あかりちゃんは三連休二日目の練習試合で復帰してきた。みんなに頭を下げて回っていたのでちょっと笑ってしまったけど、元はといえばわたしのせいだ。「ごめんね」とまた謝ると、あかりちゃんはわたしの声を遮るような大きな声で「庇ってくれてありがとうございました! でも、あの、心配で!」と、なんだか泣きそうな顔をしていて。ああ、わたしも、心配かけてたんだなって素直に反省した。
 土曜日、日曜日と一応賢二郎は普通に戻っていた。金曜日のブチギレが嘘だったように。川西がこそっと「マジで金曜のはなんだったの?」と聞いてきたけど、わたしは馬鹿らしいので理由は分からない。「謎」とだけ答えたら川西が「迷宮入りじゃん」と苦笑いをこぼしていた。
 右手首の捻挫と背中の打撲。それを気遣ってか重たいものを持つ仕事は全部あかりちゃんがやってくれた。わたしは大人しくタオルを渡したりスコアをつけるだけ。申し訳ないなって思っていたら二年部員が「花城さんばっか仕事してカワイソ~」とからかってきた。嫌なところを突いてくる。そうバツが悪く思っていると、よくわたしのことをゴリラと言ってくるやつが「花城さんのことちゃんと守ってやれよ~」なんて言ってきた。グサ。思い切り心臓に突き刺さったそれを知らんふりしながら「分かってるってば」と返す。すると、わたしの目の前に立っていたその二年部員が突然とんでもなく恐ろしいものを見たような顔をして。「いや、あ、ごめんな」としどろもどろ呟いて逃げるように去って行ったのだ。え、何? あまりに突然だったから不思議に思って後ろを見たら、ちょうど白布が通り過ぎているだけで。別に何もないけど、と首を傾げてしまった。まあ、よく分からなかったけど、あれ以上あの絡みをされたら本気でへこんでいたから助かった。
 部活中、賢二郎が話しかけてくることはなかった。まあ、いつものことだ。ただ、わたしがジャグタンクを持とうとしたら無言でかっさらっていった、というのはあったけど。言葉はなし。まだ一応怒っているようだったけど表情はいつも通りだったし、イライラしている感じもなかった。夜のいつもの時間にトークを送ってくるのは変わらず。特にイラついている感じもなかったし、本当によく分からない。
 そんな中、ついに来た三連休最終日、祝日の月曜。賢二郎と連絡をして決めていた時間よりほんの少しだけ早く白布家に到着すると、すでに中に賢二郎がいるらしい物音がした。チャイム押したらいいのかな。三日前、ブチギレられたばかりなのでちょっと気まずい。よく分からないからチャイムを押して良いものかさえも分からない。

「不審者にしか見えないんだけど」
「うわあっ」
「何してんだよ」

 いつの間にか白布家の玄関が開いていた。気付かれていたらしい。びっくりした。バクバクうるさい心臓を落ち着かせながら「お、お邪魔します……」とぎこちなく笑顔を作って敷地に入った。白布家、本当に久しぶりに来た。相変わらず綺麗なおうちですね。内心そう思いつつ玄関に上がらせてもらう。靴をきっちり揃えてそうっとリビングを覗き込んでみる。わ、ほとんど変わってない。懐かしい。小学生のときはよく遊びに来てたんだよね。うちの両親は共働きで、家に帰ると一人だったからよく白布家が家に上げてくれていたのだ。おばちゃんもおじさんも優しくて大好きだったなあ。
 ふと、テレビ台の上に置いてある写真に視線が行く。え、あれ、わたしじゃない? 賢二郎と二人でピースしている。小学生のときの運動会の写真だ。ちょっと恥ずかしいけど、嬉しい。そう思っていると「そっちじゃない」と賢二郎に軽く服を引っ張られた。でも宅配を待つならリビングのほうがいいんじゃないだろうか。わたしがそう考えていることはお見通しらしい。「もうさっき来た」と靴箱のすぐ横に置いてある段ボールを指差した。
 階段を上がっていく賢二郎についていく。懐かしい記憶が一気に蘇るものだからついきょろきょろしてしまう。賢二郎は変わっていない自分の部屋のドアを開けつつ「何してんだよ」と不思議そうにしていた。
 賢二郎の部屋は、昔と変わらずお兄さんと共同で使っているらしい。部屋に入ってすぐ、ちょうど真ん中にビニールテープがまっすぐ引かれているのを見つけた。昔はこんなのなかったのに。「これ何?」と指差すと「兄貴、すぐこっちにもの置くから。境界線」と忌々しそうにビニールテープを睨み付ける。そんな顔しなくても。笑っていると「まあ今は出てったからいらないけど」と言いながら勉強机の椅子に座った。

「適当に座れば」
「あ、じゃあ」

 迷うことなくベッド、の下に置かれているクッションに腰を下ろした。賢二郎は「いや、別に上に座って良いけど」と呆れたように言うけど、小学生のときはいつもクッションに座っていたから。懐かしくてつい。そう言ったら「まあ、好きにすれば」とそれ以上は特に何も言わなかった。

「お前さ」
「うん?」
「……背中、痣とかできてんの」
「えっ、ああ、まあ多少は。でも全然大丈夫だよ」
「右手は」
「治ってはないけど大丈夫。そのうち治るよ」
「……」
「何?」
「ムカつくんだけど」
「え、なんで?」

 文脈がよく分からなかったんだけど。そう苦笑いをこぼしてしまうと、賢二郎は頬杖を突きつつ目を細めてわたしを睨み付けてくる。やっぱりまだ怒ってた。もしかしたらもう怒ってないかも、とかちょっと期待してたのに。どれに怒っているのかだけ明言してほしい。わたしが悪かったらちゃんと謝るのに。そう目をそらすと舌打ちされた。前々から思ってたけど、彼女に舌打ちするのひどくない?
 よく分からない冷戦。賢二郎はわたしを細目で睨んだまま一言も話さない、けどその顔から言葉を探していることは分かった。それならばわたしは賢二郎の言葉を待つだけ。口喧嘩で勝ったことはないけど、全力で挑むのみだ。そう意気込んでいると賢二郎が口を開いた。

「お前さ、最近何なの?」
「何が?」
「花城花城って。ファンかよ」
「え~? ちょっと、あの、本当によく分かんないんだけど……?」
「最近のお前は何なんだって聞いてる」

 最初の質問を丁寧に言い換えただけじゃん。そう困っていると賢二郎がとんでもなく深いため息をついた。それからやたら中の仕事をあかりちゃんばかりにさせたり、あかりちゃんと比べられても何も言わなかったり、挙げ句の果てにはあかりちゃんを庇って自分が怪我をしたり、と早口でまくし立てられた。

「そろそろキレそうなんだけど」
「いや、もうとっくにブチギレてたじゃん……」

 苦笑い。どうしよう、本当にまったく意味が分からない。賢二郎ってわたしより頭良かったと思うんだけど。あ、そうか。頭が良い人の会話だから分からないのか、理解が追いつかなくて。自虐ネタで完結させながら「具体的に言ってもらえると助かるんだけど」と曖昧に笑っておいた。

「……俺は、お前が人に気を遣ってバタバタ外でずっと作業してるのがムカつくし、他のやつと勝手に比べられた挙げ句馬鹿にされてるのがムカつくし、人を庇って怪我してるくせにへらへら平気そうにしてるのがムカつくんだけど」
「あーそういうことね。でも仕方ないでしょ? あかりちゃんかわいいから中にいるとみんな喜ぶし、かわいい子と比べられたらあんな感じになるのも仕方ないし、怪我したくなかったけどちょっと運動能力が足りなくてさ」
「クソ、馬鹿かよ、ムカつく」

 ガシガシと頭をかく。まずい、何か琴線に触れたみたいだ。こうなると正直対処法が分からない。波が止むのを待つのが吉か。そう笑ったまま固まっておく。賢二郎は舌打ちをこぼしたあと、突然頭をかいていた右手でバンッと机を叩いた。叩いた、というかほとんど殴ったみたいだったけど。普通に怖い。賢二郎、結婚したらDVとかしないよね? 苦笑いで様子を伺っていると、賢二郎がパッとわたしから視線を外した。机を睨み付けながら「クソ」とこぼす。

「……か」
「か?」
「…………か、わいいって、言ってんだよ」
「あかりちゃんでしょ? 知ってるよ」
「お前って本物の馬鹿なのか?」
「何、ごめん、よく分かってないです」

 賢二郎は立ち上がるとズカズカと乱暴に歩いてわたしの前にしゃがんだ。顔が赤い。その熱っぽい視線を見て、アッ、と気が付いた。あ、ああ、そういう、こと、なの? わたしが気が付いたことが分かったらしい賢二郎が「本当にお前馬鹿だな」と吐き捨てるように言った。

「他のやつは知らねえけど、俺はお前にタオル渡してもらったら頑張ろうって思うし、お前のことをかわいいと思ってるから貶されてたらムカつくし、人を庇うことが悪いとは言わないけど素直に痛いとかそういうのは言えって思う……って、言ってんだよ」

 照れ隠しなのか語尾が強くなった。賢二郎はわたしの目が隠れるように顔を右手で掴むと乱暴にぐいっと押した。照れ隠しが乱暴! 嬉しいけど、首が痛い! そう訴えたらぱっと手を離された。「悪い、そういえば首も打ってたな」と一瞬で顔色が元に戻っている。なんだ。ちょっと残念。首はそこまで打っていないし、今のは賢二郎に押されたのが痛かっただけ、と言ったらバツが悪そうにまた謝ってくれた。
 気まずい。賢二郎はわたしの前にしゃがんだまま動かないし、わたしもどんな顔をしていればいいのか分からなくて俯いている。どうにか、いつもの雰囲気に戻したい。そう思って苦肉の策で口を開いた。

「賢二郎って趣味悪いね」
「あ?」

 間違えた。完全に今言うことじゃなかった。そう分かっているのに止まらない口。わたしなんか他の男子にゴリラって言われるし、力仕事も大体全部自分でやってしまうし、女らしさがどこにもないって言われるし、そこそこでかいし。最近思っていたことを思わず言ってしまう。賢二郎はそれをブチギレる寸前の恐ろしい顔で聞いていた。怖すぎる。でもここまで来たら茶化す方向に持って行くしかない。そう思って、「中一のとき、賢二郎わたしよりちっちゃかったし、腕相撲も負けてたよね。わたしのほうが今も強いかもね~」と笑ってみる。賢二郎に身長を抜かれたのは中学三年のときだった。腕相撲は中学一年のときにやってわたしが勝ったっきりやっていない。今ももしかしたら賢二郎はパワータイプじゃないし、勝っちゃうかもしれない。毎日何かしらの力仕事はしているし。よし、この流れで腕相撲バトルがはじまれば順調だ。
 スン、と賢二郎の表情が消えた。まったくの無表情。その異様な雰囲気にちょっとたじろいでいると、賢二郎が「お前、俺に勝てるんだ?」と笑った。笑った、とは言っても目が笑っていない。やらかした気がする。はじめて見る表情なのでまったく考えていることが読めない。
 突然。本当に突然賢二郎に抱きしめられた。びっくりしすぎて変な悲鳴が出た。何、何が起こってるの。困惑と恥ずかしさで口数が増えてしまうわたしに対して賢二郎は口数がとんでもなく少ない。あわあわしている間にひょいっと抱き上げられた。わたし、結構身長あるんだよ? そんなに簡単に持ち上げられるような、小柄な子じゃない、はずなのに。びっくりしすぎて今度は言葉を失った。思わずぎゅっと賢二郎に抱きつく。賢二郎は無言のまま今度は嘘みたいに優しくわたしの背中をどこかに着地させた。痣ができているから気を遣ってくれたのだろう。ふわっとした感覚のそれが、ベッドの上だというのはすぐ分かった。

「な、なに、どう、どうしたの?」
「抵抗してみろよ」
「なに、あの、え、なに?」
「俺から力ずくで逃げてみろよって言ってる」

 あ、そういう? びっくりした、だってこの状況、ベッドに押し倒されたみたいな感じだったから、どきっとしてしまった。いや、賢二郎が至近距離にいるだけでどきっとするのだけど。ただ力比べがしたいだけみたいだ。安心した。
 よし、やってやる。ひとまず賢二郎の胸辺りにごそごそと両手を移動させた。すると賢二郎が「右手使うなよ」と右手だけ回収していってしまう。わたしの顔の横辺りでぎゅっと固定された。え、わたし、とても不利なのでは? そうは思うのだけど、仕方ない。怒られたくないので大人しく右手は掴まれたままで文句は言わないことにした。
 左手だけでぐいっと賢二郎を押してみて、正直びっくりした。びくともしない。違う角度から押しても、足を使っても。まったく敵わなかった。そういえば賢二郎ってバレー部の中だと細いほうだし、背も低いほうだけど、こうされると、すっぽりわたしが収まってしまうんだな。男女の差なのか賢二郎が運動部なのかは分からないけど、ちょっとびっくりした。

「びっくりした。勝てそうにないね」
「なんだよ、もうやめるのか」
「うん。勝てなさそうだし。ごめんね、馬鹿にしたみたいになって」
「……お前さあ」
「何?」

 呆れた声、に聞こえたけど、ちょっと照れているように聞こえた。賢二郎の首辺りしか見えていなかった視界に、賢二郎の顔が見えた。髪、伸びてる。この角度から見たのはじめてだからちょっと新鮮だ。そんなふうに賢二郎を観察していると、一瞬で何も見えなくなった。その代わり、唇に、あたたかい感触があって、体が一瞬で自分のものじゃないみたいに硬直してしまう。無意識のうちに呼吸が止まる。ぴくりとも動けないままでいたら、そうっと唇からあたたかいものが離れていく。ようやく瞬きをして、次に見えたのは、赤くなった賢二郎の顔だった。

「……本当に馬鹿だから、気を付けろよ」
「…………は、はい」

 それで、あの、どうして、退いてくれないんでしょうか。普通に照れるし、恥ずかしい。顔を背けても賢二郎に見えてるし。できれば退いていただきたい。そうこっそり思っていると賢二郎が右手から手を離してくれた。あ、退いてくれるのかな。そうほっとしたのも束の間。すぐに両手で顔の向きを戻されただけだった。賢二郎の顔は、なんだか、子犬みたいにしゅんとしていて、ちょっと拗ねているようにも見える。なに、その顔。かわいい。思わずきゅんとしてしまう。

「……嫌ならこれ以上はしないけど」
「こっ、これ、以上、とは……?」
「これ以上はこれ以上だろ」
「…………け、賢二郎、そういうの、興味あるんだ……?」
「嫌がられたらさすがにやめる」

 そうは言われても。ちょっと待ってほしいだけで、嫌というほど、では。ごにょごにょとそう言うと賢二郎が舌打ちをした。だから彼女に舌打ちはひどいってば! 自由になった右手も使って両手で顔を隠す。そんなつもりじゃなかったから、何も準備できていないのに。こうしようと思ってたなら最初に言っといてよ。そう文句をごにょごにょ言ってしまう。賢二郎もごにょごにょと「それは、まあ、悪かった」と言った。それから「謝るから顔出せ」と恥ずかしそうな声で言うので、そうっと両手から顔を出す。そんな顔もするんだ。どうしよう、どきどきする。
 口元を手で隠したままでいたら、賢二郎が「手、退けて」と、いつもより優しい口調で言った。ど、どうしよう、恥ずかしすぎて涙が出そうになってきた。だってこれ、手を退けたら、また、されるんでしょ? 恥ずかしさにちょっと手が震えてしまう。でも、正直、嬉しかった。素直に言えば、もう一回、してほしい。わたしのことちゃんと女の子として見てくれてるんだなって、思えたから。ゆっくり手を退かせると、賢二郎がその手をそれぞれ捕まえてしまう。もう何も隠せないようにベッドに押しつけられると、心臓が爆発しそうなくらいうるさくなってきた。トン、トン、トン……あれ? トン? ドキドキじゃなくて?
 そう思わず目を丸くした瞬間、「いるんだろ賢二郎~! お兄様のご帰還だぞ~!」と勢いよくドアが開いた。ピシッと賢二郎の体が固まったのがすぐ分かった。わたしも同じく。ついでにドアを開けた主も同じだろうと思う。

「…………………ひ、久しぶり! ちゃんだよね?!」
「……ドア閉めろ出て行けクソ兄貴」
「めっちゃ邪魔した、マジかよごめんな! 一個だけ教えて、いつから付き合ってんの?!」
「いいから黙って部屋から出ろ」
「もしかして母さんたちには黙っといたほうがいいやつ?!」
「今すぐ黙れって言ってんだよ!」


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