「えっ、の彼氏が佐久早?!」

 高校から大の仲良しである藤島千香ちゃんが、持っているホットサンドを潰さんばかりの勢いで握った。慌ててそれと指摘すると「あ、しまった」とかわいらしく笑って、一旦トレーの上にホットサンドを戻す。手をおしぼりで拭きながら「え、嘘、本当に?」と興味津々で身を乗り出して聞いてくる。
 佐久早くんと付き合っていることは、高校からの友達には言ったことがない。なぜ言ったことがないか、というと、聞かれなかったから、という回答になってしまう。千香ちゃんとは恋バナをすることもあったけど、最後にしたのは高校生のときだったかもしれない。大学生になってからは千香ちゃんが県外に行ったこともありなかなか会えないし、そもそも千香ちゃんはどうやらわたしが恋愛に興味がない、と思っていたようで。久しぶりに会った今日、たまたま千香ちゃんが何気なく「出会いとかないの?」と聞いてきた。それがきっかけではじめて話した、というわけだった。

「ショックなんだけど……教えてよそういうことは……」
「ご、ごめんね」
「いや、え? 佐久早が彼氏? およそ予想が付かないんだけど、とりあえず経緯から教えてくれる?」

 改めてホットサンドを両手で持って一口。わたしも一緒に一口食べて、とりあえず二人で「おいしい〜」と呟く。最近できたばかりのお店だ。入るまでにちょっと並んだけど、並んでよかったと素直に言えるおいしさだ。バジルソースのアボカドサンドを選んだのだけどさっぱりしていてお昼にちょうど良い。千香ちゃんは三種類のチーズが入っているボリュームのあるものを食べている。どんな感じ、と聞こうとしたわたしに千香ちゃんが「待ちなさい」と笑った。

「色気より食い気なのは分かるけども、今はホットサンドより佐久早聖臣に興味あるんだけど?」
「あっ、ごめん!」

 うっかり。そう笑いつつ、佐久早くんと付き合うまでの経緯をさらっと話した。千香ちゃんはホットサンドを頬張りながらも真剣に聞いてくれている。時系列で話すとわたしがずっと片思いをしているようで恥ずかしい。実際そうなのだから仕方がないのだけど。
 わたしが経緯を説明し終わると、千香ちゃんは「高校のときに好きだったって知らないんですけど〜」と軽くテーブルの下で足を当ててきた。その通り。誰も話していない。大の仲良しである千香ちゃんにさえだ。「恥ずかしくて」と苦笑いをこぼしたら「めっちゃ寂しいんですけど」とぶすくれてしまう。確かに、わたしも千香ちゃんに隠し事をされたら寂しいかも。そう思って誠心誠意謝罪した。

「佐久早って潔癖じゃなかったっけ? あんまり喋ったことないからよく知らないけど」
「潔癖、といっていいのかよく分からないけど……」
「ちゅーとかできるの? バイ菌が移るからやめろとか言われたらブチ切れる自信あるわ」

 千香ちゃんが何気なく言ったそれに、体が固まる。ちゅー。つまり、キスのこと。そんなことはわたしにだって分かる。分かる、けど、正直あまり考えたことがなかった。
 わたしの様子に千香ちゃんが「え、まさか」と口元を引きつらせる。それから「したことない、とか言わないよね?」と内緒話をするように聞いてくる。その、まさか、です。小さく答えたわたしに千香ちゃんは言葉を失う。それと同時に千香ちゃんが持っているホットサンドからチーズのかけらがぽとりとトレーに落ちていった。

「二年付き合っててキスしたことないの?!」
「へ、変かな……?」
「変っていうか信じられない。本当に?」
「本当です……」
「佐久早が迫ってきたりしないの?」

 せ、迫る、とは。この手の話は昔から得意じゃない。ちょっとしどろもどろしてしまうと、千香ちゃんは続けざまに「佐久早だって男なんだから多少そういう感じ出してくるでしょ?」と未だに信じられないという顔のまま言った。
 佐久早くんは男の人だ。男の人はそういう、女の子とのスキンシップに興味を持っていることが普通。それくらいはわたしも分かる。分かる、けど。佐久早くんが相手となると話は変わる。だって、佐久早くんだ。そんなことに興味があるとは到底思えなくて、想像をしたこともなかった。
 この前、はじめて手を繋いだばかり。そう千香ちゃんに言ったらこれまた驚愕されてしまう。「嘘でしょ」となぜだか頭を抱え始めた。そんなにまずいのだろうか。佐久早くんはそういうのするほうが負担になると思うんだけどなあ。手を繋げたのは嬉しかったけど、佐久早くんが嫌な思いをしていないか、というほうが気になりすぎて仕方なかった。正直あのとき一緒に観た映画の結末を覚えていないほど、ずっと緊張したなあ。手汗が気持ち悪いと思われたらどうしよう、とか。手が熱いから離したいと思ってたらどうしよう、とか。いろんな心配をしていたっけ。

「好きな人とそういうことしたいって思わないの?」
「思わない、ことはないけど……それよりも佐久早くんが嫌がることはしたくないかなあ」
「嫌がらないでしょ、佐久早だってのことが好きなんだから」

 まっすぐ言ってくれる千香ちゃんの言葉に固まる。佐久早くんはわたしのことが好き。だから、付き合っているのだし、彼女として扱ってくれる。それは理解しているつもりだ。でも、どうしてそうなったのかがいまいち、分かっていない。
 きっと、佐久早くんの中にある何かしらのラインを超えなかったのだ。汚いもの、と見なすためのライン。わたしが総合的に見てそのラインを超えなかった。だから、彼女にしてくれた。それくらいしか今は理由が思いつかないからそういうことにしておく。つまり、わたしが佐久早くんのそのラインを超えるようなことをしてしまったら。
 中学生のとき、佐久早くんに正真正銘の恋をした。汚い水を頭からかぶったわたしを見て、心の底から嫌そうな顔をしていた。それでも落ちている雑巾を拾ってくれて、タオルをくれた。本当は関わりたくなかったのだと思う。でも、見て見ぬふりをするのは心が痛む。だから、佐久早くんができる最大のことをしてくれたのだと思う。ぽかんとしているわたしを置いて、佐久早くんが水道で一生懸命に手を洗っている姿を見て、わたしはそう思ったのだ。優しい人。端的に言えばそう思った。
 汚いものを触ったらあんなに一生懸命手を洗うのだ。雑巾も地べたも何もかも、その対象になる。そんな雑巾や地べたに素手で平気で触れてしまうわたしは、佐久早くんからしたら信じられない存在だろうと思う。ほとんどの人が当てはまってしまうだろうけれど。自分とは違う感覚の人。そう捉えられている。自分と違う感覚を持った人の行動は想像が付かない。何に触ることに抵抗がないのか、何に触ったら手を洗うのか、その手で物に触れることに拒否感がないかどうか。そういう細かい項目がすべて不明。恐らく佐久早くんと一致するわけはない。そんな相手と、佐久早くんは、キスができるのだろうか。
 考えたらゾッとした。毎日歯磨きをしている。ちゃんと歯医者にも行って清潔にもしている。でも、それでも、怖い。佐久早くんがどう思うか、と考えたら、とてもじゃないけどできないと思ってしまう。わたしは佐久早くんに無理をさせてまでそういうことをしたいとは思わない。一緒にいるだけで十分幸せなのだから。

「まあ、何はともあれ片思いが実ってよかったじゃん」

 笑ってくれた千香ちゃんにわたしも笑顔を返す。「ありがとう」と言った瞬間、ぽとり、とトレーにアボカドが落ちた。それを手で拾って口に運ぶ。これくらいは佐久早くんも、許容範囲だろうか。手で食べることがそもそもどうなんだろう。
 あの日、手を繋いでいる間、佐久早くんは何を考えていたのだろう。嫌じゃなかったかな。気持ち悪くなかったかな。我慢していなかったかな。そんなことを考え始めると収拾が付かなくて、どうにもこうにも、もう一歩を踏み出そうとは思えなかった。


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