「ほんまにずっとここにおったん? 体冷えるやろ」

 お風呂上がり、ドアを開けたら立ったままの角名がまだいた。わたしをじっと見下ろして「遅いんですけど」と拗ねている。はいはい。ごめんごめん。適当に返しつつ、角名を脱衣所に引っ張り入れてから外へ出た。

「とりあえずお風呂入って。着替えはないからどうにかして」
「あっても着ませんけど」

 元カレの、的な解釈をされたらしい。たとえあの野郎の服があっても角名は着られないよ。身長が違いすぎるから。けらけら笑うわたしに角名が「なんか、吹っ切れすぎじゃないですか」と眉間にしわを寄せる。ああ、角名からすればわたしが振られてびーびー泣いているから来てくれたようなものだしね。こんなに立ち直りが早いなんて夢にも思っていなかったのだろう。優しく慰めてくれるつもりでいたのだろうし。それに関しては正直悪いと思ってます。軽く謝っておくと角名は「いやそういうつもりで来たわけじゃないですけど」とこぼしつつ、「まあいいです、なんでも」と諦めて脱衣所のドアを閉めた。
 拗ねた角名、結構ツボかもしれない。そんなことを思いながら部屋に戻り、今度こそ冷蔵庫を開ける。豆腐と昨日のご飯の残りがある。もうこんな時間だしこれでいいや。たまに元気がないときはこんな感じで済ませてしまうこともある。それに今日は、雑な夕飯でも、なんだかとても、おいしく思えた。
 不思議だ。そう呟いてしまう。昨日まで人生が終わった、くらいの暗闇の中を彷徨っている気分だったというのに、もうそんなものは幻だったのかと思うほど遠い昔の話みたい。わたしの家のお風呂に角名がいるのも変な感覚。つい最近までレアキャラ扱いしていた後輩だったのに。
 雑な夕飯を食べ終わって片付けをしていると、脱衣所のドアが開く音が聞こえた。そのあとすぐに部屋に角名が入ってくると「適当にタオル使ったんですけどよかったですか」と言った。タオルの一枚や二枚で文句は言いません。好きにどうぞ。そう言いつつ収納スペースから毛布を取り出そうとしていると、角名が近くまで移動してきた。

「そういえば角名、何時に帰ったら間に合うん? 練習もあるやろ?」
「午後からなんで気にしなくて大丈夫です」

 そんなことより、と言いたげな顔をされた。毛布を取り出すことに成功したので、ひとまず角名に毛布を渡す。またしても不満げな顔をされてしまったけど一応受け取ってくれた。

「なんですか、これ。床で寝ろってことですか。さんって結構冷たいんですね」
「いや、布団から足はみ出るんとちゃうかなって思ったんやけど」
「……さん」
「なんやねん」
「抱きしめていいですか」
「情緒不安定か」

 その前に歯磨きしてください。新しい歯ブラシを出すので。そう言うとまたしても拗ねられた。いちいち拗ねるな。癖になるから。
 拗ねる角名をどうにかこうにかまたしても脱衣所に連れて行き、洗面台の前に立たせた。新しい歯ブラシを握らせてまるで子どもの歯磨きを見守るかのように歯を磨かせる。角名、結構面倒くさいタイプか。世話が焼けて困る。そう歯を磨きつつ言ったら角名がぼそりと「全然困った顔してないですけどね」と恨み言のように呟いた。
 代わりばんこに口をゆすいでから、また部屋に戻ろうと角名の手を掴む。ぐいっと引っ張ったのに、抵抗された。逆に引っ張られてバランスを崩してしまうと、あっという間に角名に捕まる。首元に顔を埋めた角名が「さん」と静かな声で囁く。たぶん呼びたかっただけなのだろう。「なに」と反応しても、それ以上言葉はなかった。
 もう一時だからそろそろ寝よう。そう背中を叩くと、角名が突然わたしを抱き上げた。びっくりして思わずしっかり角名に抱きついてしまう。ドッドッと心臓が嫌な音を立てている。びっくりした。というか、目線が高い。角名の目線ってこんな感じなんだ。ちょっと怖い。
 そのまま部屋に連れて行ってくれた。脱衣所の電気をちゃんと消して、部屋の入り口にある電気の存在にも気付いてちゃんと消してくれた。間接照明が自動でこの時間は付くように設定してある。真っ暗にはならないことも把握済みだったらしい。
 そのままベッドにゆっくり下ろしてくれた。角名に抱きついてしまっていた両手をほどいたのに、角名が離れない。そのまま布団を器用に片手でかけると、わたしを抱きしめたままベッドに横になった。必然的にわたしも横向きになりつつ「腕痺れるやつやで」と一応声をかけておいた。
 触れるだけのキスをされた。何回するの。そう思わず笑ってしまう。角名はそんなわたしの顔をじっと見つめていたかと思えば、腕をほどいて体を起こした。え、まさか。そう驚いている間に、体の向きを変えられてから角名が覆い被さってきた。

「……あの」
「ん?」
「さすがにその、今日は、これ以上せんといてね……?」
「……あー、かわいい」
「なあ、ほんまにやってば」
「ちょっともう何も言わないでください。気持ちが揺らぐんで」

 さっきから首元に何度も唇があたる。色っぽいそれにちょっと困惑してしまった。
 角名が顔を上げて、おでこに口付けを落とした。本当にこれ、何もしないよね? 若干どぎまぎしつつ黙っておとなしくしていると、今度は頬、今度は鼻先、今度は唇といった感じでいろんなところにキスしてくる。最後は耳に唇をあてると、小さく息を吐いた。
 内緒話をするように「正直に言うと、触りたいです」と囁かれる。耳からその体温がいろんなところに巡っていく。わたしの目の前にいるのは十七歳の角名じゃないんだよな。改めてそれを感じている。そのあとすぐに「もうちょっと待ってください。我慢します」と言ってからしばらく黙った。なんだか申し訳なくてやっぱりおとなしくしているしかできない。そうか、角名、わたしのこと好きなのか。知っていたはずのそれをより自覚させられた気がした。
 唇が重なる。これ、本当に我慢しようとしている行動なのだろうか。ちょっと疑問だったけど、一応会いたいと言ったのはわたしだし、なんだかんだでいろいろ我慢させているのもわたしだ。黙って受け入れる他ない。そっと目を閉じておいた。
 角名の右手が腰の辺りを撫でた。おい待て。思わず頭を引っ叩いてしまう。角名は唇を離して「なんですか」と楽しそうに言う。我慢をしようとしている人間の行動じゃないんですけど。そう抗議するわたしに角名は「へえ?」とわざとらしく首を傾げた。

さん、腰弱いんですね。触ったらそういう気分になっちゃうんだ?」
「……めっちゃぶん殴りたいんやけど、その顔」
「痛いの嫌なんでだめです」

 本当に殴るぞ。そう冷ややかな目で見ていると、角名が両手を上げて「分かりました。もう何もしません」とおかしそうに笑って言う。最初から我慢できるなら普通に我慢してくれ。心臓に悪い。
 横に寝転んだ角名が「言っときますけど結構頑張って我慢してます」と目を瞑ったまま言う。それはどうもすみません。でも、そんなに手が早いタイプだとは思っていない。素直にそう伝えると角名が「光栄ですけど、あんまり期待しないでください」と言って、わたしに背を向けるように寝返りを打った。ああ、本当に頑張ってくれてるのね。そう思うと、その背中が急に、愛おしくなってしまった。

「角名」
「はい」
「来てくれてありがとう。ごめんね。おやすみなさい」
「おやすみなさい。……呼ばれて嬉しかったですけどね、俺は」

 素直でかわいい後輩のふりをするな。可哀想だけど、ちょっと笑いそうになった。


戻るnext