二年前の梅雨。宮城の支社に夏から異動になった、と伝えたら見たことがないくらい目を丸くした顔をよく覚えている。少し間を空けてから「エイプリルフール、結構前に終わりましたけど」と言ったときにはもう顔が笑っていて、おこがましいのだけどとても嬉しそうに見えた。それがわたしも嬉しくて笑ってしまったっけ。
 社会人四年目に突入したわたしは、まあ、それなりに頑張っている。新年度、新入社員のまとめ役になぜか抜擢された。新入社員の指導係は決まって別の人が担当していたのに。困惑しながら上司に言ったら「若い子同士のほうがいいかと思って」と言われた。分からなくはない。確かにわたしがいる部署は平均年齢が少し高めだ。新入社員が入ったのだって定年退職した人の補填。わたしでも一番歳が近い先輩は十歳くらい離れている。ずっと指導係をやっていた先輩が「最近の子となかなか話が合わない」とぼやいていたらしい。それがきっかけでわたしに白羽の矢が立ったようだった。
 いろいろ苦労はあったけれど、夏を迎える頃にはみんな大体のことはできるようになった。ミスは少ないし分からないところはちゃんと聞いてくれる。そんな新入社員の様子を見た上司に「指導係がしっかりしているからだね」と褒められたし、今まで指導係をしていた人にもお礼を言われた。ちょっと、いい気分。なんて思っている。他にもいろんなプロジェクトメンバーに選ばれたり、そこそこ重要な役目をもらったりして、大変ながら充実した毎日を送っている。
 白布と付き合い始めて二年が経った。医学部をストレートで卒業した白布は、第一志望だった大学病院で研修医として働いている。大学時代と変わらず多忙な日々を送っていてなかなか会えないときもあるし、二人でのんびりしていると白布が寝落ちすることもよくある。でも、大学六年のときには卒業に向けて徹夜も辞さない気概で頑張っていたり、第一志望の大学病院に面接に行く前日の夜中に「気合い入れてください」と電話をしてきたり。そういう姿をずっと見てきたから、会えなくても我慢できる。頑張ってね、と心の中でいつも応援できるのだ。
 研修医とはいえ医師免許を持っているので、たまに当直についたり休日に呼び出されたりしている。簡単な処置をしたり患者さんと話したりもするそうだ。当直や呼び出し、残業などは基本的に研修医にはないよう配慮されているらしいのだけど、たぶん、白布は優秀だから。慌ただしくしているところを見るとそう自慢したくなるのだ。優秀なんです、この人。そうにこにこしていると白布はいつも不思議そうにする。でも決まって申し訳なさそうに「すみません」と言うのだ。わたしは、それが、いつも申し訳ない。
 大学を卒業してから白布は研修先である大学病院の近くに引っ越した。白布の家からわたしの家までは電車で四駅になった。ちなみにわたしの会社から白布の家は電車で三駅。そんな感じで、白布の家とかなり近くになったのだ。そのおかけで仕事終わりに時間が合えば白布の家に行くようになった。白布がたまにわたしの家に来ることもあるけれど、頻度としてはわたしがお邪魔することのほうが多い。残業で夜遅くなることが結構あるからだ。
 最初のころは「行ってもいい?」と事前に連絡を入れていたのだけど、一ヶ月経ったくらいに白布が合鍵を渡してきた。「連絡なくていいので、いつでもどうぞ」と。ちょっと照れくさそうだったのがかわいくてからかったら、その日は散々な目にあったな、なんて思い出して恥ずかしくなった。

「冷蔵庫に入ってるやつ、好きに食べてください」
「え、いいの?」
さんが好きそうだなって思って買ったやつなので」

 バタバタと鞄に資料か何かを入れて、スマホを手に取った。白布はちょっと疲れたような顔をしつつ「すみません、いってきます」とわたしに言って靴を履いた。その背中に「いってらっしゃい」と声をかけると「日付が変わる前には帰ります」と言って、出て行った。
 金曜日の仕事終わり、白布の家に来たら白布はいたけど、もうすぐに出ないといけないと言った。家には物を取りに帰ってきただけだったらしい。ちょっと残念に思いつつ見送ったところだ。頑張っているのだから邪魔はできない。そう、閉まったドアにぽつりと心の中で呟いた。
 ベッドの近くに置かれた本棚。小さめだからもうすでに本が入りきっていない。入らない分は机の上に並べられているのだけど、きちんとしているからか散らかった印象には見えない。几帳面。頭の中でそう呟いて笑ってしまう。大学を卒業してからも勉強をする日々は変わらない。たまにぐったりしているときもあるけど、概ねやりがいを感じて充実していると本人は照れくさそうだった。
 白布が忙しいのはもちろんなのだけど、この頃はわたしも少し忙しい。同じ部署のベテランの先輩が本社に異動になってしまったからだ。先輩がやっている仕事はわたしに引き継がれることになり、もうしばらくしたら新入社員にも少し分けてもいいと言われている。引き継ぎやら新入社員指導やらに加えて、システム移行のプロジェクトチームに入っているので毎日てんてこ舞いだ。残業も増えてなかなか白布の家に寄ることができない日が多い。
 前に、夜の十一時を超えてから、どうしても顔が見たくて家にお邪魔したことがある。あれは確か水曜日だった。次の日も仕事があるし、白布はわたしより早く家を出る。もう寝ているかもしれないと思いつつ、その日はどうしても我慢ができなかった。毎日めまぐるしくてなんだか一息吐く暇がなくて、白布の顔を見たら元気になれるなあ、なんて思ったのだ。そんなふうに迷惑を承知で家に行ったら、案の定白布はお風呂から上がったまま寝落ちしていて。まだ髪が濡れていたから風邪を引くといけないと思って、タオルで静かに拭いたっけ。本当は起こしたかったけど起こせなかった。無理を承知で来てしまった自分がとても恥ずかしかったし、白布はいろんなものを犠牲にして頑張っているのに、となんだか申し訳なくなった。それ以来、夜の十時以降はどんなに会いたくても家に行かなくなった。
 ぽつりとこぼしそうになった言葉を慌てて飲み込む。それから苦笑い。一人でいるとよくこんなふうにしている。だめだな、わたしは。そう困ってしまった。



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「ごめんねさん、せっかくのクリスマスなのにね……」

 申し訳なさそうに言っているのはわたしの上司。心からの謝罪を無下にはできない。笑って「大丈夫ですよ」と返しておいた。
 来週に訪れるクリスマス。今年はその日が土曜日だ。本来であれば休みなのだけど、わたしは部署のシステム移行作業のために休日出勤になった。上司はわたしに付き合っている人がいることを知っていて、どうにか別日にできないかと日程調整をし続けていたらしい。けれど、当日は業者が入るし通常業務に支障が出るとのことで予定通り土曜日に行われることとなったそうだ。そんなに気にしなくてもいいですよ、と言ったのだけど上司は「でも去年も……」申し訳なさそうな顔をさらに深くした。
 去年のクリスマス・イヴ、クリスマスともにわたしの会社はシステムトラブルが原因でほとんどの社員が長時間残業となった。わたしもその一人。すぐに正月休みに入るタイミングだったので会社内は大荒れだったし、わたし自身も正直死ぬ思いをしたっけ。思い出すとげんなりしてしまう。
 特にイベント事をそこまで気にするタイプではない。たぶん白布も。今年のクリスマス・イヴもシステム移行前日の準備で残業が確定しているし、今年も何もなしかな。去年は後日会ったときにちょっとしたプレゼントのやりとりはしたけど。まあ、憧れがないわけではない。ほんの少しだけ残念に思う気持ちはある。でも仕事は仕事だ。嫌だと言ってもやらざるを得ない。
 上司には「本当に大丈夫ですよ!」と笑ってもう一度言っておく。わたしの顔を見て上司は少しほっとしたように「ありがとうね」と言って、他の休日出勤が確定している人に声をかけてに行った。



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「二十五日って空いてますか」

 定時で上がった仕事帰りに白布の家に寄った。白布も今日は残業なしで帰ってきていたらしく、久しぶりにゆっくり話せる時間がありそうで少し嬉しい。そんな矢先、白布からそう聞かれてちょっとびっくりしてしまった。
 二十五日。クリスマス当日だ。白布がその日を休日の土曜日と捉えているのか、クリスマスと捉えているのかは分からない。でも、はっきりクリスマス当日の予定を聞いてきたのははじめてだったから、つい面食らってしまった。
 空いていたら、よかったんだけど。苦笑いをしてしまう。白布はわたしの表情で察したようで「予定ありますか?」とほんの少し怪訝そうに聞いてきた。それはそうだ。自分の恋人が土曜日のクリスマスに予定を入れていたら誰だってそんな顔をする。わたしが白布の立場だったとしても間違いなくそんな顔をするだろう。より苦笑いを深めつつ「その日、休日出勤になっちゃって」と頭をかいた。

「珍しいですね。そんなこと今までありました?」
「う、疑いの目をしてる……でも本当なの。システム移行があるから作業しなくちゃいけなくて」

 ごめんね、と言ったら白布は「まあ、仕方ないですね」と小さく苦笑いをこぼした。何時くらいに終わるのか聞かれたけど、正直トラブルが起こらないわけがないし何とも言えないのが現状だ。すでにわたしは残業するつもりでいる。たぶんその日は会えないと伝えると、ちょっとだけ、しょんぼりしたように見えて。わたしが都合良く解釈しているだけかもしれないけど、こっそり嬉しかった。白布もそういうの、実は気にしてたんだ。なんだかいつも大人っぽくてクールなことが多いからイベント事なんで馬鹿らしいと思っているかもしれない、なんて思っていたから。まだまだわたしが知らない白布の顔があるものだな、なんて楽しみが増えた。
 ついでに前日も残業だから家にお邪魔するのは控える、と宣言しておく。白布は「働きすぎなんじゃないですか」と呟いて「まあ、俺が言うのもあれなんですけど」と続けた。確かに。笑っていると白布はバツが悪そうに咳払いをした。


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