年が明けて、お正月が慌ただしく過ぎ去った。正月休み明けの業務はまさしく激務というに相応しいもので、毎日体力を吸い取られる感覚を覚えつつ働いた。毎年嫌になる時期ではあるけれど、まあ、嫌いではない。今年も生き残ろう。そう自分で自分を励ましている。
 角名からは連日文句の連絡が来ている。今度はそっちが来てくれるって言ったのに、と。仕事が忙しいこととちゃんと予定を立てていることを言えばその場は治まるけど、また次の日にはぶすくれた声で電話がある。
 さすがの角名も年末年始はいろいろ予定があるようで、こっちに来ることは控えているらしい。「今すぐにでも行きますけど」と言う声がいつもより疲れている。それを指摘した上でわたしも忙しいから来られたら逆に困る旨を伝えれば、拗ねつつも待ってくれた。
 そんな日々を送って、ようやく来た二月上旬。静岡県内のとある体育館。周りにはグッズと思われる派手なタオルを持った人たちが賑やかに写真を撮っている。今日ここで行われるのはVリーグの試合。わたしの周りにいるのは全員バレーボールファンというわけだ。
 会いに来たったで、角名。一人で満足して笑ってしまう。今日のカードは角名が所属しているEJP RAIJINと、特に狙ったわけではないけど侑が所属しているMSBYブラックジャッカル。チケット販売開始前からこの試合を観ると決めていたから、角名に会いに行くのもこの日と決めていた。
 まあ会いに来たというよりは観に来たというほうが正しいか。粋な計らいかと思ったけど、角名のことだから拗ねそうだな。今更そう反省したけどもう遅い。仕方がない。もうここは振り切るか。ひとまずグッズが販売されているところを探すことにした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 無事にグッズを買い揃え、指定された席につく。結構前のほうだな。若干怖気付いていると隣から元気な声が聞こえた。家族連れの子どもだ。はじめての観戦らしく興奮していることが伝わってきた。反対側には若い女性の三人連れがいて、スマホを見つつ三人で楽しそうにお喋りをしている。
 子どもは宮侑のレプリカユニフォーム、若い女性三人組は全員角名倫太郎のレプリカユニフォームを着ている。若干気まずい。薄ら苦笑いを浮かべていると、会場から歓声が沸いた。
 なんだかんだでプロチームの試合を観るのははじめだから楽しみにしていた。後輩が出ているとなれば余計に。でも、騒ぐのは柄じゃない。監督よろしく腕を組んで静かに見守ることにした。ウォームアップをはじめる選手の中に二人を発見。元気そうで何より。そんな感じで、どういうポジションやねん、と誰かにツッコまれてもおかしくない目で見てしまった。
 コートの端っこで侑が角名に声をかけている。角名に軽くあしらわれて不満げにしているのを見た女性三人組がキャアキャア言っている。角名と侑が高校の同級生というのは当たり前に知っているらしい。なんか、有名人って感じだ。笑ってしまった。
 なんだかすごいところに行ってしまったものだ。これは本当に、孫の代まで自慢できるな。わたしは高校時代の先輩だったというだけなのに、勝手に誇らしくなる。本当に烏滸がましいけれど。あそこで息吹いている熱がまだ小さな炎だった一瞬を見ただけ。そう分かっていても、もうとっくにこちらに燃え移っている熱は、もう二度と消せないくらいのものになっている



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――少し後のコート内

「お? ん? え?!」
「ツムツムがおかしくなった!」
「え、ほんまに? そっくりさん?」

 そろそろアップが終わるタイミングで侑が一人で騒いでいるのが聞こえた。何してんだ。どうせしょうもないことだろうけど。そう視線を逸らそうとしたとき、侑が俺のほうを勢いよく見た。それから右手でどこかを指差して口パクで何か言っている。なんだよ。試合前に絡んでくるなっていつも言ってんじゃん。半笑いで応えつつ、一応侑の右手の先を見てみる。
 なんだよ。客席? 特に見知った顔がいるわけ、でも、ない。無言のまま五回ほど瞬きをして、目を細める。なんか、目線の先に一人、鞄で顔を隠している人がいる。侑がそれを指差して大笑いしているのを木兎さんが不思議そうに見ている。あの鞄。見覚えがありすぎる。
 そうっと鞄を動かしたその人の顔が見えた。俺と目が合ってからまたすぐに鞄で顔を隠す。いや、もう見えました。会いに来るってこういうことですか、さん。これじゃあ会いに来てくれたというよりは、観に来てくれたって感じなんですけど。たぶんさんも俺がそう思うんじゃないかと当日気が付いたのだろう。だから、侑に気付かれたと悟って顔を隠したのだ。

「角名、どうしたの?」
「……高校のときの先輩が来てる」
「え! いいなー。でもなんでそんな怖い顔で睨み付けてるの? 嫌な先輩?」
「今は俺の彼女。世界一かわいい」
「あーはいはい! 例の人? というかなんで今度は俺を睨むの?」

 話しかけてきた古森が不思議そうに首を傾げる。さんが着てるレプリカユニフォームと首にかけてるタオル。なんで古森のなの。それはあとでさんに直接じっくり聞くことにする。何も分かっていない古森が「え、何? もしかして朝ホテルで叩き起こしたから? ごめんね?」と見当外れな謝罪をされてしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 試合はMSBYブラックジャッカルの勝利で終わった。久しぶりに生で見たバレーボール、やっぱりかっこよくていいな。懐かしい気持ちになったり新鮮な感動を覚えたり。いろんな感情を生む時間だった。これからはもう少し観に来よう。素直にそう思った。
 試合が終わってからも何かしら予定があるだろうと思って、一旦会場から離れることは連絡を入れておいた。今は観客が次々会場を後にしているところだ。わたしも席を立ってようやく会場を出て通路を歩いているのだけど、なかなか前に進まなくて困惑している。これは一体何待ちなんだろうか。
 不思議に思っていると、わたしと同じタイミングで席を立った角名倫太郎ファン三人組の女の子が「え、やばい!」と大きな声を出した。

「どうしよう! 今日スナリンお見送り参加してるって!」
「嘘でしょ?! 珍しくない?! 本当に?!」
「やばい、手紙直接渡せるってこと?!」

 お見送り、とは。知らない単語に首を傾げる。ろくに何も調べず来てしまったことを反省しつつ、まったく動かないのでスマホで簡単に調べてみる。どうやら試合後にロビーで選手が数人お見送りするチームがあるそうだ。周りのお客さんの会話からそれを推察すると、今回は会場が大きいこともあってか両チームともにお見送りをしているらしい。
 まあ、この人混みに乗じてスルーしてしまおう。ここで会ってもろくなことはない。古森選手もいるらしいからちょっともったいない気もするけど。角名には冗談ぽく言ったけど、バレー選手で一番好きなのは本当のことなんだよね。だからグッズ一式は古森選手のものにした。角名のも買おうか迷ったけど、結局買わなかったな。ちょっと惜しかったかも。
 少しずつ列が進んでいく。それにしてもこんなに動かないものなんだろうか。覗き込むように前の様子を窺ってみるけれど、まだ出口は見えてこない。ちょっとしたイベントの列に並んでいる感覚だ。こんなことならもう少しどこかで人波が引くのを待てばよかった。次に観に来るときはそうしよう。
 頭にそう書き留めておくと、近くにいた男性ファンが「今日木兎選手と宮選手いるらしいぞ」と言ったのが聞こえた。なるほど。この混雑はそのせいか。木兎選手は超人気選手な上にファンサービスがとんでもなくすごいと聞いたことがある。その上に日本代表で女性ファンが多い侑もいるとなれば混雑必至に決まっている。先ほどの女性三人組の話から推測すると角名もお見送りの参加は珍しいようだったし、余計に混む原因を作っているのだろう。普通に帰りたい人は別の出口があったのかもしれない。勉強不足すぎた。
 じわじわと進む人混みに入ったまま十分ほどが経ち、ようやく出口が見えてきた。ちょっと疲れてきた。もうここまで来たら古森選手とだけ握手したい。若干ぐったりしつつそんなことを考えていると、木兎選手の大きな声が聞こえた。どうやら知り合いが来ていたらしい。周りの人も笑っていてとても平和な空間だ。わたしも思わず笑顔になる。

「あ、さんや!」

 思わず目を向ける。侑だった。呼び止めるな。目立つから。苦笑いをこぼして「どうも」と軽く言うと「めっちゃ久しぶりやないですか。握手でもしときます?」と笑われた。

「侑とはええわ。治とならするけど」
「なんでやねん」
「とりあえずお疲れさん。えらい人気で大変やな」
「有難いことです。ちゅうか、さん。覚悟しといたほうがええですよ」
「は? 何を?」
「角名」

 不敵ににっこり笑われた。侑のその顔、はじめて見た。普通に怖い。顔を引きつらせつつ「逃げ切るわ。ちなみに何に対して?」と敵情視察を入れる。侑はわたしを指差して「ユニフォームですかね」と楽しそうに言った。なるほど。よく見えたな、あの位置で。まあ色で分かるか。古森選手リベロだしな。
 こそこそと「この人侑と知り合いなんかな?」と話されているのが聞こえた。まずい。純粋なファンの方にお譲りしたほうがいいに決まっている。「じゃ」と軽く言うわたしに侑も「治によろしゅう〜」とふざけて手を振ってきた。一応軽く手を振り返して人波に紛れておく。
 少しずつ進んでいき、EJP RAIJINのユニフォームがちらっと見えた。もうすぐそこが出口だ。やっぱり古森選手は諦めてさっさと出ようかな。侑の顔がとんでもなく恐ろしかったし。ちょっと迷いつつ選手がいるであろう近くの列から離れようとすると「あ」という声が聞こえた。

「もしかしてさんですか?」
「えっ」

 びっくりした。声をかけてきたのは古森選手だったのだ。いや、というか、なんでわたしの名前。固まっていると「俺のユニフォームにその鞄と髪型、角名から教えてもらったんで」と言われた。角名の仕業だったか。と、いうことは、つまり。

さん逃げようとしてましたよね? 逃がしませんよ」
「悪役のセリフやん……」

 ひょこっと顔を出したのは角名だった。古森選手でわたしを釣って足を止めさせる罠だったらしい。悔しい。簡単に掛かってしまった。見つかってしまったのならもう開き直るしかない。角名から目を逸らして古森選手を見る。「握手してください」と言えば快く握手してくれた。

「めっちゃ好きです。これからも応援してます」
「あ〜ありがとうございます〜ただ怖いんでちょっと早めに手は離してもいいですか〜」
「いや、ここまで来たら開き直らせてください。二セット目の序盤めっちゃかっこよかったです。好きです、ほんまに。これからもずっと応援してます」
「待ってください、俺を巻き込もうとしてません? 本当に俺のファンですか?」

 分かりやすい苦笑いだった。古森選手にお礼を言ってから手を離すと、その手がそのまま角名に捕まった。おい、やめろ。周りに人がいるのでやんわりそう伝えると、角名が少し不満げな顔をする。古森選手と握手して何が悪い。ファンなんだから仕方がない。徹頭徹尾開き直りを貫いていると、角名が「指輪」と小さな声で言った。

「は?」
「なんでつけてないんですか。俺は首にかけてますよ」
「いや、まあ、うん。落とすとあれやし……ちょっと、そういうことここで言わんといて、ほんまに」

 小声で言っても無駄だ。それなりに人が密集しているし、ちょっと見て出口へ行く人ならいいけど、立ち止まって順番を待っている人には会話が聞かれてしまう。こそこそと後ろで「え、ゆびわ?」と言われているのが聞こえた。
 アイドルじゃないから別に構わないというスタンスも分からなくはないけど、巻き込まれる一般人側のことも考えてくれ。ただでさえあんたはスポーツマンの中でも女性ファンが多いんだから。顔が引きつっているわたしなど知らん顔をして、角名はいつものやわらかい笑顔を浮かべた。それから「指輪、出してください。持ってますよね」と言った。

「嫌や。ここでは出さん。後がつかえとるから離して」
「へえ、出さないんですか」
「……出すから変なことせんといて、ほんまにやめて」

 ポーチに入れてきたそれを仕方なく取り出す。つけてはいないけど、ちゃんと持ってます。わたしの手を離してからこちらに手のひらを向けた角名が「貸して」とにこりと笑って言う。嫌な予感しかしない。そう分かっていても、ここで逆らうことが一番の悪手だとも分かっている。そっと角名の手のひらに指輪を置いた。
 角名がまたわたしの手を取った。にこにこ笑ったままの顔が普通に怖い。「なんでしょう」と苦し紛れに声をかけたけど、角名は「ん?」としか言ってくれなかった。
 さも当然のことのように、角名が、指輪をわたしの指にはめた。近くから黄色い悲鳴が上がり、古森選手が「あ、やっちゃった」とおかしそうに笑った。左手の薬指。角名がやりそうなことは大体分かっていた。でも、まさか、本当にやりやがるなんて思わない。

「……何をしてんねん、ほんまに」
「あ、思ったより怒られなかった」
「怒ってますけど」
「まあまあ。あとで思う存分怒ってください」

 ぱっと手を離された。「じゃ、気を付けて。あとで連絡します」とにこやかなお見送りをされてしまう。絶対に許さん。とりあえず舌打ちをこぼして睨み付けておく。角名はそんなことなど物ともせずに手を振ってくる。ぜっっったいに許さん。
 背中を向けて歩きはじめると、近くを歩いている女の子がこそこそと「え、倫太郎くんの彼女かな?」と言ったのが聞こえた。おい、どうしてくれるんだ角名倫太郎。この場にいるのが怖いんですけど。できるだけ気配を消すことを心がけていると「あれだよね、よくSNSで言ってる例の彼女さん」という不穏な言葉が聞こえた。よくSNSで言ってる例の彼女さん? なんだその、恐ろしすぎる文言は。絶対あとで調べる。そう心に決めていると、女性がくすりと笑ってから「耳真っ赤。かわいい人だね〜」と言ったのが聞こえた。そりゃどうも。角名倫太郎、末代まで絶対に許さん。
 とりあえず人混みを避けるように会場を離れた。空いていたベンチに腰を下ろしてから角名のSNSを素早く調べる。投稿されているものを辿っていくと、ため息が出た。角名のやつ、普通に彼女がいると公表してやがる。わたし知らなかったんですけど。クリスマスにファンに見つからないようにって言ってたからてっきり隠してるかと思ってたんですけど! こういうのって本人に許可を取るものなんじゃないでしょうか!
 角名倫太郎、やっぱり絶対に許さん。一人で頭を抱えてしまう。本当に許さん。むかつく。こんなの、許せない。むかつく。本当、頭にくる!
 わたし、こんなので喜ぶタイプの女じゃないのに。あんなことされてときめくタイプの女じゃないのに。またわたしが勝手にかかった気になっていた呪いを祓われた気がしてむかつく。心臓がうるさい。もういっそ止まれと思ってしまうくらい騒がしい心臓を落ち着けたくて大きく深呼吸をする。けれど、何をしたって全身の血が熱く感じてしまって、どうしようもなかった。
 むかつく。言葉にするのも惜しいほど、角名に会いたい。やわらかい気持ちになど変換できない。やわらかくもなければ、硬くもない。ただただ熱を持った思いが胸の中に満ちてしまっている。こんなの許せない。こんなふうにされて、許せるわけがなかった。
 高校時代の角名もこうだったのだろうか。本当はやわらかい気持ちになど変換できていなかったのかもしれない。わたしを見て毎日むかついていたのかもしれない。やわらかい気持ちなんて嘘っぱちで、本当は、こんなふうに熱い気持ちをずっと燻らせていたのかも、しれない。そう思ったら余計に角名に会いたくなってしまって、困ってしまった。


戻る / Fin.