クロが買ってきた花をがにこにこ嬉しそうに見て「クロ、色男だね」と言った。それにクロが「モテてモテて困るわ〜」と冗談で言うとがスンっと真顔に戻って「クロがモテるわけないじゃん」と言い放つ。おれの真似らしい。それにクロとが大笑いすると病室のドアが開いて「ちょっと騒がしいかな〜?」と顔見知りの看護師さんに注意されてしまった。
 痩せている。改めて見るとそれがすぐに分かった。点滴の針が刺さった腕。目の下の隈。色の悪い唇。なんで気付かなかったんだろう。そう俯きかけて、ふとのお母さんや両親の言葉を思い出した。おれはおれの生活を大事に。のことで責任を感じなくていい。頭の中で再生されたその言葉たちに無性にムカついた。
 おれの隣に座ったクロが「最近調子どうだ?」と聞く。がいつも通り笑って「普通!」と言った。普通じゃないくせに。そう内心思ったけど、たぶんクロも分かっている。こういう質問に大抵は「元気」と返すのに、あえて「普通」と言ったから。つまり、悪いほうであることを指しているのはなんとなく分かってしまうのだ。
 手術のことをまだクロは知らないし、もおれが知っているとは知らない。おれ一人だけのことを見てもやもやしてる。なんで教えてくれないの。なんでから話してくれないの。そう考えていたら眠れなくて、その次の日の部活は散々だった。三年生に怒鳴られるしランニング中に転ぶし。クロに笑われたし同級生のやつには変な目で見られた。唯一クロと同級生の先輩が「大丈夫か?」と心配してくれたのは、ちょっと嬉しかったけど。

「何かほしいものとかないか? 甘い物とかはだめだけど」
「え〜チョコ食べたい!」
「だ〜め」

 食事の制限。はそれが一番嫌だと前に教えてくれたことがある。好きなものが食べられないし、基本的にお菓子は大体だめ。病院食でたまに出てくる味の薄いゼリーが唯一の楽しみだと笑っていた。
 嘘だ。すぐに分かった。食事制限が嫌なのは本当だと思うけど、絶対一番じゃない。もっと嫌なこといっぱいあるくせに。言わないから知らんふりしなくちゃいけない。
 点滴とか注射を失敗されること、嫌いなの知ってる。だって、注射大嫌いだったから。いつも点滴をするとき目をそらしてる。でもへっちゃらなふりをしているのも分かってる。検査が嫌なのも知ってる。レントゲン台に寝転ぶのもひやっとするから嫌なのも知ってる。苦い薬を飲むのが嫌なのも、ベッドでじっとしてなきゃいけないのが嫌なのも、暗い病室に一人きりになるのが嫌なのも、全部知ってる。知ってるけど、が言わないから、何も言えない。
 でも、がそれを口にしたとして、おれに何ができるんだろう。答えは簡単だ。何もできない、だ。点滴をしなくていいようにおれはできないし、レントゲンを撮ったり検査をしたりしなくても病状が分かる術なんかないし、苦い薬を甘くすることもできないし、の体が動いても大丈夫になるようになんかできないし、ずっとここに一緒にいてあげることさえもできない。が言ってくれても、おれには、どうしようもなかった。

「早く学校行きたいなあ」
「そろそろ来ないと授業追いつくの大変になるぞ〜? 早く元気にならないとな」
「本当だよ〜。あーあ、このまま青春を病院で過ごすのかなあ」

 にこにこしている。クロもにこにこして「彼氏の一人でもできるといいな?」とを茶化した。クロは昔からそうだ。を普通の女の子として扱うから、そういう話題も普通に振る。たとえ入院が長引くことを知っていても、まるで明日には学校に行けるようになっているかのような話ばかりする。そういうところが結構すごいなって思う。
 は「本当だよ〜! 彼氏! 憧れ!」と言った。憧れるんだ。ちょっと意外に思っているとクロが「誰も立候補してこなかったら俺がもらってやろうか」とけらけら笑った。
 クロがの彼氏。二人が並んで歩いているところを想像したらなぜか、嫌だ、って思う自分がいた。クロとが仲良くしてないのは嫌だ。でも、二人が恋人になるのも、嫌だな。クロはおれと同じでの病気のことをちゃんと分かっているし、発作とか体調不良にはおれより的確に対処できる。おれはあわあわしてしまうことが多くてからすれば頼りないだろうと思う。に彼氏ができるならクロみたいな人がいいだろう、とも、思う。
 でも、それでも、嫌だな。そう思うけど言葉にはできない。言葉にするのが恥ずかしかったから。だって嫌だって思う理由なんか一つしかない。両親の言葉を思い出した。の病気とずっと向き合えるか。いつ悪くなるか分からなくて、いついなくなってしまうか分からない。そんなとずっと一緒にいられるか。あのときは答えられなかったけど冷静になって自分の中で考えてみたらすんなり答えが出た。覚悟があるかどうかは分からないけど、おれはきっと、とずっと一緒にいられる。じゃなきゃそんなふうには思わない。それだけは分かった。
 が発作を起こしたらいつも震えていた手。もう今は震えない。震えないけど、怖いのは変わらない。が死んじゃうんじゃないかっていつも怖い。だから、知らず知らずのうちにと一緒にいる時間をできるだけ増やそうとしていたことに、気が付いた。おれが知らないところで倒れるのも、発作を起こすのも、苦しい思いをしているのも。何よりもそれが嫌だった。


「なに? あ、そういえば研磨、この前部活サボったんでしょ? だめだよ!」
「好きだよ」

 飛び出たおれの言葉にクロは固まってから、そうっと気配を消していた。ここには誰もいません、というような顔をしている。別にいてもいいけど。だから今言ったんだし。
 は、目を丸くして、じっとおれを見ていた。その顔が嬉しそうでも驚いたようでもなくて、なんだか、悲しそうだった。なんでそんな顔するの。ちょっとムッとしてしまったけど突然言ったのはおれだ。ぐっと堪えた。
 恋じゃなかった。たぶん、ずっと。はじめて会ったのことがおれはとても怖かったし、仲良くなってからも理解不能なことが多くて怖く思うことばかりだった。でも楽しそうに笑うの顔が好きで、なんだかおれしか知らない宝物のように思えた。恋じゃなかった。ただ、大切なだけだった。友達として、家族のような存在として。恋じゃなかった、というか、恋を通り越していたんだと思う。だからもしかしたら今も恋じゃないかもしれない。それでも、誰かにを取られるのは嫌でたまらないし、とずっといられるならなんだっていい。将来がおれの隣にいないことを想像するのが何よりも怖かった。

「急にどうしたの? 照れるよ〜」
「おれの彼女になって、って意味なんだけど」

 絶対友達としてって意味に捉えてる。そう思ったから言葉を付け足した。おれの言葉にはまた固まって、救いを求めるようにクロに視線を移した。でもクロはここには誰もいません、のオーラを消さない。何も言わずぴくりとも動かないままだ。
 一瞬、が唇を噛んだのが見えた。すぐにいつも通り笑ったが一つ咳をこぼす。それから目をそらした。

「だめ」

 無理やりいつもの声にしたのが分かる。本当は泣きそうなのに堪えた声。転んでしまったときの子どものころの声によく似ていた。嫌でもなく、ごめんでもなく、だめ。の言葉のチョイスに少し困惑していると、静かに呼吸をしたがパッと明るく笑ってこちらを見た。

「ずっと研磨の邪魔になっちゃうから、だめ」


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