大学に合格した、と五色から連絡があった。おめでとう、と返信したけれどそれ以上のことは何も送っていない。五色から届いたメッセージをもう一度読み返してから瞬きをする。きっとこれから、もっと遠くに行くんだよ、五色は。そう小さく笑った。
 なんで五色のことはきっぱり断らなかったの。天童に聞かれたそれを考えていた。いくらかわいがっていた後輩だったからって、可哀想だからと曖昧にするのは確かに良くない。悪女と言われても仕方がないことだ。そんなことはわたしも分かっている。でも、今そう分かっても、わたしは五色の告白をきっぱり断れなかったと思う。
 なんでかなあ。そうぐっと伸びをする。もうずいぶん人が少なくなった会社内には締め切りにウンウン唸っているわたしを含めた数人がいるだけ。ここ最近仕事がうまくいかなくてこうして残業をすることが増えている。帰りは先輩が送ってくれているのだけど、なんだか申し訳なくなってきたからそろそろお礼を言って断ろうと思っている。もうあの靴音もきっと追いかけて来ないだろう。わたしがしばらくあの道を歩かなくなったから諦めているだろうし。それに、やっぱり気のせいだったかもしれない。わたしと同じアパートに住んでいる人だったのかもしれないし、何も起こっていないのだから。怖がりで困るわ、と母親に言われたことがあるくらいだ。きっと怖がりすぎてネガティブな想像をしてしまっていたのだろう。

さん、そろそろ上がる?」
「あ、先輩……いえ、もう少し残るので、今日は大丈夫です」
「いいよ、コーヒーでも飲んで待ってるから」

 さすがに待ってもらうのは申し訳なさすぎる。明日締め切りのものはついさっき終わったから大丈夫だし、明後日のものは明日に回してしまえばいいか。……って、こんなふうに早めに切り上げて帰ってるから仕事が遅くなるんだけど。かといって断り切れないし、意志が弱くて嫌になる。「あの、じゃあもう帰ります」と言ってしまった。わたしって馬鹿だな。
 断り切れずに乗せてもらった車の中で、鞄に入れてあるスマホが通知を知らせる。先輩に乗せてもらってるんだから見たら失礼かな。そう思って知らんふりをしていたのだけど、先輩が「スマホ鳴らなかった?」と声をかけてくれた。あ、見てもいいんだ。前に上司から目上の人の前でむやみにスマホは見ないほうが良い、と教わっていたけど先輩は怒らない人なんだな。いい人だ。そう思いつつ「すみません、ちょっと見ますね」と声をかけてからスマホを取り出す。
 画面を見てちょっと「あ」と心の中で思った。五色からだった。何かと開いてみれば、「一緒にご飯行ってくれませんか」というお誘いだった。なるほど、合格祝いのおねだりか。そうちょっと微笑ましく思いつつ「いいよ」と返信しておいた。
 そんな様子を横目で見ていたらしい先輩が、「もしかして、彼氏?」と聞いてくる。違います、ただの後輩です。ただの、かわいい後輩なんです。そう照れつつ言った。本当にそうだ。ただのかわいい後輩。わたしにとっては五色はそれでしかない。高校のときからそれは変わらない。これからも。
 車が停まった。まだ家の近くじゃない。公園近くの路肩だ。どうしてこんなところで停車したんだろうか。そう不思議に思っていると、先輩がわたしのことをじっと見て、「やっぱりさんのことまだ好きなんだけど、付き合ってくれないかな」と言った。スマホを握ったままぽかんとしてしまう。先輩は優しくていい人だけど、そんなふうに見たことはない。これまでもそうだし、これからもきっとそうだと思う。だから、いつもこうして送ってもらっている手前申し訳なかったけど、あのときと同じようにお断りをした。ごめんなさい、と頭を下げて。

「どうして?」
「す、すみません、先輩のことをそういうふうに見たことがなくて」
「同期の子にもらった大事なペンも、高校の友達にもらった大事なメモスタンドも、俺が見つけたのに?」
「え」
「ストーカーに追われて怖がっていたのを助けたのも俺なのに?」

 絡みつくように腕を掴まれた。先輩は無表情のまま「全部俺が助けてあげたのに?」と呟く。同期の子がくれたペンはともかく、どうしてあのメモスタンドを高校の友達からもらったことを知っているのだろう。それに、何より、わたし、帰り道で変な靴音に追いかけられていたことなんか、誰にも話してないのに。
 怖くなって、先輩の腕をどうにか振り払って車を降りた。駅が近くにあるところだったから走って駅のほうへ逃げて、女子トイレに駆け込んだ。どうして先輩があの靴音のことを知っているのだろう。どうしてそれを怖がっていたことを知っているのだろう。どうして。なんで。それが消えなくて、怖くて足がすくんだ。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




さん!」

 大型犬かってくらいぶんぶん手を振ってくれる。嬉しいねえ、なんて笑いつつ「久しぶり」と手を振り返した。
 卒業式を終え、大学入学まで予定がないという五色とご飯に行く約束をしていた。合格祝いということなのでわたしが勝手にお店は決めた。しっかり防寒対策をしてきた五色のもこもこ具合がかわいくて、ついつい微笑ましくなった。「どこ行きますか?」とわたしの顔を見た五色が、一瞬で表情を変える。なんとなく驚いている顔をしているものだからどうしたのかと心配になった。首を傾げて「何?」と聞いてみると、五色は「あ、いえ」と言ってから、もう一度じっとわたしの顔を見る。

「顔色が悪い気がするんですけど、大丈夫ですか?」

 ドキッとした。五色には「今日は一段と冷えるからだよ」と答えたけど、本当は別に心当たりがある。
 先輩は、あの夜のあと突然会社を辞めた。突然辞めた上に辞めるまで一ヶ月あったのに無断欠勤で会社に来なくなった。先輩直属の部下だった子たちは毎日てんてこ舞いだったし、わたしもなんとなく罪悪感を覚えて手伝って遅くまで残業した日もある。わたしのせいかな。そう申し訳なかったし、何より、辞めたタイミング的にも、あの靴音はもしかして先輩だったんじゃないかって、不安で。もしかしたらフラれた腹いせに暴力をされたりするんじゃないかって、毎日怖かった。ここ最近はちょっとでも暗くなったり人通りの少ない時間帯になったりしたらタクシーを呼ぶことにしている。それでも、家にいる間は外の音が気になって仕方なくて、なかなか眠れずにいる。
 実際、先輩が辞めてから一度だけ、あの靴音が追いかけてきたことがある。怖くて走って逃げたら、靴音も走って来て。怖くて怖くて、半泣きで走っていたらたまたま通りがかったおばさまが声をかけてくれた。「あら、そんなに急いでどうしたの」と。わたしがあまりにもすごい形相だったからなのか、わたしのことをそのまま近所の公園まで連れて行ってくれた。自販機で買ったジュースをわたしに渡してくれた。とても、とても怖かった。見ず知らずの人の前でぼろぼろ泣いてしまって恥ずかしかったけど、おばさまが自分の孫だという男の人に連絡してくれて、その日は家まで送ってもらえた。何があったのか聞かれたので説明をしたら、警察に届けたほうがいい、と言われて交番に行ったけれど「実際は何もされていないんでしょう?」と門前払いを喰らった。結局解決していないままだけれど、一人で夜道を歩かないように最善の注意は払っているつもりだ。

「残業続きだったから寝不足なだけ。大丈夫だよ」

 でも、そんなこと五色には関係ないしね。そう頭の中にある不安を蹴散らすように笑う。今日は五色の合格祝いなんだから。そんなことは忘れてちゃんとお祝いしないと。まだ心配そうにしてくれている五色の腕を引っ張ってお店まで歩いて行く。五色はちょっと戸惑っていたけど、最終的には笑ってくれた。
 五色はすでに大学のバレー部の練習に参加しているのだという。さすがスポーツ推薦なだけある。白鳥沢学園を去ってもすごい選手なんだね、五色。そうなぜだかわたしは誇らしくなった。

「あ、卒業祝いと合格祝いみたいなものだから好きなの選んでね。先輩の奢りだよ〜」
「えっ、ええ、いいです! 奢らなくていいですから!」
「先輩命令だから奢られなさい」

 目的のお店に五色を引っ張って入店。五色は「本当にいいです! いいですから!」とずっとうるさかったけど、先輩命令で黙らせた。しばらくしたら「そんなつもりで誘ったんじゃないんです……」と寂しそうに言われてしまって。かわいい後輩だ。分かってるよ、そんなことくらい。そうおでこをピンと指で叩いておく。

「わたしがお祝いしたいだけなんだからいいの。素直に受け取ってくれたほうが嬉しいけど?」
「いや……だって……」
「何?」
「……す、好きな人に、奢られるの、情けないじゃないですか」

 ピシャッ、と雷が落ちたような感覚。五色、やっぱりまだわたしのこと? そうちょっと照れそうになったけどぐっと堪える。まだ。まだ二年しか経ってないもんね。大学に入ったら絶対忘れるから。
 とりあえず笑っておいたら五色が「あんまりです……」と余計にしょんぼりした。そんな顔をされてもお祝いはしますよ。そうメニューを渡したらようやく悔しそうではあったけど「ごちそうさまです……」と言ってくれた。好きなの頼みなさい。社会人の余裕をこれでもかと見せつけてやれた気がして満足した。
 久しぶりに楽しい時間だなあ。五色と話すのはなんでも楽しいから好きだ。高校生のときから。年が離れていなかったらもっとたくさん話せたのに。考えてもどうにもならないそんなことを、ちょっと切なく思ってしまった。


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