今年の八月二十二日は火曜日。残念なことに仕事の都合で有休は取れなかったけど、残業はせずに会社を出ることができた。終業時間になると同時にパソコンを消したわたしを見た上司が「お、デートか?」と笑った。人によってはセクハラだって指摘されますよ。そう笑って返しておく。でも、その通りです。デートですよ。そう言ったら仲の良い女性の先輩が「ウッソ、いつの間に?!」と驚いていた。
 同じ部署の人たちに見送られて会社を出た。昨日降った雨の影響で蒸し暑くなっている空気を切るように歩く。一昨日の練習試合は完勝だったらしい。昨日の大学での試験もなかなかよかったと聞いた。今日はきっとご機嫌なんだろうな。そう思ったらわたしもご機嫌になってしまった。単純な女で恥ずかしいけれど。
 先週買ったかわいいパンプスを履いてきてしまった。会社にはいつも地味な汚れても何があってもいい靴で行っているけど、今日は特別だ。当然そんなことに会社の人たちは興味などない。誰にも気付かれることはなかった。でも、今日は出社したときから人知れず、ちょっと浮かれていた。まあ、多少浮かれるくらいは許してもらいたい。
 いつもの駅。すぐに姿を見つけた。顔を少し下に向けてスマホを見ている。まだわたしに気が付いていないようなので、ちょっと脅かしてやろうといたずら心が顔を出した。いつもより大回りで近付いていき、そうっと左側から様子を窺う。スマホに夢中で全然気が付いていない。脇が甘いな、なんてにこにこしながらそうっと静かに近付き、少し後ろから頬をつん、と突っついてやった。

「びっくりした?」
「お疲れ様です! いえ、気付いてました!」

 がくっ、とこけるかと思った。気付いてたなら声かけてよ。わたしが言えたことではないけれど。そうちょっとがっかりしていると、五色はいつも通りのはつらつとした笑顔で「何してくれるのか楽しみで!」と言われてしまった。そんなふうに言われたらがっかりする気持ちは消えてしまう。まあ、驚いてくれなかったのは残念だったけど、ま、いいか。
 待たせたことを謝ったら、五色は「待ってないですよ」と言った。嘘吐き。絶対そこそこ待ってたでしょ。かわいい後輩だったくせにかっこいい男みたいなこと言っちゃってさ。そう思いつつも言わないでおく。五色はにこにこと上機嫌に今日あったことを話してくれる。いつも思うのだけど、この光景が高校のときと何も変わっていなくて面白い。高校一年生だった五色と、高校三年生だったわたし。あのときと何も変わっていない。

「どこでご飯食べる? お誕生日様の好きなところに行こうよ」

 スマホでお店を見ていたのかな、となんとなく予想しつつ聞いてみる。もちろん「どこでも」と言われることも予想して先に調べたお店も何軒かある。どっちの回答でも準備万端ですよ。そう一人で得意げになりながら五色の顔を見上げると「あの」とちょっと照れくさそうに口を開いた。どうやら行きたいところが決まっているらしい。どこでもどうぞ。ちなみにお財布の準備もしっかりできていますので。そう茶化して言ったら五色は、そうっと視線をそらした。それからすぐにわたしのほうに恐る恐る視線を戻して、なんだか口ごもっている。どうしたんだろうか。そう不思議に思っているとようやく五色がもう一度「あの」と言った。

さんの手料理が食べたいんですけど……いいですか?」
「……えっ、せっかくの誕生日なのに?」
「誕生日だからですよ」

 恥ずかしそうにしながら五色が「食材は俺が買うので!」と言い出した。いや、それはわたしが買うけど。それにしてもそんなんでいいのだろうか。別に料理が上手ってわけじゃないから大したものは用意できないのだけど。五色がそれがいいと言っているんだからそうしてあげたほうがいいのかな。ちょっと悩んだけど、まあ、お誕生日様の言うことは絶対だ。「いいよ」と返した。
 と、いうことは? そんなふうにちょっとだけ思う。手料理ということはお店じゃなくてわたしの家になるってことだ。五色がわたしの家に来るのは二回目。あの何もしない約束を笑いながらさせた日の夜以来だ。まあ、何も思い出さなかったことにしよう。変に緊張してしまうから。
 家の冷蔵庫の中身を思い出す。あんまり充実しているとは言えない内容だった気がする。そんなふうに苦笑いをこぼしつつ何が食べたいとかいろいろ聞きつつ、ひとまずスーパーへ行くことにした。
 駅から出て近くにあるスーパーのほうへ歩いて行く。五色はなんだかそわそわしていて、何が食べたいかをにこにこと考えていた。かわいい後輩の顔をしているのにしっかり車道側を歩いている。昔から優しくて気遣いのできる子だったけれど、彼女という立場になるとなんだか特別に思えてしまった。
 横断歩道を渡って右に曲がった先にあるスーパー。わたしがいつも寄るところだ。今日も今日とて奥様や会社帰りのサラリーマンが多いな、と思いつつ五色が挙げていく食べたいもの一覧を頭に書き留めていく。五色って好きな食べ物なんだっけ。ぐるぐる記憶を巡ってカレイの煮付けだったと思い出したところで「あ」と聞き覚えのある声が聞こえた。

「瀬見さん!」
「久しぶりだな、二人とも」
「こんなところで何してるの? 家この辺りじゃないでしょ?」
「友達の家が近くなんだよ。来る前に飲み物買ってこいって言われてさ」
「パシリだ?」
「嫌な言い方すんなよ」

 コンビニの袋をぶら下げた瀬見は世間話を適当にしてから、にこりと笑った。気持ち悪いんだけど。そうクレームをつけたら「さっきからひどくねえ?」と五色に訴えていた。

「デートか?」

 いつぞやにも同じこと言ってきたよね、瀬見。そのときはご飯に行くだけ、と言い返したっけ。そのあとに五色がデートだって主張したものだから恥ずかしかったよなあ。まだ付き合ってなかったのにさ。そんなふうに思いを馳せて笑ってしまう。

「デートだよ」

 そう返したらなぜだか五色が顔を赤くして大いに照れ始めた。瀬見はそんな五色を見て「照れんのかよ!」と五色の背中をバシバシ叩いてしこたま笑って、「じゃ、デート楽しめよ」と言って去ろうとする。おい待て、かわいい後輩の誕生日を祝え。「五色誕生日なんですけど先輩〜?」と言葉を投げかけたら「マジで?!」と大慌てで戻ってきた。

「工、悪い! 今何も持ってないわ!」
「いいですいいです! 気持ちだけで嬉しいので!」
「今度会うときまでに歌作ってやるよ!」
「聴かされる五色への罰ゲームじゃん」
と工に向けたラブソングにしてやるから覚悟しとけよ」
「地獄じゃん、やめて本当に」

 瀬見は「冗談だって」と言ったが、たぶん冗談じゃないと思う。心の底からサプライズだと思って披露されそうだ。今から耐性をつけておかないと。そう曖昧に笑っておく。瀬見は五色に「おめでとう、今度なんか奢るわ」と言われて嬉しそうにしていた。かわいい後輩。みんなにかわいがられ続けるんだよ、これからも。そんなふうになんだか微笑ましかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 どうやらお気に召したらしい。いつもならやかましく騒ぐであろう五色が静かに黙々と箸を進めるのを見て、一人でこっそり笑った。別に特別なにか隠し味をしたわけでもなく、レシピサイト通りに作っただけなんだけどな。五色のお母さんのほうが料理上手だと思うよ。お会いしたことはないけれど。
 きれいになったお皿。五色は手を合わせて「ごちそうさまでした」とちゃんと言ってからわたしの顔を見た。ここまで無言で黙々と食べていたけど、いかがでしたか。そんなふうに茶化して聞いてみる。五色はこっちが恥ずかしくなるくらい目をきらきら光らせて「おいしかったです」と噛みしめるように言った。
 変わってる。本当に。特別なことなんて何もしていないのに、なんだか全部が特別だって言ってくれているみたい。皿を片付けようとするお誕生日様を無理やり着席させて、お皿を一つにまとめて台所へ運んでおく。あ、ケーキ。お店でご飯を食べるつもりだったからさすがに用意していない。今から作るなんて選択肢はちょっと厳しい。さすがに明日かな。残念だけど。
 洗い物はあとですることにして、リビングのほうへ戻ると五色がじっと何かを見ていた。視線の先に目を向けると、わたしたちの代の引退試合のあとに取った集合写真があった。あの写真、なんだか名残惜しくてしまえないんだよね。そんなふうに言いつつ五色の隣に座ると「はい」となんだか静かな声で返事があった。

「五色はいつからわたしのこと好きだったの?」
「えっ、なんですか急に……!」
「気になって。全然気付かなかったからさ」

 けらけら笑って聞いてみたそれに五色は照れくさそうに視線をそらした。言いたくなかったらいいよ、と言ったのだけど五色は少し考えてから「た、たぶん、夏前くらいです」と自信なさげに言った。なんで自信なさげなの。ちょっと気になって突っ込んでしまう。

「いや……あの……気付いたら、って感じだったので、はっきりは分からなくて……」
「いつ気付いたの?」
「卒業式の前日です」
「えっ、気付いたその日に告白してきたの?」
「明日からさん、もういないんだなって思って」

 それを考えたことで、それを寂しいと思ったことで、それをどうにかしたいと思ったことで、気が付いたと五色は言った。それで迷わず告白してくるのが五色らしい。きっとわたしが五色の立場だったら怖くて言えないよ。そんなふうに返したら五色がじっとわたしのことを見つめてきた。

「なんであんなこと言ったんですか?」
「……根に持ってる?」
「いえ、あの、そういうわけではなくて。さん、ああいうこと言う人じゃないのになって気になってて」

 五年経ってもわたしのことが好きだったら付き合おっか。軽く言った自分の言葉を思い出す。しかも五年という年数も五色≠フ苗字に五≠ェ入っているからというくだらない理由だ。あまり思い出さないでほしい、というのはさすがにわがまますぎる。それくらいは分かった。
 ソファの背もたれにぐっと体を預けつつ、「ん〜」と言葉を濁す。なんて言おうか。何を言っても呆れられそう。不甲斐ない先輩で申し訳ない。けれど、言葉を取り繕っても無駄だとなんとなく分かるし、そもそもわたしは五色に嘘を吐くことが苦手だ。これは最近自覚したことなのだけど、嘘を吐いたあととても後悔するのだ。疑うことを知らないかわいい後輩を騙している、という光景が目の前に広がっていたたまれない。それに気付いてからはどんなに些細なことでも正直に答えるようにしている。

「五色はね、もっといい人に必ず出会えるって思って。どんどん遠くに行こうとする五色についていけないかもしれないって不安に思って、気持ちに応える自信がなかったからだよ。ごめんね」

 変わることが怖かった。五年もあれば忘れてくれるだろうと思った。そう素直に言うと、五色は目を丸くしてしばらく黙り込んでしまった。我ながら情けない。もうあの卒業式の日からずっと情けないことばっかりだ。自分で笑ってしまった。
 ぼろっ、と五色の大きな瞳からきらきら光るものが落ちた。ぎょっとして「えっ」と思わず声を上げてしまった。ぼろぼろ流れていくのに構わず五色はわたしをまっすぐ見つめるだけで、何も言わない。
 五色の右手が伸びてきて、さらりとわたしの髪をすくった。それからすぐに自分の顔を寄せるようにわたしに抱きついて、ずずっと鼻をすする。両腕がわたしをきつく抱きしめると同時に、首元にぽたりと何かが落ちた感覚があった。

「好きです」
「え、な、なに、急に。ありがと、わたしも好きだよ」

 ぽたり、とまた一粒首元に落ちてくる。くすぐったいよ、五色。そう笑いつつ抱きしめ返して背中をぽんぽん撫でる。子どもをあやすみたいにしてしまった。もう立派な男の人なのにね。ごめんね。そんなふうに笑ったら五色は痛いほど腕の力を強めて、また鼻をすすった。

「卒業式のときよりも、会ってくれるようになったときよりも、付き合う前よりも、昨日よりも、さんのことが好きです」

 ぐずぐずと泣きながら言ったその言葉に、なんだかわたしまで泣きそうになった。なんでわたしなんか。そう言いそうになったけどぐっと堪える。卑屈病はだめだね。五色が好きだって言ってくれる自分をもっと誇って、もっと大事にして、こうやって五色と一緒に過ごさなきゃね。
 かわいい後輩だった五色はもう目の前にはいない。誰よりもわたしを想ってくれる、とても頼り甲斐があってかっこいい男の人しか、目の前にはいなかった。


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