朝食までルームサービスだった。何種類あんねんと思わずツッコミを入れそうになったパンのお供の数々。好きなフルーツを選んだらその場でフレッシュジュースを作ってもらえるサービスまで。角名曰く頼めば和食にも変えてくれるという行き届きすぎたサービスに、また朝から怯えてしまった。
 お昼前まではいてもいいそうで、二人でそれなりにのんびり過ごした。夜は寒くてテラスに出ていなかった。せっかくだし、と二人でテラスに出てぼうっと景色を眺めたり、部屋に戻ってから荷物を片付けようとするわたしを角名が邪魔してきたり。穏やかに楽しい時間を過ごした。
 高校生のときの角名は、どこか掴みどころがなくて妙に物事を見通している後輩だった。落ち着いているように見えて誰よりも楽しいことに敏感で、物分かりが良さそうに見えるけど嫌だと思ったことをのらりくらりと躱して逃げるのがうまい。冷めているように見えるけど、意外と、人との繋がりを大事にしている。わたしの目に映る角名はそういう後輩だった。

「なんか微笑ましそうな顔してません?」
「なんで分かんねん。怖いわ。高校生の角名倫太郎を思い出しとっただけ」

 高校生のときのわたしは、きっと角名から見たら馬鹿みたいに浮かれた女に見えていただろう。痛い気持ちにならないようにしていたと言っていたけど、人の感情はそう簡単にコントロールできるものじゃない。ガラス片が刺さった瞬間もあったかもしれない。そう思うと、青春というのは残酷だと思い知る。一瞬のきらめきの近くでは影になっている場所がある。角名とわたしはまさにそれだったかもしれない。烏滸がましいかもしれないけれど。
 角名が右手を伸ばして、わたしの鼻先をちょんちょんつついた。鼻が低くなるからやめて。笑いつつ避けると「一回だけ、ほんの少し泣いたことがありましたね。そういえば」と懐かしそうに呟いた。

「……角名って失恋で泣くんや?」
「そりゃあ。一回だけですけど」
「いつ?」
さんが俺のこと、下の名前で呼んだ日に一回だけ」

 家に帰って、お風呂に入って、ぼんやり歯を磨いているときにうっかり。角名は困ったように笑い、淡々とそう言った。わたしが角名の名前を呼んだ日? そんなのあったっけ。記憶の箱をひっくり返してみるけれど、そう多くないはずの角名との思い出の中にそんな場面は見つからなかった。それに、名前を呼ばれたくらいでなんで泣くんだろう。よく分からなくて即した言葉をすぐには出せなかった。

「もう一生呼ばれることはないんだな、と思ったら。本当にうっかりですよ」

 懐かしそうな顔。目の前にいるのは角名のはずなのに、まるで知らない人みたいに思えた。ぼけっと角名を見つめるだけになってしまう。そんなわたしを見た角名が小さく微笑んだ。やっぱり、知らない人みたい。高校時代には見たことがない表情だった。
 すっと伸びてきた右手が、躊躇なくわたしの頬を軽くつねった。痛くない。でも、かすかな恨みを感じる。その程度の力は込められていた。

「角名からスナを取ったら倫太郎しか残らないって、くだらないダジャレ言ってましたよ」
「……それわたしが言うたん? ほんまに? めっちゃ寒いやん」
「子どものころから言われすぎてもう反応する気も失せました」
「やろうな……過去のわたしがごめんな」

 ふふ、とやわらかい笑い声が転がる。角名は目を伏せて「許します」と言った。その声があんまりにも優しくてわたしも少し笑ってしまった。
 夢の時間はすぐに終わってしまうものだ。チェックアウトの時間が迫っている。角名に邪魔されつつ荷物の整理を終え、記念に部屋の写真を何枚も取った。素敵な思い出をありがとう。ダイニングルームの写真を撮りつつ素直にそう言うと、壁にもたれかかってこちらを見ていた角名が「それならよかったです」と満足げに言った。
 二人で部屋を出た。こんなに素敵なクリスマスはもうこの先ない、と上機嫌で言うわたしに角名が「いや、塗りかえます」と不敵に笑う。もういい。こんなにすごいのは金輪際なくていいから。そう笑いつつ角名の腕を小突いておく。それに対して角名は楽しそうにわたしの頭をくしゃくしゃ撫でて「今のはさんが悪いですよ」と言った。
 チェックアウトを済ませて、ホテルを後にした。お互い明日は仕事があるし、適当にぶらついたら解散かな。そんなふうにぼんやり思っていると、角名がなんとなく言いづらそうに「あの」と口を開いた。

「ん?」
「本当に嫌なんですけど、もう新幹線に乗らないとまずいです」
「……は?! 今日休みなんとちゃうの?!」
「午後から練習して、そのあと遠征のために東京に前乗りですね」
「はあ?!」

 新幹線の時間まであと二十分を切っている。嫌そうに言う角名の腕を反射で掴んだ。間に合わなかったらどうするんだ。朝食なんてのんびり食べている場合じゃなかったし、チェックアウトまでのんびりしているなんて論外だったというわけだ。遅刻は社会人にとっては大罪。あってはならないことだ。そう言いながら角名の手を引っ張って早歩きで駅へ向かう。駅まで約十分ほどだ。大丈夫、間に合う。そんなふうに一人でぶつぶつ時間の計算をしていると、角名が「あーあ」とテンション低めに呟く。

「だから言いたくなったんですよ」
「そんなん言うとる場合とちゃうやろ。はよ歩いて」
「ちゃんと余裕みてるんで大丈夫です。そう言ってもさんは急ぐんでしょうけど」

 完全にほしいものを買ってもらえなかった子どもみたいになっている。重心を後ろに傾けつつ仕方なく前に歩いている、という様子の角名にため息がこぼれる。当たり前だ。何より仕事と自身に求められている行いが大切。バレー選手としての角名倫太郎を求める人がたくさんいるのだから、期待を裏切るようなことはしないように。お説教みたいなわたしの話に角名は「あーあー」と笑いつつ聞こえないふりをしていた。
 駅についてから、角名は頑として改札内へ入ろうとしなかった。まだ時間があるからとわたしの隣でのんびりしている。わたしなら早めにホームに行かないと不安でそわそわしている時間だ。角名はあまり気にならない質のようで、わたしが何度時間を言っても知らん顔をしていた。

さん」
「何? ほんまにはよ行きなって。乗りそびれても知らんよ」
「今度はさんが俺に会いに来てって言ったら、怒ります?」

 自信なさげな声だった。行き交う人たちの喧騒にかき消されそうなほどに弱々しい。恐ろしく弱っちいその声に、吹き出してしまう。そこはぐいぐい来ないのか。難しいやつめ。なんて。

「抱きしめに行ったるわ、倫太郎くん」
「……あー、ホテルでこのやりとりしたかった……」
「なんでやねん」
「ここだと抱きしめてもキスしても怒るじゃないですか」
「そら怒るやろ」

 けらけら笑うわたしを弱々しく睨んだ角名が、ぽつりと「もう一回」と呟く。よっぽど嫌だったのね。わたしが彼氏を下の名前で呼んでいたことが。高校生の角名がそれをどんな顔をして見ていたのかを思うと、なんだかくすぐったくなると同時にほんの少しの罪悪感が生まれた。

「頑張ってこい、倫太郎」
「もうちょっとかわいい言葉にしてもらえません?」
「頑張れ倫太郎」
「だいぶいいです。もう一声」
「大好き、倫太郎」
「…………」
「はっず。なんか言えや」

 スマホで時間を見る。もうあと五分しかない。さすがにもう行け、と角名の背中を押す。諦めたのか素直に一歩踏み出した角名の、耳。今にも火がつきそうなほど赤くなっていた。
 ゆっくりとした動きで視線がわたしを捕らえる。一つ瞬きをしてから「また連絡します」とだけ言われた。ああ、はい。まぬけにそう返したわたしから視線を逸らした角名が、まっすぐ改札に向かって歩いていく。
 なんだ、あの人。かわいいかよ。小さくなっていく背中を見つめたまま一人で笑ってしまった。


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