飲み会が解散し、店の外に出るなり天童が急に白布に電話をする、と言い出した。その瞬間本当に心臓が止まりそうなほど焦った。天童のことだから絶対に余計なことを言うし、嫌な予感しかしない。それに都合が悪くて来られない人に電話をかけるなんて迷惑にも程がある。止めようとしたときにはすでに手遅れ。天童はスマホを耳に当てていた。今のうちにこっそり帰ってやろう、と思ったのに山形と瀬見に話しかけられて帰るに帰れなくて。
 少し離れたところで白布と話しているらしい天童のことが、気になって仕方なかった。山形と瀬見、途中から会話に入ってきた大平の話が耳に入ってこない。電話に出たってことは、白布、今はもう家にいるのかな。大学の用事とか試験の勉強とか、いろいろ忙しくて今日来なかったとはいえもうそろそろ日付が回る時間帯だ。電話くらいなら出られるのだろう。
 そこからは天童の独壇場だった。急に大きな声で「ちゃん!」と名前を呼ばれたから「え?」と天童を振り返った。そんなわたしに瀬見が青い顔をして「なんでもないから、大丈夫だから」と言うから気になって。ちょっと、まさか。そうわたしも青い顔になった瞬間「賢二郎に会いたいって言ってたよ!」と天童の声がその場に響く。山形が「やっちまったな」と呟き、大平が「さすがにフォローが難しい」と苦笑い。瀬見はあわあわとわたしの顔を覗き込みながら「大丈夫、本当そういうんじゃなくてな、とりあえず大丈夫だから!」と無駄に大丈夫大丈夫と繰り返した。大丈夫じゃない。人の失恋をおもちゃにして! そうムカついて天童に近付こうとしたら瀬見と大平が「まあまあ、まあまあ、落ち着いて」とわたしの腕を掴んできた。落ち着いてられるかこの状況! 白布が変に思うじゃんか! 山形がわたしの鞄を掴んで「本当に! マジで! 大丈夫だから!」と必死に言う。なんでそう言い切れるの!
 天童が「ん!」と笑ってスマホをわたしに向けていた。いつの間に移動してきたの天童。びっくりしつつ天童に怒ろうとしたけど、スマホの画面が明るい。着信中の文字の下に白布の名前が表示されているのが見えた。ここで天童を怒ったら白布に聞かれる。一応、乙女心はまだある。白布にそれを聞かれるのは嫌だった。仕方なく恐る恐る天童からスマホを受け取った。違う、ただ、ただ後輩と話すだけ。別に緊張なんてしていない。だってわたし、どうせただの先輩でしかないから。不毛な想いは持っていたって邪魔なだけ。電話の向こうにいるのは好きな人じゃない。ただの、素直でかわいい後輩だけ。そう思えば緊張なんてしないはず、なのに。

『お久しぶりです』

 何も変わらない白布の声。ちょっと疲れているように聞こえたけど、本当に何も変わっていない。そう思った途端に一気に緊張してきてしまった。白布と電話なんてしたことないし、何を話せば良いのか分からない。沈黙になるのが怖くて慌てて近況を聞いてみたり今日の飲み会での話をしたり、とにかく思いついたことを何でも口にした。あ、と思ったときにはもう遅くて。わたしばかり話してそこそこ時間が経っていた。しまった、白布はこんな話を聞いても何一つ面白くないだろうに。付き合わせてしまった。これまた慌てて謝って、電話を切ろうとした、のに天童がスマホを奪っていく。いや、元々天童のスマホなので勝手に切ろうとしたわたしが悪いのだけど。でももうこれ以上何か変なことを言われても困る。切ってやる。そう天童からスマホを奪おうと頑張るけど、やっぱり天童のほうが一枚上手で。天童に小声で文句を言っていると、横から川西がスマホを取っていってしまった。天童と違って川西なら変なことは言わないはず。スマホは諦めて天童の背中をバシバシ叩いてやる。

ちゃん」
「何?! もう天童から連絡来ても返信しないからね!」
「賢二郎のこと本当に好きなんだね」
「……なに、急に」
「電話してるとき見るからに緊張してたから俺まで緊張しちゃったヨ〜」

 「頑張った子には飴あげちゃう」と言ってコートのポケットから飴を出す。わたしにそれを握らせると「いじわるしてごめんね」と言った。なにそれ。ぎゅっと飴を握って「別に」とだけ返す。天童はけらけら笑って「ねーねーちゃんがかわいいんだけど〜!」と大平たちに言う。やっぱり許さない。もう一回背中を叩いておいた。
 髪を切った日の夜、ちょっとだけ泣いたことを思い出す。卒業するとき言っちゃえばよかった。そんな後悔が少しだけふつふつと胸の奥でずっとくすぶっていて。どうにかこうにか蓋をして見えないように広がらないようにしていた。美容室の床に広がる自分の髪の毛を見下ろした瞬間、その蓋にしていた封が緩んでしまって。アシスタントの人がほうきでわたしの髪の毛を掃いてちりとりで回収してしまった。そのときわたし、切ったことを後悔した。鏡に映る自分。お姉さんが「短いのも似合いますね」と言ってくれたのに、ちっとも、そう思わなかった。鏡の中に映るふがいないだけの自分。それが寂しくて悔しくて、どうしてわたしはこうなんだろうって泣いた。ふがいない自分から脱却するために好きでいることをやめようって決めたのに、髪が短くなった自分を見て、その踏ん切りが付かなくなってしまったのだ。
 卒業してから何度かしか会っていないのに、一日のどこかで白布のことを思い出すのだ。医学部に進んだと聞いたから医学部がどんなところなのかとか、どんな勉強をするのかとか、いろいろ調べてしまった。白布の大学のホームページをちらっとだけ見てしまった。上司の息子さんが医学部に通っていると聞いてものすごく食いついてしまった。白布が好きだと言っていたものや、白布が持っていたものを見かけたら、つい、目をやってしまった。ふがいない。とても。
 そんなこと知ったって、目で追いかけたって無駄なのに。無理だと、叶わないと分かっていても言ってしまえば良かった。すっぱりそこでフラれてしまえば笑い飛ばして諦められたのに。高校のとき、わたしを好きだと言ってくれたあの子のように。全力でぶつかってしまえば、こんなに情けない自分は今いなかったかもしれないなあ。そう思ったら目の端っこが少し濡れた。

「えっごめん、ちゃんごめんね?!」
「天童のせいで絶対鬱陶しいって思われた」
「それはないよ?! それは大丈夫だからね?!」
「絶対思ってる。白布だもん。絶対勉強の邪魔だった」
「そんなことないよ〜賢二郎絶対喜んでたってば」
「なんで喜ぶのただのどうでもいい高校時代の先輩が面倒な質問してきてどうでもいい話されただけじゃん」
ちゃん、自己評価が低すぎない?」

 ぐずっと鼻をすすって腕時計を見る。十一時三十分。あと二十分で終電だ。そろそろ駅に向かっておいたほうが安全かな。そう思って「じゃあ」と目をこすりながら歩いて行こうとする、のだけど。川西が「いやいや夜はこれからなんで」と通せんぼしてきた。これからも何も、帰れなくなったら困るんだけど。わたしだけじゃなくて川西たちだって終電が近いはずなのになんで解散しないんだろう。もう他のみんなは続々と帰って行ったあとなのに。わたしたちだけまだお店の前でわちゃわちゃしている。終電を逃したらどうしてくれる。天童にタクシー代は出してもらうからね。そう鼻をすすると、川西は知らんふりしてなのか「今日寒いっスね」と空を見上げた。そりゃそうだ。十二月の下旬なのだから寒くないわけがない。マフラーを巻いてきて正解だった。お気に入りのグレーのマフラー。今年買ったばかりだ。本当は手袋もしてこようかと思ったけど、実家からそんなに遠くなかったしほとんど店の中にいるだろうからと思って持ってこなかった。まさかこんなに外で駄弁ることになるなんて思っていなくて、手がかじかんできた。コートのポケットに手を入れて暖を取りつつ、ふと気付く。そういえば天童が白布に電話をかけはじめたときから、瀬見とか山形、大平がずっとわたしを引き止めるように話しかけていた。今の川西もだ。よく分からない。分からないけど、まあ仲の良い同輩と後輩だ。気付かないふりをして足を止めておくことにする。さすがに十分前くらいになったらもう帰らせてもらうけど。駅までは歩いて五分ほどだし、十分前でも少し怖いくらいだ。
 濡れてしまった目の端っこが乾いた。冬の風でそこだけやけに冷たく感じる。わたしの恋は枯れて踏ん付けられてしまった上に冷たくなって干からびてしまったんだな、なんて笑ってやる。きれいに咲いた花が見たかったなんて贅沢は言わない。せめて、人知れずどこかの片隅で咲いていてほしかったな。なんて。ポエミーなことを頭の中で呟く。
 川西とぽつぽつ話をしていると、横断歩道のすぐそばに立っている瀬見が「あ!!」ととんでもなく大きな声を上げた。びっくりしてわたしも川西も瀬見のほうを見てしまう。何? 電車の時間間違えたとか? 瀬見ならやりかねないけど、散々確認していたしそうじゃなさそうだ。不思議に思っていると川西も「あ」と声をもらす。本当に何? 川西を見上げて「どうしたの?」と聞いてみる。川西が口を開くより先に「あー!」と天童が満面の笑みを浮かべて横断歩道の先に向かってブンブン手を振った。

「賢二郎じゃ〜ん! 久しぶり〜!!」

 体が固まる。天童がそんなわたしの両肩を後ろから掴むと、ぐるっと横断歩道のほうに向けさせた。そのままわたしの右手を取って勝手にブンブン振り回す。「賢二郎〜!」と楽しげに言う天童のことなんかどうでも良くて、横断歩道の向こう側、信号待ちをしている白布を、見つけてしまった。明らかに不機嫌そうな顔をしてこちらを睨み付けている。川西がぼそりと「あれブチギレてますよ」と天童に言う。けれど、天童はへっちゃらといった様子で「え、たぶん俺じゃなくて太一にじゃない?」と笑った。たぶんここにいる全員にだと思う。突然電話がかかってきたかと思えばギャアギャア喚かれて、相当ストレスだっただろう。ようやく体が動かせた。天童の手を振り払って「ちゃんと謝らなきゃだめだよ」と言うと、天童が「え、なんで?」とけろっとした顔で言うので絶句した。
 車の流れが止まった。歩行者信号が青色になると、白布がこちらを睨み付けながら歩いてくる。その様子を見守りながら山形が「というかめちゃくちゃ薄着じゃないか?」と苦笑いをこぼす。白いコートを着ているのかと思ったけど、よく見てみればぺらぺらの白衣で。明らかに十二月下旬に出歩く格好ではなかった。風邪、引いちゃうよ。大事な試験の前なのに。緊張とか申し訳なさとかよりも心配が勝ってしまった。なんでコート着てないんだろう。忘れちゃったのかな。いや、白布に限ってそれはないか。念のために持ってきていた新品のカイロの存在を思い出して急いで取り出す。封を開けてシャカシャカ揉んでいるうちに、白布がこちら側まで来て、まずは横断歩道に近いところにいる大平たちに「お久しぶりです」と声をかけた。二、三話してから白布はぐるっと勢いよく顔をこちらに向けた。鬼の形相。まさにそれでちょっと怖かった。ずんずんと歩いてくる白布は派手な舌打ちをこぼした。怒ってる。とても。でも、それよりも赤くなった鼻と血色が悪く見える唇、明らかに震えている手が気になって仕方なくて。
 白布と目が合った。その瞬間、気のせいかもしれないけどパッと普通の顔になってから「お久しぶりです」と声をかけてくれる。ちょっとそれに驚いて「あ、久しぶり」と間抜けにしか答えられない。怒ってない、のかな。あんなに怖い顔してたのに。そう思っているとまた白布が怖い顔をした。その視線は天童と川西を交互に見ていた。

「どうもお久しぶりです、根性なしです」
「うわ、激ギレじゃん賢二郎。太一ファイト〜!」
「根性なしの白布くん、久しぶり」
「元気そうだな、二年連続大学四年生確定野郎」
「めっちゃキレてんじゃん……」
「あと、言っときますけど一番天童さんにキレてます」
「マジで? ごめんね?」

 黙って天童たちの会話を聞きながら、ちらりと白布を見てしまう。久しぶりに会えた。ちょっと痩せた、かな。筋肉が落ちてしまったのかもしれない。髪型とか雰囲気は何にも変わっていない。あの頃の白布のままだ。カイロを揉んでいた手が止まる。ふつふつと水が沸騰しそうになるのを、どうにか止める。ただの後輩。ただの後輩が制服から白衣に変わって、わたしと同じだけ年齢を重ねただけ。たったそれだけ。別に何も特別なことはない。そう自分に言い聞かせる。

「じゃ、そういうわけで! 賢二郎、ちゃん、またネ〜!」
「は?」
「ほらほら英太くんたち〜! 隼人くんちで飲み直しだよ〜!」
「勝手に決めんなよ?! 俺んちかよ?!」
「俺も行っていいスか」
「いいに決まってんじゃ〜ん! あ、ちゃん引き止めたの俺だしタクシー代渡しとくね」
「いや、電車まだ……あ」
「ね、もう間に合わないでしょ。いいからいいから、もらってといて」

 お札をわたしに無理やり握らせる。天童は返そうとするわたしの手をひらりと躱し、瀬見たちの輪に交ざる。それに川西もついて行くと、また青信号に変わった横断歩道を渡って行きながら「じゃ〜ね〜! 報告待ってるよ〜ん!」と手を振って去って行ってしまう。最悪。天童、本当に許さない。白布変な顔してるじゃん。せっかく来たのにもう行くのかよって思ってるじゃん、絶対。なんでわたしだけ残されたんだろって思ってるよ。天童に握らされたお札はきれいに二つに折って財布にしまっておく。使わないように避けて。
 どうしよう。急に静かになってしまって落ち着かない。白布はぽかんと横断歩道の先を見つめたまま動かない。そりゃそうだ。状況が飲み込めていなくて普通だ。白布の横顔を見てまた泣きそうになってしまう。どうしよう。これ以上変に思われたくない。それに白布寒いだろうし、と思ったところでハッとした。

「ところで何でそんな薄着なの?!」
「あ、はい、大学にコートを忘れてしまって」
「だめでしょ?! 大事な試験の前なのに! これカイロ!」
「すみません。ありがとうございます」

 白布にカイロを握らせるけどそれだけでは心許ない。慌ててマフラーを外そうとしたら「いいです、大丈夫です」と白布が止めてくる。大丈夫じゃない。鼻の頭が真っ赤だし唇の色が悪い。分かりやすく凍えているくせに。白布を振り切ってマフラーを外す。半分に折ってあるそれを広げればストールにもなるサイズだ。広げて白布に無理やり渡すと「すみません」と言って大人しく羽織ってくれた。
 ここにいたら寒いし、白布は早く家に帰りたいだろうし。わたしはタクシー呼ばなきゃ。へらりと笑って「災難だったね、突然呼び出されて」と言う。なんでも白布は大学で勉強をしていたところだったらしい。仕方なく切り上げてこっちに来てくれたとのことで、ため息をつきながら「相変わらずで困りますよ、天童さん」と呟く。なぜだかわたしが謝っておきつつ「わたしここでタクシー待つから。気を付けてね」と声をかけた。けれど、白布は動く気配がない。もしかしてタクシーが来るまで一緒にいてくれるつもりだろうか。駅から近いと行っても時間が時間だ。それなりに時間がかかってしまう。白布に「大丈夫、白布は早く帰って勉強頑張ってね」ともう一度声をかけてみる。けれど、やっぱり帰ろうとしなかった。

「……タクシー来るまでいます」
「本当に大丈夫だってば。風邪引いちゃうし……」
「夜中に女性一人は普通に考えて危ないですよ」
「本当に大丈夫だから。女性って言ってもわたしだしね」
「大丈夫じゃないですよ」

 そんなに頼りない先輩だっただろうか。ちょっとへこむ。そう苦笑いをこぼしてスマホを操作する。タクシーを呼ぶ手配をしつつ「白布の家って近く?」と聞いてみる。大学のすぐ近くのアパートで一人暮らしをしているらしい。なら一緒にタクシーに乗ったら風邪を引くリスクも低まるかな。白布にそう提案したら「じゃあ、お願いします」と素直に聞いてくれた。
 何、話そう。聞きたいことはたくさんあったけど、いざ本人を目の前にすると言葉が出てこない。ただの後輩。ただの後輩。そう何度も唱えるけど、そう簡単に心臓は静かになってくれない。ふがいない自分と情けない自分、未練がましい自分がいっぺんに顔を出している。どうしよう、困った。


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