大きなため息。人混みに紛れて消えてしまうそれにもう一つため息。数日前までの闘争心むき出しの自分はどこへ行った。そう壁に寄りかかってもう一つため息をついた。
 返事はなくて良いと言ったのは自分だ。返事があるわけない。それなのに毎日スマホをついつい見てしまって、情けない限り。全然吹っ切れてないじゃん。当たって砕けたのに砕けた破片を接着剤でくっつけようともがいているようで、本当に情けない。川西が来たらちょっとだけ喋ってすっきりしよう。そう腕時計を見る。五時五十分。あと十分で何度ため息をつくか数えておこう。自虐ネタとして一生その回数を覚えておくことにした。そう、またため息をつく。
 いつもつけているバレッタ。それをつけ直してから鞄を肩にかけ直す。このバレッタも、もうつけないほうがいいかな。つけるとどうしても思い出しちゃうし。今日がつけ納めだなあ、なんて。高校を卒業してからずっとつけていたから少し傷がついたり金具が緩んできている。新しい物を自分で買おうかな。これに似たものを選んでしまいそうだけれど。今更だけど、こういうのをつけている子がタイプだったのだろうか。今日はバレッタで髪をハーフアップにしただけ、化粧も薄いし着てきたワンピースも単色の地味なもの。このバレッタが似合うようなかわいい服装ではない。そんなもうどうしようもないことを考えて、一人で苦笑い。砕けた恋に先なんてないのだ。もう終わったこと。あの赤いチョコが白布の腹の足しになっていればそれでいいんだ。
 足下に視線を落とす。返事はいらない、なんて怖がりだから書いただけだ。フラれるのが怖かっただけ。逃げたんだなあ、わたし。それはそれで情けない。せっかく天童たちが応援してくれたのに。やっぱりだめだったよ。心の中で報告しておく。

さん」

 はっと顔を上げる。川西の声、じゃなかった。目の前は行き交う人波。幻聴かな、と思って一応左右をきょろきょろしてみた。そして、左側に、その人を見つけてしまった。

「それ、俺にください」
「……」
「ちょっと、あの、さん?」
「……」
さん、なんで逃げるんですか」

 イライラした声で言いながら白布が追いかけてくる。なんで? 川西は? なんで白布がここにいるの? 人の迷惑にならない程度の早歩きで出口のほうへ歩いて行くと、白布も追いかけてくる。歩幅は白布のほうが大きい。すぐに追いつかれて、腕を掴まれた。声にならない声を上げて振り払うと、白布が盛大に舌打ちしたのが聞こえる。またわたしの右の手首辺りを掴むと「逃げないでください」と明らかに怒った声で言った。

さん」
「……川西は?」
「来るなって言ってあるんで来ません」
「……なんで?」
「俺がそれももらうんで」
「あ、あげないよ……?」
「は? なんでですか」
「だってこれ、あの、失敗したやつだし……」
「それでも太一が食べるのは癪なんでもらいます」

 わたしの左手にある紙袋をひょいっと白布が取っていってしまう。泥棒だ。そう呟いたら白布は「なんとでも言ってください」としか言わなくて、返してくれなかった。
 なに、これは、どういう状況? なんで白布が東京にいるの? なんで川西に来るなって言ってあるの? なんで失敗したチョコまでもらってくれるの? 川西が食べるのは癪ってどういう意味? 全然分からない。分からないけど、白布に掴まれている右手首が嘘みたいに熱くて、殺そうとしたはずの心臓がうるさく音を立てていた。ともかく手を、離してほしい。

「白布、離して。離してくれないと泣くからね」
「それは困るんですけど」
「離して。それはあの、あげるから」
「逃げないなら離します」
「逃げるよ」
「堂々と宣言してくれますね。なら離しません」

 白布はわたしの右手首を掴んだまま端っこに移動していく。「どこか入りませんか」と言うので、近くにコーヒーショップがあるからそちらへどうぞ、と指を差したら「いや、さんも行くんですよ」と当たり前のように言われた。行かないよ、何が悲しくて片思いの相手とお茶しなきゃいけないの。そうは言えなかったけど「嫌だ」とだけ答えた。白布はそんなわたしの様子に少し黙ってから、なんとなくバツが悪そうに頭をかく。それから「じゃあ、あの、嫌ですけどここで言います」と言った。何を。あなたの気持ちには応えられませんすみません、ってやつですか。そんなのお店の中で向かい合って言われる方が嫌だよ。ぐず、と鼻をすする。泣きそう。返事はいらないって書いたのに。こうなるのが怖かったから、そうしたのに。白布のばか。そう心の中で呟いておく。

「好きです」

 涙が引っ込んだ。鼻水も引っ込んだ。やっぱり幻聴でも聞こえてるんじゃないだろうか。そう俯いたままでいると、白布が「聞こえてますか」とわたしの顔を覗き込んだ。

さんのこと、高校のときから好き、なんですけど」
「……」
「聞こえてませんか? それとも無視してますか?」
「…………む、無視しようと、してる」
「なんでだよ」

 白布はハッとした様子で「すみません」と咳払いをした。思わずため口が出たらしい。それどころじゃない。なんか、すごい言葉が、聞こえた気がする。わたしの妄想かな。それとも夢かな。この右手首に感じるぬくもりも全部、夢なんじゃないだろうか。
 うるさい駅のいろんな音が耳に痛い。白布の言葉は全部、この音に紛れた幻聴だったかもしれない。わたしが都合の良いように聞き間違えたのかもしれない。だって、そんなの、考えたこともなかった。わたしはただの先輩で、白布はわたしになんか興味なくて。そうとしか思ったことがなかった。だから、到底、自分の耳を信用できなくて。

「う、嘘だ……」
「嘘じゃないです」
「いいよそんな気を遣わなくても……自分のこともっと大事にしようよ……」
「なんで俺が怒られてるんですか」

 白布は少し苛立った様子で、バーッととんでもない勢いで話した。やたら練習中に備品の場所を聞きに行ったのも、わたしが落としたヘアフックを渡しに行ったのも、途中まで送ろうかと声をかけたのも、インハイのホテルで寝てしまったわたしを起こさなかったのも、進路のことを聞いたのも、バスで隣に座ったのも、卒業式で写真を撮ったのも、この前の飲み会で無理にでも顔を出したのも、一緒にタクシーを待ったのも、マフラーを借りたままで帰ったのも、ご飯に二人きりで行ったのも、全部。全部、そういうことだったのだと、白布は一息で言った。

「ついでに言うとその髪飾り」
「卒業祝いでくれたやつ……?」
「卒業祝いなんて他の先輩に渡してません」
「えっ」
「それ、さんに渡したくて、買ったやつです。渡せたのが結局卒業式になりましたけど」

 けれど、天童にもこのバレッタの話をしたけど、特に会話が噛み合わなかったなんてことなかった。それを指摘したら白布は「それは天童さんが話を合わせただけです」と言った。衝撃。白布曰く天童はそれ≠ノ気が付いていたらしく、わたしが参加できなかった飲み会で指摘されたのだと照れくさそうに教えてくれた。
 話が繋がった。ああ、だから。この前の飲み会で天童が急に白布に電話をかけたことも、それをやけに他の同輩が「大丈夫だから」と言っていたのも、変にみんなが優しかったのも、そのあとにまるで告白が成功した体で話をしてきたのも、全部わたしと白布両方の気持ちを知っていたからだった、のか。

「……わたしが三年のときのバレンタインのチョコ、覚えてる?」
「覚えてますよ。当たり前じゃないですか」
「赤いチョコ、入ってたでしょ」
「今回くれたものとそっくりのハートやつですよね。入ってましたけど」
「あれ、ね」
「なんですか」
「……白布にしか、入れてないの、気付いてなかった?」

 白布にだけ入れた赤いハートのチョコ。それだけ一目で分かるように店員さんに袋を分けてもらったことを思い出す。渡すとき、変に思われないように白布に渡す袋にだけ付箋を貼って、渡す直前見つからないように剥がしたのだ。まんまと白布の手に渡った赤いハート入りのチョコ。それだけで満足していたなあ。
 突然白布がわたしの右手首を掴んだまましゃがんだ。気分でも悪くなったのかと驚いてわたしもしゃがんで「どうしたの?」と声をかける。白布は微動だにしないまま一つ息を吐いた。大丈夫かな。心配になって顔を覗き込もうとしたけれど、白布の顔は右腕と膝で隠れていて見えなかった。

「気付くわけねえだろそんなの……」

 ぼそりと呟かれた言葉。悔しそうな、恥ずかしそうな声色が、かわいくて。笑ってしまう。白布はその瞬間に顔を上げて「何笑ってんですか」とわたしを睨んだ。顔が真っ赤だ。たぶん、わたしもだけど。


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