「……研磨、これ何個買ったんだ……?」
「五台」
「あ、そうですか」

 喋ってないで手を動かしてよ。そうクロの腰を叩いたら「どうもすみませんね」と笑われた。何その顔。なんかムカつくんだけど。
 の病状はそれなりに良好で、治ってきているわけではないけどとても調子が良い。まだまだ病気の治療法で悩むところもあるけれど、概ね方向性は定まってきた。先進医療という選択肢を選べることになったことでずいぶん明るい道が見えてきた、とおれは思う。もちろん魔法じゃないしこれまでの治療法より優れているわけでもない。やってみなくちゃ分からないけれど。選択肢が増えることはいいことだ。素直にそう喜んでいる。
 朝七時。クロは三台目の空気清浄機をリビングに設置してから、四台目を玄関に持っていく。おれは台所に設置し終わったところ。あと寝室と洗面所と廊下に転々と置けば終わり。どこに置こうか考えていると玄関のほうから「コンセント遠いんですけど社長!」とクロの声が聞こえてきた。うるさい。延長コードも買ったじゃん。そう思いながら仕方なく玄関に向かった。

「多すぎないかいくらなんでも……」
「ないよりいいじゃん。汚い空気なんか吸わせたくない」
「過保護だねえ〜……」

 この頃のの調子を見て、お医者さんが一時退院の許可をくれた。ただの両親は今も共働きだし、家に一人だと何かあったときに怖い。それでもは外に出たいと目をきらきらさせていた。だから、うちに来れば良いじゃんって提案した。おれは仕事も家でするし出かけることもない。が来てもいいようにちゃんと準備もしてあるよ、と言えばは余計に目をきらきらさせていた。
 もともと置いてある空気清浄機に追加で五台設置。念入りに掃除もしたしがもし発作を起こしても対応できるだけの準備はしてある。病院にすぐ連絡できる準備もしてあるし、何より今住んでいる家は病院から近い。だから安心して、との両親に言ったらのお父さんは照れくさそうに笑って「研磨くんがいれば何も心配ないな」って言ってくれた。それが、ここ最近で一番嬉しかった。
 延長コードが目立たないように端っこに止めていると、クロが「の顔見たら俺行くわ」と言った。なんで。せっかく来るのに。そう言ったらクロは「いやいや、せっかくが来るからだろ」と言ってから「あと一応仕事なんでね」と言った。一応じゃないじゃん。それがメインでしょ普通。少し呆れた。

「いやあ、それにしても」
「なに」
「恋じゃないとか捻くれてた研磨がついに認めたか〜」
「捻くれてない」
「いやいや、捻くれだろ。どう見たってが初恋だっただろ」
「……そんなんじゃない」
「照れ屋さんめ。そんなん≠ネんです〜」

 ピ、と空気清浄機の電源を入れる。問題なく動きはじめたそれを見てクロは「これ、玄関にいるか?」と苦笑いをしつつ指差す。いるったらいる。ないよりマシでしょ。何回も言わせないで。そう目で訴えたら「黒尾サンが悪かったです」と目をそらされた。
 かすかに、外から車の音が聞こえてきた。のお父さんの車に違いない。クロも「お、来た来た」と笑って靴を履く。玄関を開けて「どうも〜」とたちに手を振った。車を停めてからが「クロだ!」と嬉しそうに笑った。のお母さんも嬉しそうに「鉄朗くん久しぶりね」と手を振り返した。

「研磨くん、何から何まで悪いんだけど……のことよろしくね」
「むしろせっかくの一時退院なのに、家にいさせられなくてごめん。本当は家族で過ごしたほうがいいかとも思ったんだけど」

 そう言ったらのお母さんはちょっとびっくりしたようにおれを見てから、大笑いした。「本当に大人になっちゃったね、研磨くん」と肩を叩かれて、よく分からなかったけどなんとなく照れくさい。クロも「研磨がそんなことを言える大人になったとは……」と意味深におれの肩を叩いてきた。うるさい。クロのはなんかムカつく。容赦なく手を振り払っておく。
 なんだか申し訳なさそうな感じが消えないの両親に、「ひとまずゆっくり休んで」と言ったらが「旅行にでも行って羽を伸ばしてよ」なんて言うものだから。のお父さんが「こら、そういうこと言わない」との頭を軽く叩いた。おれもの意見には賛成だけど、まあ、心配だから遠出できない気持ちも分かる。
 の両親が出勤のためにおれにお礼を言って車に戻っていった。に「研磨くんに迷惑かけちゃだめよ」と言っていたけど、迷惑なんて一つもない。心配しなくていいのに。こっそりそう思っておいた。
 それを見送ってからクロも「んじゃ、名残惜しいけど俺も仕事行きますか」とその辺に置いていた背広を拾い上げる。が残念そうに「せっかく久しぶりに会ったのに」と俯くと「仕事帰りにも寄るから」とクロが笑う。の頭をくしゃくしゃ撫でて「それまでは研磨で我慢して」とおかしそうに言う。我慢って。失礼な。もけらけら笑って「我慢する!」なんて言うものだから、ちょっとムッとした。
 二人でクロを見送ってから玄関の戸を閉める。は物珍しそうに家の中を見渡すと、にこにこと笑った。ここに来たのはもちろんはじめてだし、あまり家のことを話したこともなかった。いろんなところを見ながら歩くものだから危なっかしい。の手を引っ張りながらリビングに入ると、が「あれ」と首を傾げた。

「空気清浄機多くない? 玄関にもあったよね?」
「いいの」

 置きすぎたかもしれない。にもツッコまれるとちょっとそう思い直した。まあ買った物は仕方ないし。別に多くて問題があるわけでもないんだしいいでしょ。「ほしかったら一台あげる」と言ったらは「そういうこと簡単に言うの良くないよ!」と大笑いした。
 なんか、不思議な感じ。がおれの家にいる、なんて光景は見慣れているものだと思ったけど。なんか違う。高校生のときの記憶とは何もかもが違っていて、こっそり緊張している自分がいた。
 が病院にいるときは、いつもと特に変わりなかった。幼馴染から彼女になったは、本当に何一つ変わらないままで肩透かしを食らった気持ちだったほど。彼女なんて今までできたことがないからどうすればいいかよく分からなかったし、ちょっとほっとしたっけ。特別なことがなくてもおれはが好きだし、関係が変わってもその形が変わることはない。これまで通りでいいんだって思えた、けど。こうして病室から出たを目の前にすると、なんだかいつも通りにできない。不思議な話だけれど。

「研磨」

 変わらない弾んだような声。が楽しければなんだっていい。が嬉しいならなんだっていいよ。振り返ると、笑っているがいて。もうそれだけでおれは十分だなって心から思った。

「ぎゅってして」
「……ぎゅ」
「うん!」

 両腕を広げておれを見て笑っている。ぎゅって、して、とは。おれが固まっているとは両腕を広げたままのポーズで顔だけ、しゅん、とした。「してくれないの?」と眉を下げられてしまうと躊躇っている暇なんかなくて。よく分からないままに近付いてみる。ぎゅっ、とは。それやったら、潰れちゃわないだろうか。こんなに華奢でぺらぺらの体だ。おれがぎゅってしたらボキッて骨が折れたりとかひしゃげたりとか、しないだろうか。そんなふうにどきどきしながら、そうっとの背中に腕を回した。ぎゅっ、とは、これくらいでもいいでしょうか、さん。怖い。細すぎる。ちょっとでも力を入れたら潰しそう。そんなふうにおれがどきどきしていることなんては知らないだろう。
 おれの背中に腕を回したが小さく笑った声が聞こえた。嬉しそう。それならいいんだけど。すっぽり収まったの体は、おれが思っていたよりもとても小さくて、華奢で。それをじわじわと実感して、勝手に何かがこみ上げてきた。知らなかった。こんなに小さくて頼りない体でずっと耐えてきたんだな、は。こうして今元気に笑っているだけでとてつもなくすごいことなんだな。そんなふうに心から感じた。

「研磨」
「ん」
「大好きだよ!」

 ぐず、と鼻をすすった音。なんで泣くの。笑うことはあっても泣くようなことはなかったじゃん。そう思うおれもなぜだか泣いていたから言葉にできなかった。

「おれも好きだよ」

 同じようにぐず、と鼻をすすってしまう。はけらけら笑って「いっしょだね」と声を弾ませる。その声が何より好きだよ。ずっと昔から、ずっと好きだよ。
 まだまだのすべてを叶えてあげることはできない。今もお腹いっぱいお菓子を食べさせてあげられないし、一時退院できたからって好きなところに連れて行ってあげられない。でも何もできないままでも、少しだけできることが増えた。のことをこうやって抱きしめられるようになった。まだ今は、それだけなんだけど。
 ぽんぽん、と背中を軽く叩かれた。離してほしいのかな、と思って少し腕を緩めるとが顔を上げておれをじっと見た。うるうるした瞳がきらめくのがとてもかわいくて、おれもじっと見てしまう。きれいな瞳。吸い込まれそうなほど光るそれに気を取られている間に、がおれの服をきゅっと掴んだ。ぐっとその手に力が入ってから、たぶん、少し背伸びをする。そのすぐあとにふにゅ、と唇に驚くほど柔らかい感触があった。すぐに離れていったそれに固まっていると、がおかしそうに笑う。その笑い声でようやく何をされたかをきちんと理解して、嘘みたいに顔が熱くなったのが自分でも分かった。

「研磨、顔真っ赤だ!」

 はじめて見る顔だ、と嬉しそうにはしゃぐがきゅっとおれに抱きつく。なんかやられっぱなしな気がする。ちょっと悔しくなったけど、まあ、が楽しそうだからいいか。そう思いながらぎゅっと少しだけ強く抱きしめ返した。

「ねえ」
「うん?」
「顔見せて」
「……なんで?」
「いいから見せて」

 ちょっと声が上擦ったね、今。はおれにぎゅっと強く抱きつくと「今はやだ」と言う。嫌だと言われると見たくなる。好きな子はいじめたくなる、っていうのも分からなくはないかな。そんなふうに思いつつの脇腹をほんの少しだけくすぐってやる。「ぎゃっ」となんとも色気のない声を上げたの腕が緩んだ。その隙にの腕をほどいて少し距離を取る。顔がよく見えるように少し体を丸めると、真っ赤な顔をしたと目が合った。

「真っ赤だね、顔」
「……だ、だって」
「だって?」
「だ、だって……」
「だって、何?」
「う、うるさい! なんでもない!」

 怒った。かわいい。そう笑ってしまうと余計に怒られた。そのままに顔を近付けて、仕返ししておく。はびくっと体を震わせて驚いていたけど、振り払おうとはしなかった。
 いつかが好きな物を食べに遠くまで行こうね。がやりたいことをやるためにどこまでも行こうね。正直おれはこの家にいるだけで十分だけれど。が望むならがんばるよ。そんなふうにこっそり、誓っておいた。


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