どこからどう見ても「緊張してます」って顔をされるとこっちも緊張するんだけど。そう内心思いつつ、口にするのは可哀想な気がして黙っておくことにした。そわそわしている五色をソファに座らせてとりあえずお茶を出しておく。

「五色、改めてだけどありがとうね。本当に助かったよ」
「えっ、あ、いえ! でもこれからどうするんですか?」
「今日はたまたまタクシーが遅くなっただけだし、これからもこのままで、」
「だめですよ! また同じようなことになったらどうするんですか!」

 ごもっとも。正論を言われるとちょっと悔しい。五色は「引っ越しとかできないんですか?」と真剣にどうしたらいいかを考えてくれる。警察に、とも言ってくれたけど前にされた対応の話をしたらちょっと怒ってくれた。でも、本当にわたしの気のせいかもしれないから。そう苦笑いして言ったら、五色は「でも、さんが怖いなら十分相談する事案ですよ」と言った。気のせいかもしれない、自意識過剰なだけかもしれない、と自分を誤魔化してきたわたしにとって、その言葉はとても嬉しいものだった。
 やっぱり一番手っ取り早いのは引っ越しになってしまう。予算的にはできなくはないけれど、今から引っ越し先を探して引っ越すとなるとすぐには無理だ。その間の帰りはタクシーで凌ぐしかないか。そんなふうに思っていると五色が「いつも何時くらいになるんですか?」と聞いてきた。残業しない日は早く帰るし、ある日は結構不定期だ。何時とかいつまんで言うのは少し難しい。言えることは早ければまだ明るい時間帯で、遅い日はどんなに遅くても今日くらいになることは滅多にないということだけだった。
 引っ越し作業をしている間だけ会社からタクシーで帰ろうかな。またしても出費になるけど、安全のためなら仕方がない。そうこぼしたら五色が「九時くらいなら俺、送りますよ」と言った。さすがに驚く。五色がどんなにいい子でも、わざわざうちの最寄り駅まで来て家まで送るためだけにここまで来るなんて。大学の授業や部活があるんだから、と断った。五色は「でも、他に頼る人いるんですか?」とちょっと語気を強めて言ってくる。

「いない……けど、だからって五色に甘えてばっかりもね?」
「いいですよ。練習終わったら連絡入れるので遠慮なく言ってください」
「で、でも……」
「心配なんです。それくらいさせてください」

 そこは、会社からタクシーで帰ったほうがいいですよ、って言うところじゃないの。ちょっと出費が云々なんて言ってる場合じゃないでしょってさ。
 わたしは五色に意地悪を言った相手なのに。五年経っても好きだったら、なんて、五色にとったら意地悪以外のなんでもなかっただろうに。それでも優しくしてくれる。そんな五色はやっぱり、ちゃんといい子を好きになったほうがいいのに。どうしてわたしなんか、好きでいてくれるんだろう。よく分からない。分からないけど、正直、嬉しかった。ひどいやつ。自分をそう笑っておく。
 とりあえず分かったと言わないと納得してくれなさそうだ。そう思って「分かった分かった、お願いします」と笑って言ったのだけど、五色はじっとわたしを見てから「とりあえず言っておこうって思ってますよね」と言い当ててきた。鋭い。五色はどちらかというと言葉の裏を読める子じゃなかったはずなのだけど。大人になったんだなあ。そんなふうに感心してしまう。

「分かった、五色の迷惑にならない程度にお願いします」
「はい!」

 なんでそんなに笑顔になるんだろう。よく分からない。たとえわたしのことが好きだったとしても、部活終わりに迎えに行くなんて面倒じゃないの、普通は。内心は思ってるのかなってちょっと勘ぐったけど、五色って嘘がつけないタイプだからたぶん、ついていないと思う。そこも大人になっていたら上手に嘘をつけるようになったのだろうけど、そうは思えなかった。変な子。口には出さずぼそりと頭の中で呟いておく。
 わたしが出したお茶を一口飲んでから、思い出したようにポケットからスマホを出した。何か打ち込み始めたから誰かにメッセージを送っているのだろう。五色の隣に腰を下ろしてぼんやり横顔を眺めてしまう。変わってない、けど、ちょっと大人っぽくなったかも。それもそうか、五色、大学二年生だもんなあ。なんとなくそれを実感しつつふと「五色って今いくつだっけ」と聞いてしまう。

「え、十九歳です」
「…………未成年だ……」
「そっそうですけど! 八月で二十歳になりますよ!」

 そこは別に悔しがるところじゃないよ、五色。それにしても十九歳かあ、未成年の子を夜一人歩きさせてしまった成人になってしまった。情けない限りだ。そんなわたしの様子が伝わったのか五色が「子ども扱いしてませんか?」と余計に悔しそうな顔をした。

「ごめん、親御さんとか大丈夫? 五色一人っ子でしょ? 心配してない?」
「今連絡したところなので大丈夫ですよ」
「得体の知れない成人女に取り込まれてるとか思われないかな?」
「なんでそうなるんですか……」

 あ、ちょっと呆れた顔をしてる。ころころ表情が変わって面白い。大人っぽくはなったけど、やっぱりかわいい後輩のままだ。ちょっと安心した。
 それにしても早く引っ越ししないと、ずっと五色に迷惑をかけてしまうから明日から物件探しだな。荷物も多いから断捨離しなくちゃいけないし、急にやることがいっぱいになってしまった。でも、面倒だからとか時間がないからとか、そういう理由で先延ばしにしていたから、五色に背中を押してもらえてよかった。そんなこと言っている場合じゃなかったのに。きっとわたし自身が心の中で気のせいだし大丈夫だろうって思っていたのかもしれない。それなのに、五色は本気で心配してくれたんだなあ。そう思ったら、きゅ、と心臓の奥が音を立てたような感覚がした。なんだろう。よく分からない。分からないから知らんふりをすることにした。
 五色はもう家でお風呂に入って寝るところだったらしいから、先に寝てもらうとして、さて、どこで寝てもらえば。そう少し考えてから「五色、壁側でいい?」と聞いてみる。お風呂に入らなきゃ。ソファから立ち上がってから五色に視線を向けると、きょとん、とした顔でわたしを見上げていた。

「え、何?」
「壁側ってなんですか?」
「いや、ベッド」
「…………エッ?!」
「ベッド一つしかないし、わたしソファで寝ると寝違えるから」
「いや、いやいや、それはちょっと! 俺がソファ借りますから!」
「体が大きいんだからこんなとこで寝られないでしょ」

 寝違えられても大学の部活の人に迷惑になるし。そう言うと五色は「じゃあ床で」と言った。床も同じ。体を痛められても困るから却下。うちには予備の布団もないし、春とはいえまだ肌寒くなるときも多い。風邪を引かれても困る。そう言えば五色はそれ以上代替案がないのか「うっ」と言って固まった。無言の抵抗。高校生のときから反論材料がなくなると無言でとりあえず抵抗してみるところは変わらない。かわいい後輩だ。問答無用だけど。
 五色を引っ張ってベッドに座らせる。終始微妙な顔をしていたけれど気にせず「おやすみ」と声をかけた。わたしがお風呂から出てきても布団に入ってなかったら怒るからね、と言い残してそそくさとリビングを後にした。
 脱衣所のドアを閉めてから、ゆるゆると座り込む。いや、そんなに嫌がらなくてもいいじゃん。ぽつりとそう小さな声で呟いてしまう。わたしのこと好きなんだったらラッキーくらいに思えばいいのに。わたしだって、そんなの、五色以外の男の人に言わないよ。それくらい分かればいいのに。かわいがられていた自覚があるなら、だけど。
 わたしって、五色のこと、好きなのかな。答えが返ってくるわけないそれをぽつりと呟いてしまう。五色が来てくれて嬉しかった。心配してくれてとても嬉しかった。手を繋がれるのも嫌じゃなかった。家に入れるのも全然嫌じゃなかった。一緒の布団で寝るのも嫌じゃないし、正直、もし、何かされてもいいやって、思った。……いや、やっぱり最後のはなし。何考えてんだろう、わたし。後輩に対して何はしたないこと考えてるの。欲求不満かよ。一人でツッコミを入れておく。
 立ち上がって服を脱いで、お風呂のドアを開ける。鏡に映った自分を見てなんだかへこんでしまう。絆されているのかな。好きだって言われて好きになったのかな。そうだとすれば本当、単純で恥ずかしい。かわいい後輩なんだからちゃんと向き合ってあげなきゃいけないのに。もっといい子がいるよって分かってもらわなきゃいけないのに。そう思っている心とは裏腹に思わせ振りなことばかりしてしまう。自分が何を考えているのかが分からない。ため息がこぼれた。
 そこからもうどうにでもなれ、と無心でお風呂に入り、無心でお風呂を掃除し、無心で部屋着を着て歯を磨いて髪を乾かした。何も考えないほうがいい。五色のことが好きなのかどうかも、もう考えない。どうせ忘れられるのだから。
 そう考えて、ふと思い出す。わたしが卒業してもう四年。五色に言った五年まで、あと一年に迫っていた。おかしい。大学でかわいい子と知り合ってわたしのことなんか忘れちゃうだろうって思っていたのに、もう四年も経ってる。五年って早いね? 自分で言ったのになんだけど。とっくにたくさん女の子と知り合っただろうに、なんでわたしの家にいるんだろう、五色。なんでわたしのことを心配してくれているんだろう。そこまで考えて、タクシー代をもらって帰るかわたしの家に泊まるかの問答での、五色の言葉を思い出してしまった。「俺、さんのこと、好きなんですけど」。それを思い出した瞬間、ぶわっと顔が熱くなった。なんでこのタイミングで思い出したの、自分。馬鹿じゃないの。
 いや、もう全部知らんふりだ。わたしは何も考えていなかったし何も思い出さなかった。以上。自分に言い聞かせるようにして脱衣所を出る。本当、急に何を意識し出したんだか。五色はかわいい後輩以外の何者でもない。そんなの高校生のときから変わらないはずなのに。
 リビングに戻ると、電気はついたままだった。五色はわたしに言われたとおりベッドに寝ていた。顔が壁にぶつかってるんじゃないかってくらいの距離だからちょっと笑いそうになったけど、とりあえず堪えておく。明らかに起きてる。それが分かる雰囲気だった。それも知らんふりして電気を消したら、びくっと五色が肩を揺らした。やっぱり起きてた。でも、これでソファで寝るだのなんだの言われたら困るし、やっぱり知らんふり。そのままベッドに近付いて掛け布団をちょっとめくる。そうっと隣に寝転んで五色に背中を向けると、いつもは感じない人の体温がなんとなくくすぐったかった。
 なんとなく寝心地が悪い。いつも壁側を向いて寝ることが多いからかな。そう思って体の向きを変える。必然的に五色の背中が目の前に見えるわけだけど、大きな背中だなってなぜだか思った。もう見慣れているはずなのになんでだろうか。こんなに大きな背中をしている五色のことをかわいいなんて言ってるんだな、わたし。そう思うとなんだかおかしくて。ちょっと笑ってしまった。

さん」
「うわ、びっくりした。やっぱり起きてた」
「……あと一年ですからね」

 恨めしそうな声で言われた。五色はそのあとで「おやすみなさい」と言って、もう喋らなかった。


戻る瞳がきらりと泣いていた