お風呂に入って、歯を磨いて、髪を乾かした。短くなった髪はすぐに乾くからドライヤーの手間が少なくなった。それがここ最近ずっと寂しかったのだけど、今日は寂しくなくて。上京したその日から変わらないままの自分の部屋。椅子にかけたままのバレー部のジャージがとても眩しく見える。それを見ながら間抜けにベッドに寝転ぶ。どうしよう、全部、夢だったのでは? そうぽつりと呟く。けれど、さっきまで着ていたコートと一緒にかける予定だったマフラーが、ない。確かに巻いていたそれがない。その事実があまりにも嬉しくて。ベッドの上でごろごろと転がり回ってしまう。
 白布がタクシーから降りる前、話をしながら頭の中でぐるぐる考えていた。どうにか、ここで終わらないための何かはないか、と。ただの先輩としか思われていないことは分かっていたけれど、実際本人を前にするとふつふつとそんな欲が出てきた。友達でも、先輩でもいいから特別になれないかと思ってしまった。また会えるような口実がないかな。そう考えて考えて、タクシーが停まって財布を出そうとしている白布を見て思いついた。これでも白布に片思いをしてかなりの年数が経つから性格はよく分かっているつもりだ。可哀想だけど、それをちょっと利用させてもらおうと思った。
 お金はいいと言えば白布は「いえそれくらい出せますから」の一点張りだった。思った通り。白布なら絶対そう言うと思った。白布が財布を開こうとしているのを邪魔しながらドアを運転手さんに開けてもらって、いざそのときになったら緊張してしまったことを思い出す。勇気を振り絞って言った言葉に白布は「必ず返します」と言ってくれた。必ず。その言葉に少し浮かれていたら、白布がタクシーを降りてから「マフラー、借りていってもいいですか」と言った。もともとそのつもりだし、もうどうせならあげてもいいくらいの気持ちだったから「もちろん」と返した。そうしたら白布が「試験の結果が出たら連絡しますから」と言ってくれた。わたしが白布の性格を利用して取り付けたぼんやりした約束なんか、消え去るくらいはっきりした約束。嬉しい。少なくとも嫌われているとか面倒だとか、そんなふうには思われていない。それだけで浮かれまくってしまうくらい嬉しかった。
 浮かれているわたしのスマホが鳴る。着信だった。こんな時間に誰だろう。枕元に置いてあるスマホを手に取ると、画面に表示されていたのは天童の名前だった。

「もしもし」
『あ、ちゃん出た〜! お疲れ〜!』
「結構酔ってるね? まだ山形の家で飲んでるの?」
『そうだよ〜ん! さっき獅音くん帰っちゃったとこ〜』

 山形の家で天童、川西、瀬見の四人で飲み直している。一緒に行った大平は結婚しているし、奥さんが待っているからと帰って行ったそうだ。そりゃそうだ。今頃奥さんに怒られてなきゃいいけど。苦笑いをこぼすと天童が「それよりも、それよりも」と何かを促してくる。何? そう首を傾げると「あのあとどうなった?!」と瀬見が聞いてきた。いつの間にかスピーカーにしていたらしい。

『え、え、もしかして今、賢二郎の家にいたりする?!』
「は?」
『マジかよ、テンションが上がるな』
「いや、ちょっと」
『白布どうしてます? 緊張してます?』
『緊張する賢二郎見たいな〜!』
「いや、普通に自分の家にいるから」
『あ、そうなの? さすがにそこまで進展しなかったか〜』

 なんとなくかみ合っていない気がする。それに困惑しつつ話そうとするのだけど、妙にテンションが高い酔っぱらいたちが勝手に話を進めていく。どんな告白になったの、とか、白布どんな反応だったの、とか。全員わたしが白布に告白して成功したと思っているらしい口ぶりだった。そんなわけないじゃん、なんでそう思ってるんだろう?

「あの」
『デートどこ行く? どこ行っちゃうの?!』
『白布のことだから図書館とか美術館だったりしてな』
『ありえる』
『さすがにそれはないっスよ。白布はちゃんとネットで調べまくって無難なとこにするタイプですね』
「ちょっと!」
『うん? 何〜?』
「あの、告白してないし、してたとしてもオッケーもらえるわけないでしょ……?」
『え』
『え』
『え』
『え、賢二郎何も言ってなかった?』
「白布? 何もって、たとえば何?」

 騒がしかった四人が一斉に静かになる。その静寂の意味が分からなくて「どうしたの?」と苦笑いをこぼしてしまう。ようやく口を開いた川西が「白布とどんな話したんスか?」と聞いてくる。どんな、って言ってもお互いの近況を話したり高校時代の思い出話をしたり、他愛もない話ばかりだった。楽しかったなあ。そうさっきまでの時間を思い出していると、思い出した。そうだ、一応白布を呼んでくれたのは天童だし、気を利かせてくれたのだから報告しておこうかな。そう思って、また会う約束ができたことを話した。
 天童が急に「ちゃん、俺たち至急の用事ができたから切るね。またご飯行こうね!」と言って、四人が「おやすみ〜」と声を合わせてから電話が切れる。一体何だったんだ。疑問は残ったけれど気にしないことにした。
 短いのも似合いますね。さん、髪がきれいだから。白布の言葉を思い出す。ロングヘアの女の子が好きだと一年生のころに白布が川西と話していたのが聞こえた。そのときボブくらいだったわたしは、その日から毛先を整える以外では髪を切らなかった。伸ばしはじめて少ししたくらいは結ぶこともできないし髪が鬱陶しくて仕方なかったっけ。ロングヘアの友達に髪の手入れの仕方を教えてもらったり、シャンプーを替えてみたり。いろいろ試して、そのためにお小遣いを使っていたなあ。短くなった髪を指ですくって笑う。無駄じゃなかった。きれいだって、お世辞でも言ってくれた。あの頃のわたしのささやかなアピールは無駄じゃなかったんだ。ここにないマフラーがそれを現実だったと証明している。そう、嬉しかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




『何やってんの?』
「いや、あの、うるさいんですけど」
『何やってんだ根性なし』
「うるせえよリピート四年生」
『なんで? お前なんで告白してないの?』
「ところで瀬見さん今日の服ヤバかったですね、相変わらず」
『え、分かる? これ超人気のヴィンテージショップの、』
『英太くんステイ。あと褒められてないからね?』

 家に帰ってレポートを片付けているとまたもや天童さんから着信があった。仕方なく出たらこのザマだ。出なけりゃよかった。そう後悔してももう遅い。
 さっきから黙って聞いていると、どうやら俺がさんに告白すると思っていたらしい。なんでだよ。するわけないだろ。好きな人がいるの知ってるだろ、あの場にいた全員。何もしないやつは大馬鹿だと思い直したが、だからといって結論を急ぐわけがない。ちゃんと会う約束、確実なものにしたし。俺にしては頑張ったほうだろ。そう自分を褒めながら上機嫌でレポートを書いていたというのに。

『でも約束はできたんだろ?』
「なんで知ってるんですか」
『頑張ったじゃん根性なし。次絶対告れよ根性なし』
「だからなんで知ってんだって聞いてんだよリピート四年生」
ちゃんにもさっき電話したから〜!』

 なんでだよ。こぼれそうになった言葉を飲み込む。天童さんたちは散々好き放題話してから「で、次いつ会うの?」と引っかき回してくる。誰が教えるか。茶化されっぱなしでたまるかよ。「決まってませんし決まってても言いません」と返せば山形さんが「言わなくても良いからマジで告れよ」とやけに真剣に言った。なんでですか。そう思ったけど「善処します」と返しておき、何か天童さんが言おうとしたのを無視して電話を切ってやった。
 また集中を切られた。天童さんからの電話に出るときはタイミングを考えよう。背もたれにもたれ掛かって伸びをする。視線を右側に向ければ、カーテンレールにハンガーを引っかけてあるのが見える。さんに借りたマフラー。はじめは自分の服やマフラーがかけてあるのと一緒にかけようと思ったけど、なんだか、目に見えるところに置いておきたくて。我ながら気持ち悪い。そう少し恥ずかしくなった。机に頬杖をついてぼけっとさんのマフラーを見ながら、さんの顔を思い出す。短くなった髪やはじめて見た化粧をした顔。変わったところは多くあったけれど、何も変わらない。それが嬉しかったし困ってしまった。いつまでもきっと忘れられないんだろうな、と。忘れるつもりもないけれど。


top / 17.その唇が愛おしい