どうしよう、困った。思わずそう喉の奥で呟く。まったく何を話せば良いのか分からない。さんも俺と同じらしくさっきから黙りこくっている。そりゃそうだ、ただの後輩が突然馬鹿みたいな薄着で現れて、突然二人きりにされているのだから。天童さん、本当の本当に許さない。さんに変なこと吹き込んでないか気がかりで仕方ない。どうせこの状況を元々作るつもりだったのだろう。クソ、分かっていたのに罠にはまってしまった。
 さっきからさんが貸してくれたマフラーから、知っているようで知らない匂いがして落ち着かない。妙にくすぐったくて体が勝手に温まる。そんなことを思っているなんてさんにバレたら気持ち悪いと思われる。どうにか変に思われないように平常心を保つことに専念した。
 ちらりとさんを盗み見る。短くなった髪。高校時代はロングのイメージがあったけど、短いのも、普通に似合う。それは俺がさんのことが好きだからなのかもしれないけど、とりあえず、かわいいなと思った。さんの髪に付いている見覚えのある髪飾り。俺が四苦八苦して選んだものだ。たまたまさんの好きな色で、好きな柄だったのだろう。それを選んだ自分を大いに褒めたい。似合っているとかかわいいとか、そんな気の利いた言葉も言えない根性なしだけど。
 でもあんなにきれいな髪だったのに、どうして切ってしまったのだろう。短いのも似合うしただのイメージチェンジだと思うけど、ちょっともったいないと思う自分がいた。高校時代のさんの髪が風になびいてきらきら光るのとか、横を通るとかすかに香るシャンプーの匂いとか……これ以上思い出すと普通に気持ち悪いやつになるからやめておく。正直さんの髪が短くなろうが長かろうが、どっちでも変わらない。どっちも似合うしどっちもいい。やっぱり、好きだ。そう思うとさんを盗み見るのも恥ずかしくなってきた。目をそらして息を吐く。いつまでもタクシーが来なければ良いのに。
 ただの後輩から抜け出すにはどうすればいいのだろうか。何をすればさんに少しでも意識してもらえるのだろうか。素直でかわいい後輩≠フままでいい、なんて嘘をついた自分を反省しながら少し考える。もしさんが高校のときに好きだったその人のことをまだ好きだったとしても、ほんの少しだけでも、意識されたい。そうは言っても経験値が低すぎてどうすればいいのか皆目見当が付かない。考えに考え抜いた結果、ぎこちなく口を開いた。

さん、髪切ったんですね」
「あ……うん。気分転換に」
「短いのも似合いますね」
「本当?」
「……か」
「なに?」
「……なんで切ったんですか?」

 本当にただの根性なしだった。かわいい、とか言ったことないし、言うキャラでもないし。そう延々と言い訳を並べながらさんの返答を待つ。さんは笑って「本当にただの気分転換だよ」と言った。そりゃそうだ。女性が髪を切ったら失恋の証拠、なんていうのはもうずいぶん古い考え方だ。もしかしたら、なんて下等な期待をしたのは事実。そんな自分を心から軽蔑するし、会話が下手すぎることに落ち込む。

さん、髪がきれいだから切るとき躊躇されたんじゃないですか」
「……そ、そんなことはないけど、ちょっと言われたかな」

 さんは少しびっくりしたような顔をした。変なことを言っただろうか。その表情の意味はよく分からなかったが、そのあとさんがはにかんで「変じゃなくて良かった」と言うので、少なくとも不快にさせたわけではなさそうでほっとする。
 まだ営業中の飲み屋の明かりは、冬空の下でオレンジや赤色の温かい色味をしている。吹く風は冬の澄んだ香りを運んでくる。冷たいそれは少し呼吸をすると痛く感じてしまうけれど、ちっとも早く帰りたいとは思わない。ぽつぽつと話をしているだけなのに時間はあっという間に過ぎていく。腕時計をちらりと見るとちょうど日付が回った。
 すぐ近くの交差点で信号待ちをしているタクシーが見えた。きっとさんが呼んだタクシーだろう。表示板が「予約」となっている。もう来たのか。そう小さくため息をついてしまう。せっかく久しぶりに会えたのに結局何も言えなかった。またなんてからかわれるのかを想像すると嫌になる。さんのマフラー越しに自分の腕を無意識にさすると、さんが「タクシーまだかな。寒いよね」と苦笑いをこぼした。

「タクシー、信号待ちしてますよ」
「あ、本当だ。よかった」

 ほっとしたような声。それはそうか。この時間が終わってしまうことを惜しむのは俺だけだ。さんからすれば寒いし久しぶりに会ったただの後輩と二人きりで気まずいし、でいいことなんか一つもない。高校時代に片思いしていた相手なら喜んでずっとここで話していただろうけど。そう自分で思ってへこむ。
 信号が青になる。タクシーが左側に車体を寄せながらハザードを出した。やっぱりさんが呼んだタクシーだった。他の誰かが呼んだタクシーならよかったのに。そんなことをぼやぼや思っている俺より先にさんが立ち上がる。タクシーの運転手に声をかけドアを開けてもらう。俺を振り返ると「白布、ほら」と手を引っ張られた。その手が少し温かくて、あの日の夏を思い出してしまった。
 さんに押し込まれる形でタクシーに乗り込むと、隣にさんが座る。ドアが閉まってから「白布の家どこ?」と聞かれ、運転手に答える形で大体の場所を告げ、そのあとにさんが実家の住所を告げた。運転手が道順を確認してからゆっくりタクシーが動きはじめる。ここから車なら俺の家までは十分もかからない。もうすぐに着いてしまう。
 どうにかして、何か、次に繋げられるようなことは言えないだろうか。さんの話に言葉を返しながらこっそり考える。卒業式の日に渡した髪飾り。今はさんに渡すものなんてもちろん持っていないし、さんの中に何かを残せるような術もない。

「明後日……というかもう明日だね。試験なのに出てきて大丈夫だったの?」
「息抜きにちょうどいいかと思って。たぶん落ちることはないと思います」
「白布、高校のときからバレー部で一番成績良かったもんね」

 見慣れた道。いつも大学へ通うために歩いている道だ。もう見えている角を左に曲がればアパートのすぐ近く。きっとその辺りでタクシーは停車してしまう。ぐるぐると考えても良い案は浮かばない。試験合格したら一緒にご飯行ってください、とか正直下心を勘付かれる予感しかしないし、そもそもさんは今東京に住んでいる。正月休みにまた実家に顔を出しに来るとは言っていたけど、さすがにそんなときにただの後輩に会ってくれる気がしない。近くなくても良い。すぐに会えなくてもいいから何か、会う約束を取り付けても不自然じゃない理由がほしかった。
 うかうかしている間にタクシーが停車した。回り道した分の料金を、と口を開こうとしたらさんが先回りして「お金は大丈夫だよ」と言った。大丈夫じゃない。好きな人に奢られるような男にはなりたくない。問答無用で財布を取り出していると、さんはおかしそうに笑って「いいってば」と邪魔をしてくる。ついでに運転手に俺側のドアを開けるようにお願いすると、冷たい風がびゅうっと吹き込んできた。

「ここはいいから、また一緒にご飯でも行こうよ」

 気になるならそのときに飲み物でもご馳走して、と付け足してさんが笑う。口実が勝手に降ってきた。少し驚いてしまいながら「必ず返します」と言って財布をしまっておく。好きな人にタクシー代を奢られる男になってしまったけれど、そのおかげで次に繋がった。
 タクシーを降りようとした瞬間、さんのことだから社交辞令になりかねないと思った。ダメ押しがほしい。そう思ったとき、ふわりと香るくすぐったい匂いに気が付いた。タクシーを降りて車内を覗き込む。「さん」と声をかけたら「ん?」と笑いかけてくれた。

「マフラー、借りていってもいいですか」
「もちろん。むしろ風邪引いちゃうからそのまま持って行って」
「また返します。試験の結果が出たら連絡しますから」
「分かった。頑張ってね」

 バタン、とドアが閉まった。走り去っていくタクシーをしばらく見送り、見えなくなってからちょっとガッツポーズ。やった。柄にもなくそう呟いた。


top / 16.指先から恋