土曜日。午前練習が終わってお昼休憩を挟む。コンビニでご飯を買ってある、もしくはお弁当を持ってきた組と、今からコンビニに行く組で分かれた。わたしはお弁当組なので体育館の外部扉の階段に座って「いただきます」と手を合わせた。
 残った同輩二人、先輩四人と談笑していたとき、母親がお弁当につけてくれたソースをうっかり右手にべったりつけてしまった。先輩が笑って「派手にやったねえ」と言うと「水道で洗ってきたら? お弁当は見といてあげるから」と言ってくれた。お手拭きも持っていなかったし、タオルで拭くのも抵抗がある。有難くお弁当をその場に置いて、タオルだけ持って水道へ向かうことにした。
 体育館の向こう側にある水道に向かって歩きつつ、ちょっと鼻歌を歌ってしまう。今日は調子が良かった。いつも上げることができない先輩のサーブをきれいにセッターの頭上に上げられたし、いつもなかなかできないブロックフォローも上手くいった。監督にもリベロの先輩にも褒められて嬉しくてたまらなかった。バレーが好きなんだと自覚したら練習が嫌じゃない≠じゃなくて、楽しい≠フだと自覚できて、とてもとても充実している。川西くんのおかげだなあ、なんて上機嫌な気持ちが鼻歌に出ているのだ。

「ご機嫌じゃん」

 ちょっと笑った声にぴたりと体が止まる。横に顔を向けると、女子部が使っている隣、男子部が使っている体育館の影でお昼を食べている男子部の人たちがいた。その中で川西くんがおにぎりをもぐもぐしながら口元を押さえて笑いを堪えていた。き、聞かれた。一瞬で顔が赤くなったけど、ご機嫌なことに変わりはない。素直に「とてもご機嫌です……」と恥ずかしく思いながら言葉を返したら川西くんが思いっきり吹き出した。

「笑わせないで、本当、死ぬ」
「わ、笑わせるつもりはなかったけど!」
「というか手、どうしたの? なんで真っ黒なの?」
「お弁当のソースつけちゃったから洗いに行く途中なの」
「ご機嫌だとそそっかしくなっちゃうタイプ?」
「そ、そうかも……」

 お恥ずかしい。うっかり右手で髪を触ろうしたわたしに、川西くんが「ソースつくよ」と先に言ってくれて間一髪助かった。お礼を言ってから「お昼中お邪魔しました」と会釈して、そそくさとその場を後にした。心臓に悪い。川西くんならまだしも、白布くんとか他の人にも恥ずかしいところを見られてしまった。なんで普段やらないことをやったときに限って。そんなふうに思い出して恥ずかしくなりつつ、水道に辿り着いた。
 左手で蛇口を捻って右手を水で洗う。ちょっと手が粘ついている。左手で右手を擦ってきれいにしつつ、ついでに顔も洗っておく。両手に水を溜めてから顔を浸ける。手を離すとばしゃんと水が排水溝に流れていった。それを数回繰り返して、持ってきたタオルで顔と手を拭いていると「さん」と川西くんの声が聞こえた。顔を拭きながら振り返ると、川西くんが結構近くに立っていて驚いてしまう。

「これあげる」

 そう言ってくれたのは、いつかにもくれたかわいらしいピンク色の包装紙にくるまれたお菓子。おやつとして持っているらしい。きれいに手を拭いてから「ありがとう」と素直に受け取った。川西くんはわたしの隣の蛇口を捻って手を洗うと、「練習何時まで?」と聞いてきた。練習は通常通り五時に終了予定。それをそのまま伝えると「え〜そっか」と少し残念そうにされた。何か用事でもあっただろうか。不思議に思って聞いてみると、川西くんはちょっとだけ視線を外した。

「男子はこのあと体育館の掃除したら解散なんですよ」
「え、そうなんだ。いつも夜まで練習してるのに珍しいね」
「体育館の整備業者が来るんだよね。恥ずかしくないようにきれいにしろって言われててさ」

 そうなんだ、と返しつつそれが一体どう関係してくるのだろう、と首を傾げる。あまり話の繋がりが見えなかった気がするのだけど。きゅっと水を止めて川西くんがタオルで手を拭く。それから、わたしに視線を戻した。なんだか顔が少し赤く見える。今日は暑いし、熱中症になったりしたら大変だ。そう思って声をかけようとしたら、先に川西くんが口を開いた。

「練習のあと、久しぶりに出かけようかなって思ってたんだよね」

 外出許可を取りにこうとしていたらしいのだけど、やっぱりやめたと川西くんは言った。また余計に分からなくなった。「そうなんだ?」と言ったあと、別に行けばいいんじゃないかな、と首を傾げてしまう。練習が珍しく早く切り上がるし明日は日曜日。男子部はどうか分からないけれど大抵練習試合がなければ休みであることが多いはず。出かけるには最高の条件だと思うのに。どうしてやめてしまうのかな。
 じっとこっちを見てくる川西くんの視線がちょっとくすぐったい。なんだろう。「うん?」と問いかけてみると、川西くんは「う〜ん?」と曖昧に笑った。ハテナで返されてしまった。これまで結構何でも言葉にしてくれていた川西くんが、ちょっと言葉に迷っていることが伝わってきたので無理に聞かずに待ってみる。川西くんは視線だけあっちへやったりこっちへやったりしてから、ようやくわたしの顔をまた見た。

さんと時間が合えば誘いたいなって思っただけ」

 ぽつりと言った声は鳥の声に負けそうなくらいなんだかかわいらしいものだった。それに呆気に取られていると川西くんは「なので今日はいいです」と笑って付け足した。その顔を見てちょっと温度が上がる。なんで誘おうとしてくれたんだろう。友達だからかな。でも、もっと他に誘う人いるだろうに。それこそ白布くんとか、男子部の他の人とか、仲の良い女友達とか。わたしじゃなくて誘える子はたくさんいるだろうに、どうしてわたしと都合が合わないからって、予定をなしにしちゃうんだろう。それに、明日は日曜日なのに、どうして明日のことは聞いてくれないんだろう。今日じゃなきゃもういいのかな。そう思っていると、川西くんが「明日練習試合なんだよね」と苦笑いをこぼした。あ、だから明日のことは聞いてこなかったんだ。別に、今日じゃなきゃだめって、わけじゃないんだ。それに少し安心した。
 わたし、今、川西くんが誘おうとしてくれたことが、嬉しかった。仲良くしてくれる友達だからかもしれない。川西くんは高校ではじめてできた男友達だ。経緯はちょっと恥ずかしいものだけど、そうだとしても、ちゃんと仲良くなって一緒にいて楽しい相手。遊びに誘ってくれて嬉しくないわけはない。そう、友達に誘われたら、誰だって嬉しい。当たり前のことだ。
 下着を見られてしまったとき、男子はこういうの言いふらすんだろうなって勝手に決めつけた。でも、ふたを開けてみれば川西くんはこっちが申し訳なくなるほどとても反省していて、とてもとても気にしてくれていて、誰かに言った感じなんて全然なかった。それだけじゃなくて償いじゃないけど、何か言ってくれれば何でもするから、とまで言ってくれた。とても誠実な人で、思いやりがあって、良い人だなって思った。わたしが友達になってと言ったら、嫌な顔一つせずに話しかけてくれるようになって、そんなお願いをしたことなど忘れるほど自然に仲良くなってくれた。わたしが好きなものを理解してくれて、わたしの気持ちを理解してくれて、まっすぐに言葉をくれた。
 わたし、今、川西くんが誘おうとしてくれたことが、嬉しかった。でもそれは、仲良くしてくれる友達だからじゃなくて、好きな人だからなんだって、素直に思った。

「ごめん、変なこと言った。恥ず。忘れてくださいごめんなさい」
「あの」
「はいなんでしょう」
「ら、来週の、日曜日、女子部はオフなん、だけど……」
「……男子部もオフ、だけど」

 びっくりした顔で川西くんがじっとわたしを見つめる。落ち着かない様子で右手の指がずっと不自然に動いているのが見えて、わたしまで恥ずかしくなる。でも、言わなきゃ後悔するって思った。

「へ、変なことじゃないよ。誘おうとしてくれて、あの、嬉しかったよ」
「……本当?」
「う、うん。本当だよ」

 自然に笑えた。恥ずかしかったけど、それより嬉しかったから。川西くんもわたしの顔を見てから小さく笑うと「ならよかった」と言った。

「来週の日曜日、空いてますか」

 笑ったまま、照れ隠しの敬語で川西くんがそう言った。なんだかドラマの台詞みたいな言い方だった。それがちょっと面白くて笑ってしまう。「はい、空いてます」とわたしも照れ隠しの敬語で返したら川西くんが「やった」とはにかんでくれた。

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