卒業して四年目の春。未だに帰りは最寄り駅からタクシーに乗って自宅に帰っている。やっぱりあの靴音の記憶が今も脳にこびりついていて、どうしても怖くてたまらない。もうあの先輩の影はどこにも見えないのに、いつも後ろにいるように思えてならなかった。
 去年の夏頃、五色から定期的に連絡が来るようになった。大学生はそれなりに時間が自由だしね。微笑ましく思いながら会話に付き合っている。大学のバレー部での話とか、授業の話とか。どれもこれもなんだかキラキラしていて、読むだけで元気になれる。怖いこととか嫌なこととか、五色からのメッセージを読んでいるときは忘れられた。それが今は何よりも有難くて、わたしからたまに送ることもある。五色はいつでもそれに付き合ってくれるからついついどうでもいいことも送ってしまいがちだ。
 五色、そろそろ好きな子できたんじゃない? そんなふうに思う。大学なんてかわいい子いっぱいいるでしょ。バレー部にマネージャーもいるんじゃないのかな。それなら、わたしなんかもう忘れちゃえばいいのに。大してかわいいわけでも何か秀でたものがあるわけでもないんだから。でも、ちょっと、寂しいかも、なんて。
 いよいよ悪女だな、と笑う。天童にまた叱られなきゃいけないかもしれない。付き合う気がないなら気があるように見せちゃだめだよね。かわいい後輩なんだからさ。

さん助けてください〜」

 去年入社したばかりの後輩の声に顔を上げる。どうしたのかと聞いてみれば、明日提出しなければいけないデータを間違えて消去してしまったのだとか。バックアップは取っていなかったのかダメ元で聞いたけどもちろん取っているわけもなく。あれだけちゃんとバックアップは取りなさいって教えたのに。そう頭を抱えてしまった。すでに退社時間を過ぎた午後八時。今からやると日付が回る前には帰れるけれども。そうため息を吐きつつ「手伝うから、超特急で終わらせよう」と言えば後輩は泣きながら「ありがとうございます」とわたしの手を握った。はじめからこうするつもりだったでしょう。全く。そう苦笑いをこぼしつつ、仕方なく作業に取りかかった。
 帰り、タクシー呼ばなきゃ。もうここ最近ずっとタクシーだから結構な出費になっている。駅からたった十分ほどの距離とはいえ、毎日になるとかなりの額だもんなあ。そうため息をこぼす。怖がらずに歩いて帰ればいいのだけど。もう先輩がいなくなって二年が経っている。きっと大丈夫、なのだろうけど。あの日掴まれた腕の感覚がまだたまに夢に出てくる。靴音も、階段を上がってくる音も。思い出すたびゾッとして、引っ越そうかずっと悩んでいる。引っ越すとなるといろいろ手続きがあったり、そもそも会社近くで物件を探したりするのも大変でなかなか踏み切れずにいる。引っ越し作業を一人でするのも大変だし、どうしたものか。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「全然来ないんだけど……」

 一人でそう途方に暮れてしまう。時刻は午後十一時。タクシーを呼んだのが三十分前。タクシー会社に再度連絡を取ってみたら「事故渋滞にはまっているようで」と返答があった。抜け道か何か使ってきてくれればいいのでは。そう思ったけどあまり道に詳しくない人間がいちゃもんを付けるのも、と思って言わなかった。他のタクシーが来られないのか聞いてみると、今日は週末なので利用客が多いらしく、さらに待たせるかもしれないとの返答だった。さて、どうしたものか。別のタクシー会社にも連絡してみたけど、どこも待ちが出ているとの返答だった。わたし、ブラックリストとかに載ってないよね。そうちょっと不安になりつつ電話を切った。
 歩いて帰るのは絶対に嫌だし、渋滞にはまっているタクシーを待つしかないか。そう仕方なくタクシー乗り場で待つことにした。何か飲み物でも買おうかな。自販機がすぐ近くにあったはずだし。そう駅の外にある自販機に向かって歩き出そうとした、そのときだった。
 コツ、コツ、と靴音が聞こえた。びくっと肩が震える。革靴の音。歩幅とか、音の響き方が、似てる。怖くて振り向けない。怖い。もしかして、先輩だったら、どうしよう。自販機に向かいながらぎゅっと自分の手を握る。怖い。どうしよう。周りに人はいない。駅に戻れば人がいるはず。このまま自販機を通り過ぎて駅に入ろう。そうすれば下手に追いかけて来たりはしないはず。少し早歩きで自販機の前を通り過ぎた。コツ、コツ、と革靴の音はまだ着いてくる。駅に向かう人、だよね。きっとそうだ。きっとそうだ、と、思うけど、振り返れない。
 怖くなって走った。すると、靴音もあとから走って来た。すぐに駅に入って女子トイレに駆け込む。さすがにここまでは着いてこない。きっと。急いで入ってきたわたしに先にいた女性が少し驚いていて申し訳なかったけど、手洗い場の前でぎゅうっと自分の手を握ったまま息を潜めてしまう。
 このあと、どうしよう。出て行ってもし鉢合わせたら、わたし、どうなるんだろう。もうタクシー乗り場に一人で待つこともできなくなる。追いかけられて、もし、追いつかれたらどうなっていたんだろう。あとどれくらいこの恐怖を忘れられずに過ごすんだろう。引っ越しても引っ越し先に着いてきたら、いつかタクシーを降りたところを待ち伏せされたら。いろんな恐怖が一辺に頭をめぐって、少し、泣きそうだった。
 そんなときだった。鞄の中のスマホが震える。ハッとして顔を上げたら、後から入ってきたらしい女性がチラチラとわたしを見ていた。変な人に思われてるのかな。そう恥ずかしくなって端っこに寄っておく。まだ、今は出て行く勇気がない。とりあえず何かを待っている人を装うために鞄からスマホを出した。さっきの通知はダイレクトメールか何かだろう。そう思って画面を見たら、五色からのメッセージだった。
 こんな時間に珍しい。明日は休みだけど部活はあるだろうに。早く寝なくちゃ起きられないでしょ。そう少し笑えた。やっぱり五色からのメッセージを読んでいるときは忘れられるんだなあ、いろんなこと。救われた気持ちになった。五色から「明日オフなんですけど、さん空いてますか」と来ていた。あれ、土曜日なのにオフなんだ。珍しい。そう思いつつ「空いてるよ」と返した。すぐに既読がつくと、五色から「今家ですか?」と返信がきて驚いてしまった。家じゃない。まだ外だよ。もしかしてなんとなく分かってそう聞いてきたのかな。偶然だとは思うけど。素直に「駅だよ」と返すと、すぐに「仕事終わりですか? 遅いですけど大丈夫ですか?」と来た。
 大丈夫、じゃない。一人でそう呟いてしまった。でも五色には関係のないことだ。わたしが変な靴音を怖がっていることも、家にどう帰ろうか悩んでいることも、全部、五色には関係ない。彼氏でもないんだから頼れない。かわいい後輩をこき使うようなことはしたくない。それこそ、五色からの好意に甘えているだけになる。都合のいいときだけ好意に甘える本当の悪女になってしまう。
 タクシーが来ていたらダッシュで乗って帰ろうと思ったけど、電話で確認したらあと二十分はかかると言われた。さすがにもう帰ってくれたと思いたいけど、分からないから怖くて出られない。なんでわたしがこんな目に遭うんだろう。そう思ったら悔しくて、ぼろっと涙がこぼれた。かっこ悪い。そう涙を服の袖で拭ったとき、左手に握っていたスマホが震えた。そのバイブレーションがなかなか止まらないからびっくりしてスマホの画面を見ると、五色から着信が来ていた。
 なんで? なんでこういうタイミングで気にしてくれるの? 鼻をすすってもう一度涙を拭いて深呼吸。よし。大丈夫。そう自分に言い聞かせて、スマホの画面をタップした。

『あっ、急にすみません! お疲れ様です!』
「お疲れ。どうしたの?」
『いえ、あの、既読が付いたのに返信がなかったので……さん、いつもすぐに返信くれるじゃないですか。夜遅いし、大丈夫かなって』
「あはは、何それ。大丈夫だよ。ちょっと目を離しちゃっただけ」
『……あの』
「うん?」
『もしかして泣いてますか?』

 ぎゅっとスマホを握り直してしまった。なんで分かるの。ちゃんと普通にしていたつもりなのに。五色は何も関係ないから、何一つ、知らなくていいことなのに。だってもし、もし仮に、わたしが五色に助けを求めたとして、五色が巻き込まれて怪我なんかしたら。そう思うと、何よりもそれが怖かった。それがバレーに関わるような大きな怪我になったらって。いくら五色がいい子で、わたしに好意を向けてくれているからって、それに甘えた結果が五色にとって良くないものになるかもしれない。それが、何より、嫌だった。

『あの、俺で良ければ話とか聞きますよ! 話してください!』

 こんなにいい子が、なんでわたしなんかのこと好きになったんだろう。不思議でたまらない。思わずぐずっと鼻をすすってしまった。それが聞こえてしまったらしい五色が「どうしたんですか、何があったんですか」と電話の向こうで慌てている。
 怖かった。ずっと。タクシーで帰っても、早く帰っても。出かけている間や朝会社に向かう間も、あの革靴の音が頭の中に刻み込まれていて、ずっと、怖かった。きっと気のせいだと思う。前におばさまに助けてもらったときも、今も、これまでも。きっとアパートまでつけてきたあのとき以外は全部気のせいなんだろう。それでも、あの夜の恐怖がいつまでもわたしの中に在って、怖くてたまらなかった。誰かに話してしまいたかったけど、気のせいかもしれないし何もされていないしと話させなくて。交番の人にもそう言われたから余計に話せなくなって。親にも心配をかけてしまうから言えなかった。

「五色、あのね」
『はい!』
「だ、大丈夫、じゃないの、本当は」
さん今どこの駅にいるんですか?』
「○○駅の女子トイレにいる……ちょっと、出られなくて」
『すぐ行きます、電話このままにしとくので!』

 ガタガタっと何か物音がしてから、五色が「ちょっと出てくる!」と誰かに声をかけた。恐らく家族の人だろう。実家から大学に通っていると聞いた覚えがある。仙台駅からそこそこ近いと言っていたはずだから、結構遠いのだけど、大丈夫かな。言ってしまってから少し後悔してしまって。ぽつりと「ごめん」と言ったら五色は「いえ!」とだけ言った。


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