昔からちょっと頭が弱くて、何をやっても失敗ばかりなおっちょこちょいだった。いろんなことを思い出してたまに笑ってしまうほど、ドジなやつ。だから目が離せないし何かとお節介をしてしまう。
 おれに駆け寄ろうとして、廊下の何もないところですっ転んだに慌てて手を伸ばす。「なにしてんの。走っちゃだめだってば」とため息交じりに声をかけるとは笑いながら「研磨見つけて嬉しくて」と屈託ない笑顔を向けてくる。なにそれ。そう目を細めてじっとを見ていると「嫌そうな顔!」と笑われた。そりゃ嫌でしょ。だって、おれ、別に走って来なくても逃げないのに。そう内心で思いながらフイっとから目をそらす。きゅっと握られた手を引っ張ると、いとも容易くの体が持ち上がる。軽い。手が小さい。子どものころはのほうがちょっと大きかったのに。

「研磨、高校でもバレー部入るって本当?」
「…………まあ一応」
「そうなんだ! じゃあまた応援行かなきゃだね」

 の手を引いて部屋に入ってから手を離す。お手洗いに行っていたとは言って、定位置に座った。
 はおれがバレーをやると嬉しそうにする。なんでかは分からないけど。中学のときの試合も予定が合えば見に来てくれたし、たまにこっそり部活を覗きに来てくれた。にこにこと嬉しそうな顔をしているのが不思議でよく分からなかったけど、が楽しそうにしているならそれいいか、と特に気にしたことはない。
 最初のころは突然現れたクロと、突然やりはじめたバレーにおれを取られたみたいで嫌だった、とあとで聞いた。思い出してみれば確かに子どものころのはちょっとクロを警戒していた。滅多に人見知りしない子だから珍しいなって子どもながらに思ったっけ。でも渋々ついてきて三人でバレーをやっているうちに、とても好きになったのだと笑っていた。やることが、じゃなくて、見ることが。次第にクロへの警戒もなくなっていき、おれと接するのとほとんど変わりないくらいになっていった。が心を開いたらクロが心を開くのも早くて、二人がおれを引っ張って公園に行くことが当たり前になった。おれはちょっと、不本意だった、けど。だって、とはじめから仲が良かったのはおれだし、クロとはじめに仲良くなったのもおれだ。それなのに、二人とも自分たちが先に仲良くなった、みたいな顔をするから。いや、違うじゃん。って。ぶすくれてしまったことを思い出してたまに恥ずかしい気持ちになる。

「バレー部のジャージ、もう着た?」
「まだ……というかまだ入部届も出してないし」
「着たら写真送ってね。楽しみ!」

 にこにこと笑う。何がそんなに嬉しいのさ。よく分からない。思わず目をそらしてしまう。そらした先には空気の入れ換えのために開けられた窓と、風に揺れる真っ白なカーテン。白い雲がぽつぽつ見える青空。風に鬱陶しく揺れる前髪を払ってからまたのほうに視線を戻す。はにこにこ笑ったままおれを見つめていた。

「わたしも早く高校の制服、着たいな」

 そう言うが座っているベッドの横に、真新しい音駒高校の制服が、ビニールに入れられたままかかっている。入学式が終わってもう一週間経っている。サイドテーブルに置かれたカレンダー。入学式があった日付の欄に絶妙に下手なお花のイラストが描かれていた。
 真っ白な天井。真っ白な壁。真っ白なベッド。の真っ白で血の気がない細い腕、に、刺さる点滴の針。前におれがいるときに来た看護師さんがの腕は点滴が刺しにくいと苦笑いをこぼしていた。血管が細いかららしい。は笑って「ほら、針の痕いっぱいあるでしょ!」とおれに見せてきた。看護師さんが「もう! ごめんね失敗ばっかりで!」と申し訳なさそうにしつつも大笑いしていたっけ。
 中学入学後、はたまに学校を休むようになった。のお母さんにどうしてなのか聞きに行ったら「心配してくれてありがとう」とお菓子をくれた。でも、どうしてなのかは教えてくれなくて。クロも同じだったと後で教えられた。なんだか納得できなくて何度か二人で聞きに行ったら、ようやく教えてくれた。が小難しい名前の病気になってしまったこと。どうすれば治るのかはまだ分からないこと。基本的には元気だけどあまり疲れるようなことはできなくなったこと。たまに体調が悪くなって病院に行かなくちゃいけないこと。おれもクロも中学生だったからもっとストレートに言ってくれてよかったのに、のお母さんは子どもに説明するみたいに優しい言葉ばかりで説明してくれて。おれとクロはのお母さんからすればいつまでも子どもなんだなってぼんやり思った。
 のお母さんが言ったとおり、基本的には元気だった。今まで通りにこにこ笑うし、走ってすっ転ぶし、おれとクロを見つけると嬉しそうに手を振る。誘えば遊びに来たし、誘わなくても遊びに来た。何も変わらない。あまりにも何も変わらないから、なんだ、そのまんまじゃん、って思ったくらい普通だった。
 そう思った、けど。中学二年の冬。いつも通りおれの部屋でゲームをしているときだった。おれとクロは地べたに座ってベッドを背もたれにしていて、はおれのベッドに寝そべっておれとクロがやっているゲームを見ていた。茶々を入れたり「今のすごい!」といつも通りよく喋っていたが、ふと、喋らなくなった。たまに寝落ちすることもあったから気に留めていなかったのだけど、しばらくしてクロがふとを見た。「?」と声をかけるけどは起きない。「寝てるんじゃない?」とおれが言ったけどクロは黙ったままで。ゲーム機を恐る恐る床に置いたかと思えば「?」と瞬きも忘れての肩を揺さぶり始めた。起きるからやめなよ、っておれが言ってもクロはやめなかった。クロの声が次第に大きくなっていって、おれも、少しずつ違和感を覚えて。そういえば、から、寝息が聞こえない。そう気付いた瞬間に部屋から飛び出して母親を呼びに行っていた。
 はすぐ救急車で病院に連れて行かれた。の両親は家にいなくて、おれの母親がすぐに連絡を入れたら直接病院に向かうと言ったそうだ。おれとクロはどうしたらいいか分からなくて言葉を失うばかりで。白くなったの顔が、脳裏に、焼き付いて離れなくて。
 おれの母親の車で病院についていった。病院の椅子に座って待っていたときにのお母さんが泣きそうな顔で走ってきて、おれの母親に何度も頭を下げて謝っていた。おれの母親も同じようにしていたから、おれは、自分が何かとんでもなく悪いことをしてしまったんじゃないかと、怖くて。おれがの病気のことを軽く考えていたからなのかな、とか、ちゃんと見ていなかったからなのかな、とか。ちょっと手が震えた。そんなおれに気付いてくれたのお母さんがおれの前でしゃがんで、優しく腕を掴んでくれた。「大丈夫よ、びっくりさせちゃったね、ごめんね」って。泣きそうな顔でずっとそう言ってくれた。
 その日、おれははじめて認識したのだ。ああ、、病気なんだ。そうちゃんと理解した。全然今まで通りじゃないことも、今まで通りにしちゃいけないことも。全部分かった。たぶんクロもタイミングは一緒だったと思う。

「ねえねえわたし何組だった?」
「……二組だったよ」
「研磨は? クラス離れちゃった?」
「一緒」
「え、本当?!」

 嬉しそうな顔。は制服を見ながら「早く学校行きたいなあ」と呟く。おれとが一緒のクラスになったのはのお母さんとおれの母親が高校に相談したからだと聞いた。病気のせいでごく稀に発作を起こしたり体調が悪くなることは学校側に説明してある。学校側も快く配慮してくれて安心した、とのお母さんが言っていた。
 先に、の病気のことを知っているおれが一緒のクラスだと心強い、との両親がおれとおれの母親に相談に来たのだ。おれの母親はちょっと困惑気味におれを見て「研磨はどう?」と聞いてきた。そんなの、嫌だって、言うわけないじゃん。そう言ったらおれの母親はちょっと笑って「頼りない子だけど、やるときはやれる子だから」とのお母さんの手を握っていた光景を、おれは、たまに夢に見る。
 はそのことを知らない。母親にも「言っちゃだめだからね」と言われている。どうしてなのかは分からなかったけど、おれも元々話すつもりはなかった。「うん」とだけ返してその話は終わり。クロにもおれの母親が「見かけたら気にしてあげてね」とこっそり言うと、クロは「もちろん」と返していたっけ。
 の両親はよくおれの家とクロの家に差し入れをくれる。いつも申し訳なさそうにしながらお礼を言う姿が、なんだかぼろぼろで。大変なことを引き受けてしまったという気持ちはあった。でも断るわけなんかなくて。おれに頭を下げるの両親にいつも「大丈夫」と返すのだけど、二人とも安心した感じは見せてくれなかった。申し訳なさそうな顔をするばかり。なんだか、おれが申し訳なかった。

「研磨と一緒のクラス、嬉しい!」

 吹き込む風にの髪が揺れる。きらきら光ってとても透明感のあるそれは、およそ、病気になっている人のものとは思えなくて。全部おれが見ている悪い夢ならいいのにって思ってしまう。
 定期検査のために入院しているも明日で退院だ。週に一回程度の通院、数ヶ月に一回の定期検査入院。おれとクロもが病院に行かなくちゃ行けない日は覚えている。来られる日はこうして病院に来るし、検査の結果はのお母さんにちょっとだけ教えてもらっている。難しいことはよく分からないけど、の病状は中学生のときからほとんど変わっていない。ここ最近は発作もなくなって安定しているだけ。ちっとも良くならない。はこんなにも眩しく笑っていて、おれが知らないところできっとたくさん我慢しているだろうに、良くならないのだ。それが、おれは。


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