「白布、俺帰るから鍵閉め頼むなー」
「分かったから早く帰れ」
「お前は研究室の主か」

 同輩はけらけら笑いながら「てか、お前そんな勉強しなくても受かるだろ、共用試験」と言って研究室から出て行く。落ちる心配はそこまでしていない。ただ、だからと言って慢心すると足をすくわれるかもしれない。やるなら徹底的に、限りなく完全に近づける。そうすればなんだってうまくいく。
 同輩の言うとおり、今日くらい別に勉強しなくたって大丈夫だと俺も思った。でも、ヘマをしたら再試験があるとはいえ留年の危険があるし、大体合格すると言うやつもいるけど試験は試験だ。試験を二日後に控えた中、別のことに意識を持って行かれると本当にまずい気がした。
 シャーペンの芯が折れた。クソ、結局集中できていない。机の上に置いてあるスマホに視線をやってしまう。俺が通う大学の近くで、バレー部OBが集まって飲み会をしている。二ヶ月前にバレー部OBのグループトークに日時と場所の連絡があった。一週間以内に参加か不参加か回答するようにと大平さんが発信すると、すぐに何人かが「参加」と返答していたのを思い出す。続々と返信されていくのをチェックしながら俺はカレンダーを睨み付けていた。クソ、なんでその日なんだよ。試験の二日前。さすがに飲み会に行っている場合ではなかった。何より試験だけではなく諸々のレポートや課題の提出も控えている。忙しすぎる。めまぐるしい毎日に辟易としている。そして、スケジュールぎちぎちの中に飛び込んできた飲み会。憂鬱だった。なんでだよ、これまでどうにかスケジュールをギリギリ合わせられる日程になることが多かったのに。そうカレンダーを睨み付けていた俺のスマホが鳴ると、ちょうどさんが「参加します」と返信したところだった。机に頭をぶつけて項垂れたことを覚えている。あの日ほど落胆したことは人生で今のところない。それくらい悔しかった。
 シャーペンをノートの上に置いて一旦顔を机に伏せる。一つ深呼吸。だめだ、イライラし出すとうまく問題文が頭に入ってこない。少し休憩しよう。着っぱなしになっている白衣のポケットからフリスクを出して一つ口に放り込む。ため息をついたら負けな気がしてぐっと堪える。今回はタイミングが悪かっただけ。来年がある。そう自分に言い聞かせていると、スマホが振動した。机の上で低い音を立てるスマホの画面に目をやると、着信だった。表示されている名前を見て眉間にしわが寄る。スマホに手を伸ばして電話を取ってみる。「もしもし」と俺が言った瞬間、バカでかい声が耳に突き刺さった。

『賢二郎!』
「ちょ、うるさいんですけど。なんですか。今忙しいので切って良いですか」
『賢二郎!!』
「だからなんですか。用がないなら切りますけど」
『今すぐ来て!!』
「はあ?」
『いま英太くんたちが引き留めてるから! 賢二郎の大学から走って十分くらいで来られるでしょ?!』
「急になんですか。明後日試験なので無理です」
『バカヤロウ!!』

 耳が痛い。天童さんは完全に興奮した様子でギャンギャンとうるさい。酒に酔っているのだろうか。時計を見るとうかうかしている間に日付が回りそうな時間だ。そろそろ終電がなくなりはじめるだろうにまだ解散していないのか。少し不思議に思いつつ天童さんの言葉を思い出す。「英太くんたちが引き留めてる」。誰を。その答えは言われなくても分かってしまう。

『なんでかは言えないけど絶対後悔するよ?!』
「あの、何なんですか本当に。さっきから主語が一つもないんですけど」
『このままじゃ時効になっちゃうんだってば!』
「何の話ですか……」

 ため息。あ、クソ、つかないようにしてたのに。天童さんのせいだ。そう舌打ちをこぼすと天童さんが「つべこべ言わず今すぐダッシュで来いって言ってんだよ先輩命令だからね!!」と叫んだ。うるさい。天童さんはその後もギャンギャンうるさくて、思わずスマホを耳から少し離したほどだった。酔っている、という感じではない。なんとなく焦っているというか気持ちが逸っているというか。いつもと少し様子が違うことは察せた。
 ノートの上に置いたシャーペンを右手で握る。くるくると何度か回しつつ背もたれに体を預ける。ぎしっと椅子が嫌な音を立てたがお構いなくそのまま伸びをする。

『ちょっと聞いてんの賢二郎!?』
「あの、本当になんですか。理由を簡潔に説明してください」
ちゃん!』
「……さんが何か。というか天童さん、余計なこと言ってませんよね?」
『賢二郎に会いたいって言ってたよ!』
「は?」
『それ以外に理由いる?!』

 キーン、と耳鳴りがする。天童さんの声は俺にしか聞こえていない、というか研究室には俺しかいないけど。ともかく今この場で大声で話しているんじゃないかと思うほど立体的に聞こえた。
 またシャーペンの芯が折れる。ノートの五行目あたりに折れたシャー芯がころころと転がり、やがて止まる。それをぼけっと見下ろしながらゆっくりと瞬きをしてみた。馬鹿馬鹿しい。そう自分を笑って。
 さんは俺のことをただの後輩としか見ていない。天童さんが嘘を言っていないとしてもそれは高校時代の後輩に会いたかったという意味でしかない。懐かしい思い出話の片隅にぼんやり残っていた俺の残像を懐かしんでくれただけ。だから、今、馬鹿みたいに舞い上がりそうになっている自分を笑ってやるのだ。たったそれだけで舞い上がれるなんて大概馬鹿だな、と。

「からかうのもいい加減にしてください。切ります」
『ちょっと太一! 太一! この根性なしになんとか言って!』
『根性なしは一生根性なしなんで無理ですね』
「天童さん、留年するやつに言われたくないって言っといてください」
『あ、というか手っ取り早い方法があった!』

 ごそごそと物音がする。天童さんの声が少し離れたところで聞こえているが、何を話しているかは分からない。切ってもいいだろうか。そう思わず目を細めて舌打ちをこぼす。そんなときかすかに大平さんの声が聞こえたり山形さんの声が聞こえたりしてきて、天童さんが移動したらしいことは分かった。くそ、あと十秒待っても何もなかったら本当に切ってやる。シャーペンを握り直しながら先ほど折れたシャー芯を手で払っておく。今やっている対策用の問題をやったらレポートを片付けるつもりだったのに。とんだタイムロスだ。今度会う機会があったら絶対に文句言ってやる。そうため息をついてしまった。クソ、イライラして時間を無駄にすると分かっていたから、ため息つかないようにこっちは頑張ってたのに、天童さんのせいだ全部。

『ひ、久しぶり』

 ぽと、と情けない音を立ててシャーペンがノートの上に転がった。知らない間に離してしまっていた。間抜けに力が抜けたままの手にはっとして、落ち着きなどないままぐっと右手を握る。それは反則だろ、天童さん。そう文句がもれそうになったのをぐっと堪えた。

「お久しぶりです」
『なんか天童が替われって言うから替わったんだけど……白布勉強中なんでしょ? ごめんね』
「あ、いえ。まあそうですけど」

 落としてしまったシャーペンを指で転がしたり、指で摘まんでまたノートの上に落としたり。自分が何を話しているのかよく分からないまま時間が過ぎていく。さんは俺の近況を少し聞いたり飲み会での話をしたりしたあと、「あ、ごめん」と苦笑いをこぼした。

『邪魔しちゃってごめんね。天童のことは怒っておくから。試験頑張ってね……ってちょっと天童ってば!』

 何してんだ天童さん。ガサガサとまた物音。どうやらスマホの取り合いをしているらしい。さんが出るかもしれない状況で切るわけにもいかず、その取り合いの様子を耳元でただただ聞く。本当に単純だと思うが、物音の間にさんの声が聞こえるだけで十分だ。シャーペンをいじっていた手を止めてもう一つ伸びをする。かすかに背中の関節が鳴った音が聞こえた瞬間、不思議とどっと疲れを感じてしまった。完全に集中が切れた。天童さんのせいだ。もう今日のことは全部天童さんのせいにする。
 天童さんとさんがスマホを取り合っているらしい声がかすかに聞こえていたかと思うと、「あ、白布?」とのんきな太一の声。いよいよ切りたくなってきた。何の電話だよ、これ。そうため息に乗せながら「なんだよ」と吐き捨てるように言う。

『終電十一時五十分だって』
「は?」
『お疲れ、根性なし』
「はあ?!」

 ブツッ、と電話が切れる。ビジートーンを聞きながらノートの上に転がったままのシャーペンを勢いよく掴む。言いたい放題言いやがって。クソ。スマホを耳から離してポケットに放り込んだ。机の上にあるペンケースから出したものをすべて突っ込み、ノートを乱暴に閉じて鞄にぶち込む。ペンケースもそのあとにぶち込んで鞄を肩にかける。
 腹が立つ。だったらお前たちはどうなんだよ。たとえば自分の有り金より明らかに高いものでも欲しけりゃ何も考えずに買うのかよ。明らかに負けると分かっている相手に真っ向から勝負しに行くのかよ。欲しいものを買うために金を貯めることの何が悪い。相手に勝つために準備をすることの何が悪い。それの何が根性なしなんだ。後先考えずに失敗しに行く馬鹿よりはよっぽどマシだろ。
 殴るように研究室の電気を消す。壊れんばかりの勢いで鍵をかけ、静かな廊下に乱暴な足音を立てながら鍵を返しに行く。腹が立つ。誰が根性なしだ。一人で舌打ちをこぼしながら腕時計を見る。十一時三十分。クソ、ムカつく。絶対殴ってやる。
 鍵を管理室の保管庫に入れ、乱暴にドアを閉めた。教授が一人でもいればもう少し丁寧にしたが今はそんな場合じゃない。そのまま研究棟から出て一直線に正門へ向かう。大学の最寄り駅へは徒歩五分。駅の反対側は飲み屋街。大体ここからは歩いて十五分ほどかかる。やけに俺が通う大学に近い場所だなと思った。今回の幹事は大平さんだと聞いていたから、別に他意はないのだろう。けれど、もしかしたら天童さんがこの辺りで店を探すように言った可能性だってある。クソ、最初からこのつもりだったのか。ムカつく。舌打ちをした瞬間「あ」と声が出た。コートを研究室に忘れてきた上に白衣のまま出てきてしまった。道理で寒いわけだ。馬鹿かよ俺は。クソ、クソ、クソ。何もかもうまくいかない。また舌打ちをこぼして、駆け出した。
 根性なし。そんなの、自分が一番分かっている。だから言われると余計に腹が立つ。この数年の間にただの一度も連絡をしたことがない。ただの一度もだ。バレー部のグループトークでも会話をした記憶はない。事務連絡のみ。個人的に連絡を取ったことも、取ろうとしたこともない。何が後先考えずに失敗しに行く馬鹿よりマシだよ。何もしていないことのほうがよっぽど馬鹿だ。自分が嫌になる。馬鹿すぎて。


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