「あ、研磨だ!」

 高校生活、わずか一ヶ月。の腕にはまた点滴の針が刺さっている。前の針の痕はまだ残っていて、今回も刺すのに苦労したのが分かった。昨日の夜、夕飯のあとに過呼吸を起こしたというはまた数日間入院することになった。ここ最近は調子が良い、とのお母さんも嬉しそうにしていたのに。さっきまでいた看護師さんによると「新しい環境に体がびっくりしたのかもね」と言っていた。いくらが楽しそうにしていても、新しい∞知らない≠ニいうのは体や脳にとっては勝手にストレスになることがある。それが無理に繋がったとお医者さんも言っていたそうだ。
 そうか、そういうこともあるんだ。看護師さんの話を聞いて心に留めておく。にとっては少しのストレスも体調不良の原因。やっぱり部活を見に来なくて正解だった。でも、それ以外のことには気付けなかった。そう少し視線が俯く。

「部活は? 休みなの?」
「うん」
「あ、ノート取ってくれてるってお母さんから聞いた! ごめんね、ありがとう」

 にこにこ笑っている。話をしながらの顔色をよく観察すると、少しだけ顔色が悪く見えた。よく眠れなかったのかもしれない。サイドテーブルに何かを飲んだあとがついているマグカップが置いてある。入っていたのはたぶん白湯だと思う。昔にが眠れなくなったとき、お医者さんに相談して睡眠導入剤を処方してもらった、と聞いたことがある。それを飲んだあとかもしれない。
 本当は部活は休みじゃない。部活前にクロに「今日行かないから」と連絡を入れただけ。所謂サボりだ。クロからは「誤魔化しとくから明日は来いよ」と返事が来ていた。クロもがまた入院になったことは知っている。一緒にくればいいのに、って思ったけどクロが来たら誤魔化してくれる人がいなくなる。おれは辞めることになっても、まあ、いいんだけど。が悲しむ顔を思い浮かべてしまうと、なんだかそうも言えなくて。

「研磨」
「うん?」
「ごめんね」

 ちょっとだけ、いつもと違った。驚いて顔を上げる。でもはいつも通り笑っていて「勉強、分からないところあったら教えてくれる?」と明るい声で言った。でも、さっき、一瞬だけ。小雨みたいに元気のない声だった、ように聞こえた。気のせいかな。少し黙って考えているとが笑って「どうしたの?」とおれの顔の前で手を振る。
 おれの聞き間違いならいい、けど。が笑わないのは嫌だ。が悲しむのは嫌だ。昔から誰よりも明るくて、暗いおれにもたくさん笑顔を向けてくれるのままじゃなきゃ、嫌だ。だから、聞き間違いだったことにした。
 ふと、が入院するときにいつも来ているTシャツがよれていることに気が付く。よく着ているから伸びてしまったのだろうとはじめは思ったのだけど、そうじゃないことにも気が付いた。いつもより少し見えている肌の面積が広い。真っ白な肌。血の気がなくて、ぞっとする。小さな違和感がやけに気になったけど、聞けない。と一緒にいるときは病気の話はあまりしないようにしている。が楽しい話題じゃないから。おれもだけど。楽しいことだけをには考えていてほしくて、結局、聞けずじまいだった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 一日、二日、三日、四日。いくら日付が変わってもは登校してこない。結局今週は一度も学校に来なかった。こんなことは滅多になかったからのお母さんに体調のことを聞いてみた。「今回はちょっと、入院が長引きそうなの」と元気がない声で呟いたのが気になって。黙り込んでしまったおれにのお母さんは、無理やり明るく笑って「のこと、いつも気にかけてくれてありがとう。でも研磨くんは研磨くんの生活を一番大事にしてね」と言った。なんで? 素直にそう思った。おれの生活にがいるのは当たり前だから、のことを聞きに来ているのに。よく分からない。そう呟いたらのお母さんはちょっとびっくりしたような顔をして、少しだけ泣いた。それも、よく分からなかった。
 母親から聞いた。は高校に通い出す前の検査で、あまり結果が良くなかったのだという。おれには変に心配させるといけないから黙っていた、と。ムカついた。なんで。なんで教えてくれなかったの。大人ってそういうところがずるい。勝手にこっちに無駄な気を遣って子ども扱いして。
 おれがそうムカムカしていると、いつもの話を静かに聞いていることが多い父親がおれを呼んだ。珍しい。そう思いつつソファの隣に腰を下ろすと、「あー、うーんと」と言いづらそうにしながら言葉を探し始める。なんなの。とりあえず言葉が出てくるまで大人しくしていると、ようやく「あのな」といつもの優しい顔のままおれを見た。

「恥ずかしがらないで教えてほしいんだけど」
「なに?」
「研磨は、その〜……ちゃんのこと、好きなの?」
「……? 好きだけど。当たり前じゃん」
「研磨かっこいいね……」

 意味が分からない。好きじゃなかったらこんなにずっと仲良くしてないし、週に何度もお見舞いに行かないし、ノートも取らない。だから、のことが好きだからこうしているのに。今更すぎる質問におれがハテナを飛ばしていると、母親と父親が目を合わせてから困ったように笑っていた。ちょっとの気恥ずかしさも含んでいるように見えたそれに、余計にハテナが飛ぶ。そんなおれを見た母親が、おれの前にしゃがんでからきゅっと手を握ってくる。何、急に。余計に訳が分からなくなっているおれに、「あのね」と優しい声で言う。

「研磨はちゃんを彼女にしたいって思ってるのかな、って意味でお父さんは聞いてるの」

 彼女。その言葉に思わずフリーズ。しばらくそのまま固まってから、バッと母親の手を振り払う。ばかじゃないの、なにそれ。なんで急にからかってくるのさ。そうぼそぼそ抗議したら「研磨」と母親がまっすぐおれを見た。冗談、じゃない。さすがに母親と父親の真面目な顔くらい分かる。からかいじゃなくて、真剣な話だとはすぐに分かった。
 が好きだ。昔からずっと一緒の、はじめての友達。が誘ってくれたら基本的にどこにでもついていったし、何かをするときは必ずを誘った。何でも話せて、何でも話してくれる。だけはおれを分かってくれるし、おれを変だとも言わない。一緒にいて楽しいと言ってくれるしおれもそう思う。好きだ。好き、だけど。これは所謂、恋愛感情、というものなのかどうか。そこを聞かれると、黙ってしまった。なんでそんなことを聞いてくるんだろう。そう思っていると、父親が「ちゃんな」と静かな優しい声で言った。

「手術することになったんだって」
「……え」
「手術しても病気が完全に治るわけじゃないけど、しないともっと悪くなるって」
「……でも手術したら学校来られるんでしょ?」
「難しい手術だからなんとも言えないと言われたって、さっきちゃんのお父さんが教えに来てくれたんだよ」

 学校でいつもおれが一緒にいてくれているから、と説明に来てくれたそうだ。なにそれ。きゅっと唇を噛んでしまう。だって、、あんなにいっぱい我慢しているのに。我が儘も弱音も言わず、ずっと笑っているのに。なんでそんなことになるの。ムカついた。ムカついてもどうにもならないと分かっている、だからこそ、余計にムカついて。
 でもなんでそれが、のことをそういう意味で好きなのかの確認になるの。よく分からない。もっとストレートに言ってよ。そう目で訴えたら父親が苦笑いをこぼした。とても、言いづらそうに。

「お父さんもちゃんのことは好きだし、研磨とずっと一緒にいてくれるならいいなあと思うんだけど」
「……なに、どういうこと?」
「もしだよ、もしも、将来研磨とちゃんが結婚することになったとして」
「ねえ、変なこと言わないでくれる?」
「研磨はちゃんの病気と、ずっと向き合える?」

 思いっきり頭を殴られたような感覚がした、気がする。ぐわんぐわんと脳が揺れる感覚。ああ、そっか、、治らないんだ。もう、何をしても。大好きだった体育をずっと休んでも、本当は走りたいのをぐっと我慢しても、ずっと楽しみにしていた学校を休み続けても、難しい手術をしても、治らないんだ。それを思い知らされた。
 衝撃を受けているおれを置き去りに、両親がいろいろ話した。おれがのことを本気で好きなら止めないし応援もするけど、もしと一緒にいたいならそれなりの覚悟をしなくちゃいけない、と。それと同時に、もしかしたら、は、発作や病状の悪化が原因で、突然、いなくなってしまうかもしれないから、と。そして何より、のことでおれが何かにつけて責任を感じなくていい、と。ここ最近ずっとのお見舞いに行ったりのお母さんと話をしたりしている姿を見て、親として気にならざるを得なかったと、言われた。
 ああ、あのとき。が着ているTシャツがよれていた理由。が痩せたからだ。手術を受けるための準備とか、体調悪化が原因で痩せてしまったんだ。行ける日はいつもお見舞いに行っていて、ほとんど毎日見ていたから気付かなかった。きっとおれのスマホにあるの写真と比べたらすぐ分かるくらいに痩せたんだろう。
 唇を噛んでいた力が抜ける。ぐっと握っていた拳からも力が抜けると、ふわ、と開いた。ちょっと俯くと前髪が揺れたのが視界の隅に見えて、なんだか、全身が重く感じた。

「……なんで、が、病気にならなきゃいけないの?」

 ぽつりと思わずこぼれた。が一度も言葉にしたことがないからおれが言っちゃいけないのに。でも、どうしても、こぼれてしまった。じゃなきゃいけない理由を説明してくれないと納得できない。は誰とでもすぐ仲良くなれるくらい優しくて明るい良い子なのに。なんで、こんな目に、遭わなきゃいけないの。子どもみたいなことを言っているのは百も承知だ。それでも、そう、思ってしまった。


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