「あ、さん。お疲れ様です」

 顎が外れるかと思った。角名と会った翌週の金曜日。家に帰ってきたら角名がいた。黒いチェスターコートに黒いパンツだから闇に溶け込んでいるように見えて、もしかして幻かと三回ほど瞬きをしてしまう。角名はそんなわたしを見て「先輩、後輩ですよ」とからかうように言った。
 実は家に帰るのは三日ぶりだ。三日間は前に角名が迎えに来てくれたホテルに泊まっていた。職場さえ無事に脱出できればあの野郎の顔を見ずに済むからだ。おかげで今日までは平穏な朝と夜を過ごせていた。

「え、いや、は? なんでおんの?」
「顔が見たかったからですかね?」
「いやいや、連絡もらってへんけど。わたしが帰ってこんかったらどうするつもりやったん?」

 ため息をつくわたしに角名がにこりと笑って「あー、考えてなかったですね」と言った。呆れた。まあ、こうして会えているわけだし結果オーライとするしかない。そう思いつつ角名を連れてマンションに入った。
 クリスマスまで会うことはないと思っていた。不意打ちすぎて心臓がばくばくとうるさい。びっくりした、というか、こんなに突然来ないでしょ、普通。せめて前日に連絡を入れるものじゃないだろうか。唐突に今日朝起きたら会いたいと思ったとか? あまりにも衝動的すぎる。いや、わたしの勝手な妄想だけれど。
 エレベーターに乗ると角名がやけにくっついてきた。わたしの肩が角名の腕にぴったりくっついている。今日は結構寒いし暖が取れるわけで、まあ、別に嫌なわけではない。でも、これを許すと浮かれているように思われそうで嫌だ。とりあえず「近い」と文句を言っておくと、角名は「えー」と言いつつもちょっとだけ離れてくれた。

「ちゅうか、こんなとこおって大丈夫なん? 練習は?」
さんってバレーの心配ばっかりですね。会えて嬉しいって言ってほしいんですけど」
「はいはい嬉しい嬉しい。で、ほんまに大丈夫なん?」
「せめて嬉しがる演技はしてください」

 エレベーターを降りる。あの日と違って緊張もしていないし、ごちゃごちゃと考え事をする必要もない。いつも通り鍵を片手で出しながらドアの前に立ち、ガチャリと鍵を開けた。
 明日は珍しく丸一にオフなのだという。それなら明日来ればよかったのでは。純粋にそんな疑問を投げかけると、角名は「できるだけ早く会いたかったので」と当たり前のように言う。そういうの、本当に勘弁してほしい。目を逸らしつつ「そうですか」とだけ返しておいた。
 部屋に入った角名は断りも入れずにわたしをぎゅっと抱きしめた。荷物を置かせてほしいし着替えさせてほしい。そう思いつつも、嫌じゃないから何も言わずにじっとしている。
 ほんの少し腕の力を緩めた角名が、背中を丸めて顔を覗き込んでくる。至近距離でじっと見つめられると落ち着かない。「何」と呆れつつ聞いてみると角名は茶化すように「睫毛を数えてます」と言った。

「数えへんくてええ、そんなもん」
「えー。くりくりしててかわいいのに?」
「慣れへんわ、そういう感じの角名……」
「そのうち嫌でも慣れますよ」

 ちゅ、と唇が重なった。会話の流れのままにキスするな。角名の顔を手でぐいっと押してやる。角名は楽しそうにけらけら笑うだけ。力で敵わないことは重々承知している。角名もわたしの手くらい適当に払えるだろうにそれをしない。結局はからかわれているだけだ。それがちょっと悔しかった。
 着替えたいから一旦離れて、と言えば結構すんなり離してくれた。ベッドの上に置いてある部屋着に脱衣所で着替えた。部屋に戻って夕飯をどうするか考えるためにキッチンのほうへ行くと、角名もついてくる。腰を抱きつつ「何食べるんですか」と機嫌良さそうに言った。

「ご飯炊く元気ないで、パスタにするわ」
「和風がいいです」
「リクエストは聞いてへんわ。まあええけど」

 料理の間は離れて。そう言いつつシッシッと追い払う仕草をすると、角名は素直に腕を退けたけど、ぴったりくっつくのはやめなかった。わたしの手元を覗き込んで鼻歌でも歌い出しそうなくらいご機嫌だ。角名って彼女にはこういう感じなのね。前も思ったけれど。
 と、いうか。一応確認したいのだけど、わたしと角名って、付き合っているということで間違いないのだろうか。好きだとは言われたしキスもしたし、一応、わたしはそのつもりだし。角名も振る舞いからしてそれで間違いはないと思うのだけど。好きです、付き合ってください。はい、お願いします。この流れがなかったからいまいち、堂々と角名のことを彼氏といっていいのか不安になってしまう。
 ツナ缶のリングを指でかりかりと摘まもうとしつつ、恐る恐る角名のほうを見る。角名はわたしの顔をずっと見ていたらしくすぐに「ん?」と反応した。

「あの、今更なんやけど……」
「はい?」
「先に言うとくけど、絶対笑わへんって約束して。笑ったら速攻で閉め出す」
「えー怖い。なんですか?」
「……わたしって、角名の彼女ってことで、ええの?」

 角名が固まった。はじめて見るその表情にぶわっと顔が熱くなる。うわ、まずったかな? 最悪、めちゃくちゃ恥ずかしい女になってる。ぱっと角名から顔を背けて「いや、まあ、うん」と誤魔化そうと口を動かしたけど、うまく言葉が出せなかった。ツナ缶もうまく開けられない。ぐいぐい力を入れているはずが、いまいちちゃんと力を入れられていないような感覚。動揺してしまっている。
 わたしは彼女じゃなかったのか。じゃあどういうつもりで好きと言ったりキスしたりしてきたんだこの後輩は。いやでも一緒に寝たし、やたら優しい目で見てくるし。なんなの、わたしの立ち位置って。
 するりと角名の腕がまた腰に回った。料理中はやめてって言ったのに。そう文句を言おうとしたら、ずいっと顔が近付いてくる。おでことおでこがくっつく距離感。うっかりツナ缶を落としそうになったけど、角名が缶ごと手を握ってくれたから落とさずに済んだ。
 指先が撫でるように少し動いている。くすぐったい。角名はわたしの瞳を見つめたまま、静かに呼吸だけしている。その呼吸音を聞きながら、わたしも静かに呼吸をした。
 角名の手がツナ缶をするりと取っていき、缶を置いた高い音がかすかに響いた。その手でわたしの手をもう一度掴み直す。指を絡めてぎゅっと力を入れる。大きな手だ。高校生のときに毎日のように見ていたはずの手なのに、大きいと知ったのは最近になってからだ。
 そっと唇が重なる。力が抜けるほど優しいそれに、何かがほどかれるような感覚がした。ゆっくり離れた唇が、まだほんの少し触れているくらいの距離。そのまま角名が、はにかんだ。

「そうだよ」

 甘ったるい声がひっそりと響く。本当に調子が狂う。わたし、こんなこと聞くタイプの女じゃなかったのに。そんなことをされるようなタイプの女でもないのに。どちらかというとさっぱりしていて、友達みたいなお付き合いをするタイプだったのに。そう、ここしばらく、思い込むようにしていたのに。こんな甘ったるい視線を向けられるような恋は知らない。
 照れ隠しで軽く頭突きしておく。「ため口」と苦し紛れの注意をこぼす。角名は「彼女なのに?」と面白がってきた。絶対に許さん。意地になってしまう。拗ねつつ「ため口厳禁」ともう一度言うと、角名はくすくす笑いながら「分かりました」と言って、わたしの額に口付けを落とした。


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