毎日時間を作っての病室に来ているのだけど、はちっとも楽しそうにしてくれない。いつもなんだか申し訳なさそうで、いつもなんだか緊張していて。
 体の調子はあまり変わっていないけど悪くもなっていない。看護師さんからそう聞いた。ただ、の腕から点滴の針の痕は消えつつある。看護師さん曰く、確かには点滴や注射の針を刺しにくいタイプらしい。点滴や注射をするときは必ずこの病院で一番上手な人がやってくれているそうで失敗がほぼなくなったと聞いた。嫌いでしょ、針刺されるの。そうに言ったら「ちょっと苦手なだけだよ!」と恥ずかしそうにしていたっけ。ご飯も前の病院よりもう少しだけ味が濃くなったはずだし、甘い物や果物も多めに出るようになった。喜んでくれると思ったのだけど、は申し訳なさそうなままで。
 のお母さんとお父さんも同じだ。返さなくて良いって言っているのに、いつかお金は返すといつも言ってくる。よく分からない。おれがやりたくてやっているだけなのに。そう思うからいつも「が元気になれば何もいらないよ」と返している。のお母さんはそれを聞くと、目を丸くして少しだけ照れくさそうに笑っていたっけ。

「け、研磨」
「なに?」
「…………わ、わたしのこと、ど、どう思ってる、の?」
「何が? 好きだけど?」
「そ、それは幼馴染としてでしょ?」

 幼馴染としての好きだったとして、何が悪いの? そう返したらは少し俯いて「だめだよ」と曖昧に笑った。は彼女とか奥さんになる人が将来できたらどうのこうの、と言い出して余計に首を傾げてしまう。いや、だから。そうの言葉を遮って「それがなんだけど」と言ったら、余計に俯かれてしまった。
 おれはのことが好きだ。恋じゃないはずだったけど、好きなのだ。クロにも取られたくないくらい。ずっと一緒にいてほしいしずっとおれの目の届く範囲にいてほしい。これを執着だと笑う人もいると思う。おれもほんの少しそう思っている面はある。でも、それの何がいけないの?

「たとえばね」
「うん」
「研磨は、あの……わたしと、ちゅー、できる?」
「…………」

 質問の角度が思っていたものと違って黙ってしまった。は上目遣いでおれをちらっと見たり、またそらしたり。少し赤く染まった頬を見て、かわいらしい星を豪速で投げつけられたみたいな感覚になる。なに、その顔。見たことない。瞳が少し潤んでいて今にも泣き出しそう。きらきら光る瞳の奥に隠れているものが透けて見えた気がして、一瞬で顔がほんのり熱くなる。
 かわいい、とまた思った。の顔をじっと見たまま黙ってしまうとが「ほら、できないじゃん……」と拗ねてしまう。違う。そうじゃないんだけど、それよりも衝撃的だったから、黙ってしまっただけで。

「ずっと内緒にしてたんだけど」
「うん」
「わ、わたし、研磨のことがね」
「……うん」
「そういう意味で好き、だから、なんでもないふうに好きって言われると、へこむ……」

 へらり、と笑った。はその表情のまま俯いた。じっと自分の腕の点滴を見つめて「病院を紹介してくれたのも、お金のことも、感謝し切れないほどだけど」と呟いてから、顔を上げる。おれを顔をまっすぐ見ると「研磨がわたしの病気のことで、悩まなくて良いんだよ」と笑った。
 はじめてが倒れたとき、は呼吸ができなくて苦しかっただけで意識はあった、と言った。必死なクロの声も、おれが母親を呼びに行く声も、ぜんぶ聞こえていたと。その日からおれとクロが無意識のうちにのことを病気の子≠ニいう目で見始めたことにもすぐ気が付いたと、は笑って言った。

「研磨には研磨の人生を楽しく歩んでほしいよ」

 いつかに、のお母さんにも似たようなことを言われたっけ。親子ってやっぱり似るんだね。ちょっとムカつくけど面白いよ。ぽつりと心の中で呟いておく。
 恋じゃなかった。何度も言うけど。は生まれてはじめてできた友達で、おれにとってはきっと最初で最後の仲良しな女の子で、一緒にいて何も嫌なところも気を遣うところもない相手で、別に覚悟とか使命感とかそういうくだらないものなんかなくてもずっと一緒にいたいって思う子だ。病気を治す術があるならお金はいくら出しても惜しくないし、が楽しいなら面倒なことも我慢できる。でも、恋じゃなかった。だってそれがおれにとって当たり前だから。だから、大人たちが小難しいことを言って覚悟を決めろとかちゃんと考えろとか、そういうことを言ってくるのがすごく嫌だった。
 それはもう、恋なんじゃないのか? クロにそう言われたことがある。大学に入って少ししたとき、突然駅前のカフェに呼び出された。無視しようとしたのに「に言いつけるぞ」と言われたから仕方なく行ったのだ。そこでクロからのことをどう思っているのかとか、これからどうしたいのかとか、いろいろ聞かれて。さっき思った通りのことを口にしたら、クロは飲んでいたコーヒーをひっくり返さんばかりの勢いで大笑いしていた。周りの人が見てるからやめて。そう言ってもクロはしばらくそのままだった。笑いが治まってクロが言った台詞こそが「それはもう、恋なんじゃないのか?」で。

「…………
「う、うん」
「キスしてもいい?」

 ぼふっ、と枕が飛んできた。ふわふわの枕とはいえ顔に当たると痛い。枕を抱えつつ「痛いんだけど」とを軽く睨んだら、真っ赤な顔だけどどこか怒ったがいて。なんで怒るのかよく分からない、けど、たぶんおれの発言が軽率だったからなのだろうとは予想できた。

「好きでもないのに、そんなことしちゃだめだよ!」
「好きだって言ってるじゃん……」
「研磨は今、わたしを納得させようとしてるだけだよ!」

 カチン。思わず表情が引きつったのが自分でも分かる。なにそれ。何がをそんなに怒らせているのかがまったく分からない。
 ぽろぽろとの瞳から涙があふれた。さすがにギョッとして少し慌ててしまう。泣かせるつもりは、なかったのに。立ち上がってに近付こうとしたら今度は紙コップを投げられた。中身は入っていなかったけどちょっと驚く。から拒否されたことなんて、高校生のときにおれが彼女になってって言ったとき以来だった。

「わ、わたしが、病気、じゃなかったら、研磨、絶対、そんなこと、言わなかった」
「え」
「わたしが病気だから、優しくしてくれてるんでしょ」

 小雨が土砂降りになったみたいに、ぼろぼろとたくさん布団に涙が落ちた。きつく唇を噛んでどうにか声を抑えているの姿に、ただただ、呆気に取られてしまう。
 病気だから、優しくしてる? が言った言葉を頭の中で再生して目が丸くなる。が病気だからおれはと仲が良いままで、が病気だからおれはと一緒にいたいと思っていて、が病気だからに好きだって言ってる、って、こと? 少なくともはそう思ってるってこと?
 は病気のことを自分から滅多に話さなかった。それは昔からだ。病気のことを詳しく話さないし、自分の体調のことも詳しく話さない。もしも病気じゃなかったら、なんて話はしないし治療や手術の不安も話さない。だから、おれも、同じ。
 が病気じゃなかったらいいのに、って、いつも思った。の病気が明日の朝にきれいさっぱり消えていれば良いのにって、いつもいつも思いながら眠った。が病気じゃなかったらもっと一緒にいられるのに。の病気が治ればがやりたいことをなんでもさせてあげられるのに。いつもいつも、そう思った。が病気じゃなくても、の病気が治っても何も変わらないのに。おれがのことを好きだということには何一つ、何の取りこぼしもなく変わらないのに。言っちゃいけない気がして口にしたことはない。
 それはもう、恋なんじゃないのか。ムカつくけどクロの声が勝手に頭の中で再生された。

が病気じゃなかったら、どんなにいいだろうって、ずっと思ってたよ」

 はじめて口にしたそれに、が目を丸くしておれの顔を見た。おれの顔を見て余計に目を丸くする。たぶん、おれの目からぽろぽろとこぼれるもののせいだろう。生理現象だから気にしなくていいよ。そう言う余裕も拭う余裕もないから放っておく。

が病気じゃなかったらがやりたいことを全部させてあげられるし、が食べたいものを全部食べさせてあげられるし、ともっと一緒にいられるのにって、ずっと思ってるよ」

 多かれ少なかれみんなそう思っている。クロも、おれの家族も、クロの家族も、の両親も。誰一人としてのことを邪魔だとか面倒だとか、そういうネガティブに思っていない。思っているのはだけだ。
 おれはお医者さんでもないし、病気の研究者でもないし、薬を作ることもできない。何もにしてあげられない。それがいつも歯がゆくてたまらないことをはきっと知らない。だから病気だから優しくしている、なんてばかみたいなことが言えるのだ。

じゃなかったら、おれ、こんなに願わないよ」

 おれは優しくない。病気になっているのがじゃない誰かだったら、きっとここまで必死にならない。病院も紹介しないしお金も出さない。毎日お見舞いにも来ない。ぜんぶだからしていることで、だからやろうって思えることなのに。なんでもないふうに好き、と思っている相手にここまでしない。それくらい分かってよ。まあ、そう言うのはおれのわがままなのだけど。
 好きとか恋とか愛とかなんとか。この好きという気持ちは恋なのか、愛なのか。それを証明できるものはあるのか、それを確固たるものだと言い切れる覚悟はあるのか。そういう小難しい話をしたがる人が多いことは分かっている。誰もがそれを目に見える形にしたくて、誰もがそれに悩んでいて。だからこそ、ラブストーリーやラブソングがたくさん生まれていて、それに共感する人が多いのだ。きっと世界からそれが消えることはない。
 おれのこの気持ちは恋じゃなかった。恋じゃなかった、というよりは、恋なんて形に当てはめたことがなかった。当たり前にあるもので、当たり前に思っていることで、形作ろうとしたこともなければそれを目に見えるようにしたいと思ったこともない。恋なんてありふれたものと一緒にしてほしくない。ありふれたラブストーリーや使い古されたラブソングなんてものは、一つも当てはまらない。だけど、伝える術がおれにはなくて。口下手だし、何もできないし。が喜ぶようなことを何一つできない。が笑ってくれるだけでいいのに、おれにはそれが何よりも難しかった。

が楽しかったらおれも楽しいよ」

 たったそれだけ。本当にそれだけなのだ、おれの気持ちなんてものは。そのためにならなんだってできるだけ。抱きしめたいとかキスをしたいとか、そんなものじゃなくて。笑っているだけで一緒にいてくれるだけでもう胸いっぱいなほど満ちてしまう。
 でも、うまく言い表せられないから、仕方がない。おれは口下手だから余計にどうしようもないのだ。当てはめることになんとなく悔しさを覚えてしまうけれど。

のことが好きだよ。これは紛うことなき、恋だよ」


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