五色からの連絡は絶えなかった。最初は前みたいに迎えに行くからと練習の終わりを教えてくれるものばかりだったけど、次第に「今何してますか?」とか「練習試合で勝ちました」とか、そういうものが増えていった。返信がなくてもいいと言ってくれているようで、情けなかったけど有難かった。今思えば、家も会社も知ってるんだから、無理やり会おうと思えば会えるだろうに。それをしない五色はとても誠実で、やっぱり、好きだなって思った。
 三ヶ月、ただの一日も五色を忘れた日はなかった。自分でもちょっと驚いている。思い起こせば、高校を卒業してからこの五年間、毎日とは言えないけどよく五色のことを思い出したっけ。ひどいと思うけど、あの先輩にはじめて告白されたときもなぜだか五色のことを思い出していたもんなあ。
 先輩といえば。この前会社の上司が呆れたように教えてくれた。「あいつ、俺に年賀状送ってきやがった。結婚したんだと。あんな辞め方してたいったのに、信じられるか?」と。上司は会社を無断欠勤して辞めていった先輩に対しての怒りで教えてくれただけだ。でも、それを聞いて、肩の荷が全部下りた。やっぱりあれは、わたしの勘違いだったのだ。先輩に二度目の告白をされるまでは勘違いじゃなかっただろう。けれど、先輩が姿を消してからのものは全部、わたしが勝手に怖がっていたのだ。だから、もうたとえ、帰り道に一人でも怖がらなくていい。五色に甘えなくても一人で帰ることができる。そう喜ぶところなのに、なぜだか、ちょっとだけ切なかった。
 「五色のことなんとも思ってないのか?」、山形に聞かれたことを思い出す。なんとも思ってないわけないじゃん。「五色だけじゃなくて俺らのことも贔屓してください」、川西に言われたことを思い出す。ごめんね、知らない間に確かに特別扱いして贔屓してたね。「工、カワイソー」、瀬見に言われたことを思い出す。そうだね、まったくその通りです。「どう見てもかわいい後輩≠超えていた感じでしたけど」、白布に言われたことを思い出す。そうです、かわいい後輩の枠を超えていました。「でも工はいいんだ?」、天童に聞かれたことを思い出す。そう、五色ならいいって思ったよ、心の底から。「でもそんなことを言っていたら他の子に取られちゃうかもしれないぞ?」、大平に言われたことを思い出す。本当にね、何やってんだろうね、わたしは。
 「五色のことが好きなのか?」、牛島に聞かれたことを思い出す。うん、わたし、五色のこと好きだよ。人懐こくて頑張り屋さんで誰よりもかわいいけど、コートに入ると誰よりも闘争心があって、駆け抜けんとする足取りが力強くて、まっすぐにボールだけを見つめる瞳がかっこよくて、好きだよ。どんなときでもいつも優しくて、明るくいようと踏ん張っているところが好きだよ。挙げだしたらキリがないほど、五色のことが好きだよ。
 スマホが鳴った。五色からの連絡だ。見てみると「明日、会いたいです」とあった。明日は三月一日。五年前にわたしが卒業した日だ。ぴったり五年後なんて、本当、変な子。一人で笑った。本当にきっちり五年待つなんて思わなかった。あんなこと言われたら普通愛想を尽かすか途中で諦めるでしょ。馬鹿正直。生真面目。わたしの家に泊まったあの日にフライングしてやろうなんて絶対微塵にも思ってなかったでしょう。天童たちは絶対妄想はしてたって言ってたけど。でも、たとえ考えていたとしても、絶対に行動に移さないよね、五色は。
 じっと眺めているだけだった五色からのメッセージ。明日は平日。会議があるから遅くなる予定だ。時計の見てちょっと考えてから、右手の人差し指で文字を打ち込む。午後九時、いつも迎えに来てくれていたところで。そう、返信した。五色からすぐ返信があった。「ありがとうございます」、だってさ。本当、かわいくて困るよ、五色。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 何が「午後九時、いつも迎えに来てくれていたところで」、だ。急にやってきた本社の人たちがぐだぐだと話を長くするものだからとっくに九時は過ぎている。遅くなると連絡をいれようにも、本社の堅物じじい共の前で、事務員のわたしがスマホを触るなんてできなくて困っている。本来八時に終わる予定の会議、長引くことを見越して九時って連絡したのに。とんだ誤算だった。記録係を務めているわたしが途中で退席するわけにもいかない。さっきからわたしの上司も早く終われって顔を隠して必死にまとめようとしているのに。イライラしてきた。
 ちらりと腕時計を見たら午後十時を回ったところだった。一時間経ってる。もう五色、呆れて帰っちゃったんじゃないかな、さすがに。さっきから鞄に入れてあるスマホが通知を知らせているのは知っている。五色からだろう。既読もつかなければ返信もない。そんなわたしをどう思っているのだろうか。
 ぐっとため息を堪え続けて、ようやく本社の人たちが立ち上がって「報告書、後日頼んだよ」と言って帰って行った。よし、終わった。そうため息を吐いていると「災難だったねえ」とみんな口々に言った。本当ですよ。わたしもそれに混ざってそうこぼしてから、鞄の中のスマホを取り出して、思わず「あっ」と声が出た。しまった、今朝充電し忘れていたんだった。会議の間に力尽きたらしいスマホは画面が真っ暗で、うんともすんとも言わなかった。そんなわたしに気付いた同僚が「充電器貸そうか?」と言ってくれたけど、充電を待つより待ち合わせ場所に行くほうが早い。「大丈夫、ありがとう」と言ってからすぐに片付けを始めた。時刻は午後十時半。シカトし続けて最後には砂かけてサヨナラしたみたいになってない?! 慌てて「すみません用事があるのでお先に!」と走って会議室を出た。上司がちょっと不思議そうな顔をしていたのがなんだか申し訳なかった。
 エレベーターを待っている時間が惜しくて階段を使った。結構走ることに自信があった高校時代を思い出して、とか思ったけど現実は上手くいかない。ヒールで上手く走れないし、一階下りただけで息が上がる。わたしの部署は四階にある。この時点でバテてどうする。日頃の運動不足を肌で感じつつ、無我夢中で走った。
 冷静に考えて、約束の時間を一時間半も遅れてくる人のこと、待ってないでしょ。連絡があったらまだしも、連絡もなければ既読もつけないんだよ。そんなにムカついて帰っちゃうでしょ。少なくともわたしならそうする。今度会ったときにご飯奢らせるペナルティ付きで。だから、五色だって絶対待ってないって思うのに。どこかで、待ってくれてるんじゃないか、って期待している自分もいる。都合が良すぎる。馬鹿だな、悪女じゃん。
 一階まで下りてぜえぜえ言いながら受付の前を走り去る。仲の良い受付嬢の子が「お疲れ様です?!」とびっくりした様子で声をかけてくれた。今は言葉を発する余裕がない。手だけ振って振り返らなかった。五色がいつも迎えに来てくれていた駅までは歩いて五分もかからない。なんならもう見えている。あっ、マフラー会社に忘れてきた。でももういい、明日もどうせ出社するんだし。コートを羽織ってきただけ偉いでしょ。歩いている人を避けながらできうる限りの全力ダッシュで駅に向かった。苦しい。運動不足がこんなにも進んでいるとは。高校生のとき、マネージャーの仕事は走ることは少なかったとはいえ、今やったら確実に次の日使い物にならなくなるやつだな、これ。情けない。情けないけど、走るしかできないのだ。
 いつも五色と待ち合わせていたのは駅の入り口。入ってすぐにある大きな絵画の下だ。いますように、五色、いますように。そう念じながらダッシュで駅の中に入ると、すぐに大きな絵画を見つけた。そして、視線を少し下に動かしたら、五色がいた。やっぱりいるじゃん! そう叫びたかったけど息が上がりすぎて声にならない。ちょっと酸欠かもしれない。けれども、足は止めずにダッシュで五色に近付いていくと、足音で気付いたのか五色が顔を上げた。わたしを見ると一瞬だけ笑顔になったけど、一瞬でなんだか恐ろしい物を見る目になった。なんだその顔! 遅れてごめんね! 言いたいけど一つも声にはならない。

「お、お疲れ様です、大丈夫ですか?!」

 大丈夫じゃない。ずっと大丈夫じゃないよ、わたしは。ぜえぜえ言いながら五色の前で立ち止まって、力尽きる。しんどい。しばらく走りたくない。座り込みそうになったわたしのことを五色がぐっと抱き留めてくれた。背中をさすりながら「何があったんですか?! 誰かに追いかけられました?!」と素直に心配してくれる。わたしは五色のことが心配だよ。そんなことよりまず、これまで連絡を無視しやがってこの野郎、とかでしょ。将来詐欺に遭わないように気を付けてね。
 若干の人目を感じつつ、たぶん酔っ払いの介抱をしているふうに見られているだろうから気にしないことにした。五色はわたしの呼吸が整うまでずっと背中をさすってくれて、何か飲み物はいるかとか座ったほうがいいかとか、ずっと心配してくれた。
 どうにかこうにか呼吸が整ってきて、ようやく「はあ」と息をつけた。もうしばらく走りたくない。若干貧血なのか酸欠なのかくらっとしているけれど、しっかり五色の顔を見た。遅れてごめん、と言ったら五色は「心配しましたよ、何かありました?」と言った。そこはなんで連絡くれなかったのかとか、遅くなるなら言ってとか文句を言うところなのではないか。いい子すぎて罪悪感が襲いかかってくる。わたしはこんな素直でいい子のことを振り回していたんだな。先輩失格だ。そう反省した。
 簡単に遅れた理由を説明すれば五色は笑って「それならよかったです。何かあったらどうしようかってずっと不安で」と言った。良くない。五色が一時間半も時間を無駄にしている。全然良くないよ。わたしなんかのせいでこんな時間まで待ちぼうけになったんだよ。怒ればいいのに。そうなぜだか怒ってしまった。

さんを待ってる時間は無駄じゃないです」

 そういうことを言う。かわいい後輩ですって顔をしておけばいいのに、なんでかっこいい男みたいなこと言うの。五色の両腕を掴んで、深呼吸をした。
 五年前の三月一日。わたしの卒業式。わたしを呼び止めてきた五色は、それはそれはかわいかった。真っ赤な顔とうるうる光る瞳がかわいかった。さらりと風に揺れる黒髪がわたしを誘うように艶めいては静かにきらめいて。好きです、と振り絞った声で言って、わたしを必死に見つめていた。かわいいかわいいわたしの後輩。五色工。わたしが例の言葉を言ったら、ぎゅっとわたしの手を握り直して「分かりました」と素直に言った。それがかわいくて、卒業してしまうことが寂しくなったほど。それから、わたし、五年後が待ち遠しいな、なんて思ったんだ。実は。
 五色の二の腕あたりを掴んでいた手が、五色に剥がされる。そのままわたしの両手をきゅっと包み込むように握った。あのときと変わらない大きな手。でも、あのときより、大きく感じた。五色は目を伏せたままぽつりと「五年、待ちました」と言った。一年と持たない、なんて失礼なことを言ってごめんね。内心謝っておく。だって、まさか、五色がわたしを好きになってくれるなんて、思わなかったから。羽ばたいていくであろう五色に選ばれるなんて思わなかったから。どこが好きなの? どうして好きになったの? 聞きたいことは山のようにある。疑っていた時期もある。けれど、この五年という月日が、それを証明してくれたように思えて、とても情けなかった。
 わがままを言ってしまおう。そう顔を上げたら、五色もわたしの顔を見てくれた。

「もう一回、言ってほしいな」

 待たせて振り回したくせに催促かよ。そう思ってくれて構わない。これは罪滅ぼしでもある。五年前のあの日、ひどいことを言った罪滅ぼし。大部分がわたしのやり直しではあるけれど、きっと五色はそれを非難しないだろう。そう甘えてしまった。
 月を溶かしたように光る瞳がまっすぐでかっこいいと思った。昔と変わらず艶めく黒髪がわたしを誘うようにきらめいた。静かな息づかいはわたしを手招くように聞き心地が良くて、握られた手は五色と一緒になるんじゃないかってくらい温かい。そのどれもこれもが五年前から変わったものであり、五年前から変わらないものでもあった。

「好きです。付き合ってください」

 声は震えていなかった。しっかりまっすぐ、一直線にわたしに吸い込まれて、血を通わせてくれる。もう一度はない。ここで仕留める。そんな力強さを感じた。

「わたしも五色が好きだよ」


戻るかわいい後輩