夏ももう終わってしまう。そうかすかに感じるような風が吹いている中を、わたしは猛ダッシュしていた。佐久早くんとの待ち合わせ時間にもう十分以上遅れている。電車の遅延が原因とはいえ、待たせるのが申し訳なくて半泣きだった。連絡は入れてあるし佐久早くんから「ゆっくりでいい」と返信があったけど、それでもやっぱり気になって。人の迷惑にならない程度に急いでホームを駆け抜けている。
 待ち合わせ場所である駅の入り口。他にも待ち合わせをしているカップルがたくさんいる。もう合流して手を繋いで歩いて行く人たちや、腕を絡めて少し話をしている人たち。わたしも、こういうふうに見られているのだろうか。恋人なんだなって分かるようにできているだろうか。そんなのんきなことを考えていたら、佐久早くんの姿を見つけた。それと同時に佐久早くんも気付いて顔を上げた。そのあとすぐ、ぎょっとしたような顔をする。
 駆け寄っていったら佐久早くんが「ゆっくりでいいって言っただろ」と呆れたように言った。言ってくれた、けど、気になって。そんなふうに息も絶え絶えに答えると、佐久早くんが鞄からタオルを取り出した。

「はい。汗拭け」
「あ、いい、いいよ、自分のハンカチ、」
「いいから拭け」

 ぎゅっと顔に押し当てられてしまった。慌ててタオルを受け取ってお礼を言うと、佐久早くんはちょっとだけ、満足そうに笑っていた。
 待たせた立場で申し訳なかったけど、呼吸が落ち着くまでちょっと待ってとお願いしたら「いいよ」と言って座れるところを探してくれた。日陰になっているベンチで一息つく。待ち合わせに遅刻してしまったの、はじめてだ。佐久早くんにもう一度「ごめんね」と言ったら「別にいい」といつも通りの声色で言う。怒ってはいない。不機嫌でもない。そう分かる表情と声だった。悪気がないことには怒らない人だ。だから、そこまで必死に謝るほうが気にされるかな。そう思って「ありがとう」と伝えておく。それに佐久早くんはまた満足そうな顔をしていた。
 わたしの呼吸が落ち着いて、汗も少し引いたのを見てから佐久早くんが立ち上がる。今日はわたしが行きたいと言ったお店に行く予定がある。ケーキがおいしいと有名で、土日はいつも結構並んでいるそうだ。事前予約はできないから当日行って並ぶしかない。元々友達と行こうとしていたのだけど、佐久早くんに話したら「いつ行くの」と当たり前のようにデート場所に選ばれてしまった。いいのかな、と思ったけど、一緒に行ってくれるのなら、嬉しくて。前までなら友達と行くからいいと言ったけれど、そのときは何も言わずに約束を取り付けてしまった。
 佐久早くんの隣を歩きながら、いつも通り他愛もない話をする。佐久早くんの部活の話やわたしの友達との話。正直佐久早くんとは共通の趣味がない。それでもいつも会話は途切れないし、つまらないと思ったこともない。不思議だなあとよく思う。
 ちょん、と佐久早くんの腕が手に当たった。偶然じゃない。もう分かる。喋りながら腕を少し曲げて、佐久早くんの手にちょん、と手を当てる。すぐに手を繋いでくれたけど、特にお互い何事もなく普通に話をして目的の店を目指して歩く。一度繋ぐことを当たり前にすれば結構慣れるのは早かった。自分でも驚いたけれど。
 佐久早くんの顔を見上げて話をしているときに、女性二人組とすれ違った。その直後に小さな声で「彼氏、背高かったね」とこそこそ言っているのが聞こえた。佐久早くんにもきっと聞こえただろうけど、もう言われ慣れているのか特に反応は示さなかった。

「……何、どうしたの」
「えっ?」
「なんか一瞬上の空になってたから」

 知らない間に意識がすれ違った女性二人に向いていたらしい。そんな一瞬でも見逃さないなんて、佐久早くんはすごいなあ。そう照れくさく思いつつ「さっきの人たちが気になっちゃって」と素直に言うと、佐久早くんは少し考えてから「ああ」と言った。

「こそこそされるのはもう慣れてる。何が面白いのかは知らないけど」
「それはそうなんだけど、あの、わたし、佐久早くんの彼女に見えるんだなあって」
「…………いや、普通に見えるだろ」

 意味が分からん、というような顔をされてしまった。苦笑いをこぼしつつ「そうかな?」とだけ返しておく。佐久早くんは繋いでいる手を軽く持ち上げて「これで付き合ってなかったらおかしいだろ」とちょっと照れくさそうに言った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 思ったより並んでいなくてほっとした。外の椅子で待つこと二十分ほどで店内に案内され、元々食べたいと思っていたケーキを注文した。佐久早くんはケーキは食べないからとコーヒーを注文。本当にわたしに付き合わせているだけになってしまっている。少し申し訳なかったけど、佐久早くんの表情が柔らかかったから気にしないようにした。
 店内は女性客でざわついている。先ほどから何度かこそこそと佐久早くんのことを「背が高い」と思わず呟く人がいた。佐久早くん、あまり見ないくらい背が高いから目立っちゃうんだなあ。本人はもう気にしていないみたいだけど、人混みがあまり好きじゃない理由の一つなのかもしれない。

「あ、このお店の後どうするか決めてなかったよね。どうしよう?」
「何もなければまたうちで映画でもいいけど」
「佐久早くんは何か見たいものとかないの?」

 佐久早くんのコーヒーが運ばれてきた。佐久早くんは店員さんが去ってから一口飲むと、少し考えるように視線を伏せる。このあとどうしようか考えてくれているのだろう。わたしは佐久早くんさえ良ければ映画で良いと思っているから特に何も言わない。しばらくしてわたしのケーキが運ばれてきたときに、佐久早くんが顔を上げた。「特に何もない」と言ってから「映画だな」とまたコーヒーを一口飲んだ。
 何もすることがなくて暇なときは適当に映画を流していることが多いのだという。佐久早くんはフィクションとかそういうものに興味がないイメージだったけど、意外といろんなジャンルを観ていて驚いた。評価が大体辛口だったりそもそも内容を覚えていなかったりするのが佐久早くんらしいけれど。
 何の映画を観ようか話しつつ、目の前に置かれたケーキに目を向ける。お店で一番人気のチーズケーキ。雑誌で見てからずっと食べてみたかったのだ。つやのある表面がきれい。断面はしっとりしていて、何とも言えないきれいな色をしている。おいしそう。思わずにこにこしてしまいながらフォークで端をすくい取る。柔らかい。絶対においしいのがもうそれだけで分かって、食べていないのになんだか幸せだった。
 口に入れようとしたとき、佐久早くんが口元を押さえてくつくつ笑い始めた。びっくりしてケーキを口に入れる直前で固まってしまう。佐久早くんはそれに余計にくつくつ笑うものだから首を傾げてしまった。

「あの、どうしたの?」
「いや……何でもない。気にせず食べろ」

 笑ったままそう言われてしまう。何がおかしかったのか教えてほしい、けど。佐久早くんがあんまりにも楽しそうな顔をしていたから、わたしも笑って何も聞かないでおいた。
 ケーキを口に入れると、一瞬で甘い香りが広がった。おいしい。わたし、これも好きだなあ。そうにこにこしてしまう。でも、最近食べたケーキの中で一番おいしかったのは、やっぱり佐久早くんが買ってきてくれたフルーツタルトだった。特別フルーツタルトが好きなわけでもないし、きっと味だけを見ればこのケーキとそこまで大差はない。でも、断トツで好きだった。恥ずかしいから佐久早くんには言えないままだけれど、いつか、言えたらいいな。


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