし、起こりうるトラブルの元になりそうな穴はできる限り潰しておきたい。そう思っているから黙って作業を続けている。他の人も同じだろう。そのために家族との約束を断念した人や恋人との約束を断念した人、果てには今日が恋人の誕生日だけど泣く泣く、という人までいた。わたしも、一応、恋人との約束を断念した人に含まれているけれど。約束というほどじゃないけどね。そんなふうに一人で苦笑いをこぼしてしまう。
 わたしの前の席に座っている女性の先輩が「あれ、さんも彼氏いたよね?」とおでこに貼った冷えピタを直しながら声をかけてきた。わたしに彼氏がいることを知っているのはその先輩と上司くらい。娘さんとの約束に嘆いていた先輩が「え、彼氏いるんだ?!」とちょっと驚いていた。

「約束とかしてないの? 大丈夫?」
「いや、予定があるかは聞かれましたけど約束というほどでは……。まあお互い忙しくてそれどころじゃないですし」
「彼氏何の仕事してるの?」
「大学病院で研修医をしてますよ」
「えっ、お医者さんの卵だ?!」

 すごーい、と先輩が言った。それがなんだか嬉しくもあり照れくさくもあり。すごいんです、わたしの彼氏。そう心の中で言うにとどめておく。先輩たちは続けて「じゃあなかなか会えないでしょ?」と眉を下げた。その通り。苦笑いで肯定しておくと「寂しいね……お互い……」と遠い目をした。みんなで乗り切りましょう、この地獄を。そう拳を握ったら「えいえいおー」と元気のない声が返ってきたので笑ってしまった。
 今日白布は早出だったはず。残業をしているとしてももう家にいる時間帯だろう。そんなふうに時計を見ていると、机の上に置いたままのスマホが鳴った。パソコンの画面から目を離して通知欄を見ると、ちょうど白布からのメッセージ通知だった。すごいタイミング。そんなふうに少し笑いながら既読を付けないように通知欄のままメッセージを見てみる。「帰りました」とだけ来ていた。思った通り。仕事中は私用の連絡に返事はしない、と決めているので内心「ごめんね」と謝りつつ、スマホから目をそらした。
 わたしが担当しているデータ範囲を管理しているグループは順調に進んでいるのだけど、他のグループがあまりうまくいっていないらしい。このままじゃ帰れない、とどんより暗い雰囲気が島を包んでいて、なんだか見ていられなかった。わたしは数十分あれば終わらせられる量になっているし、他の人たちも三十分もあれば帰られるだろう。終わったら手伝いに回ろうかな、と思っていると娘さんとの約束に燃える先輩のスマホが鳴った。どうやら奥さんかららしい。その文面を目で追ってからどんより項垂れたところからして、娘さんのことを何か言われたのだろう。

「あとそれだけですよね? わたしやっときますよ」
「えっ?! いやいや、いやいや?! いいよ、大丈夫、気にしないで!」
「でも娘さんが可哀想ですし。わたしももう少しで終わりますから、気にしないでください」
「で、でも〜……」

 罪悪感でいっぱいな顔が、わたしの前に座っている女性の先輩に向く。女性の先輩はわたしを見てから「さんに感謝して帰らせてもらったら?」と困ったように笑う。話を聞いていた上司も「僕も手伝うし、娘さんのために今日は帰ったほうがいいよ」と言った。グループの他の人もそう言うと、その人はちょっと泣きそうになりながら「すみません」と言って席を立った。よかった。娘さん、許してくれるといいですね。そう声をかけたら「ほしいもの考えといてね……!」と言って走って帰っていった。お礼なんていらないのに。そう笑ったら女性の先輩がため息をついた。

さんのそういうとこ好きだけどさ、たまに心配になるわ〜」
「え、どうしてですか?」
「自分のことも大事にしてあげなくちゃ。人に甘えるとか、そういうの苦手なタイプでしょ」

 エナジードリンクをぐびぐびビールみたいに飲みながら言う。先輩は「あーダル」と言いながら時計を見た。住んでいるところが少し離れている先輩は終電が少し早めなのだ。あと三十分もすれば帰って行くだろう。
 甘えるのが苦手、か。そう言われて思い当たる節がないわけではない。思い当たる節はあるけど、でも、どうにもならないことだから仕方がないのだ。わたしばかりわがままは言っていられない。そんなふうにへらりと笑って「そうですかね?」と返しておいた。
 それから三十分後、わたしのグループはほとんどの作業を終えてみんな帰る準備を始める。上司が帰っていくみんなにお礼を言いながら見送ったのを、わたしも一緒に見送っていると「あれ、さんも終わったでしょ?」と首を傾げられた。他のグループの分もやれるところはやって帰ります、と言ったら他のグループの人が「本当ですか?!」と泣きそうな顔でわたしを見る。残っているグループの人たちは比較的年配の人が多い。そのせいなのかシステムの使い方は分かっているけれど、元々パソコンが得意じゃない人が多いのだ。エクセルにデータを移したり使ったことのない機能を使ったりする作業に苦戦しているらしかった。
 いくつかできそうな書類を受け取っているわたしを上司が「いいの?」と申し訳なさそうな顔をする。どうせ今帰っても白布に会いに行ける時間じゃない。内心そうちょっとへこみつつ、へらりと笑う。予定もないのに家に帰ってしまうより人を手伝ったほうが有意義だ。そう笑って言ったら、なんだか余計に申し訳なさそうな顔をされてしまった。
 しかし、この一時間後。とんでもない事態になることを、わたしはまだ知らなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 通知がつかないスマホを見て、ちょっと不安を覚える。さんから返信がない。どうやら仕事中は返信をしないようにしているらしいのだけど、いつも仕事が終わったらすぐ返信をくれるのに。俺が十時すぎに送ったメッセージは未だに未読のままだ。元々今日は残業になると聞いていたけどさすがに遅すぎないか。ちらりと時計を見るともう日付が変わっている。明日も休日出勤だと言っていたはず。ちょっと、働き過ぎ、だと思う。そんなふうに心配してしまった。
 これまでただの一度もそんなことはなかったけど、もしかしたら返信し忘れてそのまま寝たのかもしれない。ここ最近のさんはいつも忙しそうにしていたしありえない話ではない。むしろ残業をしているより家で眠ってくれているほうが安心する。顔色があまり良くないことには気付いている。仕事に真面目に取り組むところは好きだし尊敬しているけど、もう少し自分の体のことも気遣ってほしい。そう思うが、社会人としてどうしようもないこともあるだろう。一般企業に勤めた経験がないから、なんとなく言えずじまいでいる。
 だから、まあ、無理させないように、いろいろ我慢しているつもりだ。うちに来たときは休めるように話すだけ。何か求められたら話は変わるけど、そうじゃない限りは手を出さない、とか、そういうふうに一応気は遣っている。さん、そういうことするの、あんまり得意じゃなさそうだし。拒否されたことはないけど。別にしなくてもいいって考えの人だとなんとなく感じている。声を出すのをいつも我慢したり、出しても「嫌」とか「やめて」とかそういうことばかり言われると、少し思うところがあって。行動で拒否を示されたことはないし、恥ずかしがって言っているだけだとは分かるけど。なんとなく自分の欲に付き合わせてしまっている気がして、気が引けるときがある。
 そういえば最後にしたの、いつだっけ。そう思い出してみて片手の指を全部折ってしまうことに気が付く。キスしたのももう五日前くらいだった気がする。最近あんまりさんに触れてないな。認識したら余計にむなしくなった。


top / 03.この瞳が嘘をつく