わたしが座り込んでも角名はなかなか離してくれなかった。縋るように服を掴んでぐいぐい引っ張り続けて、どうにかようやく離れてくれたときにはもう言葉を出す余裕などなかった。呼吸をするので精一杯。知らないうちに出ていた涙を手で拭っておく。恥ずかしい。肩で息をしながら角名の顔を見る。屈んでいる角名は、じいっと、満足げにわたしを見ていた。

「かーわい」
「……趣味、悪」
「えー?」

 楽しそうにするな。ひたすらむかつくから。弄ばれている。さすがは相手を翻弄するタイプのミドルブロッカー。まあ、そんなことを思えるくらいには回復してきた。酸素が頭に回ってきている。ぼうっとしている思考がじわじわクリアになってきて、ようやく、バツが悪くなった。今すぐにでも顔を背けたかったけど、また何かされても困るから動かないように気を付けておく。
 明日、というかもう日付が回っているから今日は平日だ。角名も普通に仕事や練習があるだろう。それなのに、わたしがうっかりあんなことを言ったから来てくれたのだ。申し訳ない。ただ一人でいることがつらくてこぼしてしまった言葉だったのに。いい歳した大人が言うわがままじゃなかった。
 角名の右手が伸びてきた。親指の腹でわたしの唇に触る。なんでしょうか。バツが悪いままそう呟くわたしに、角名が「返事がないなと思っただけです」と言う。その表情は、明らかに嬉しそうなものだった。

「好きですって言ったんですけど」
「聞こえてましたけど」
「お返事どうぞ」
「そのお返事を聞く前にキスしたん誰やねん……」
「誰でしたっけ。覚えてないですね」

 趣味が悪い。またそうこぼしてしまう。だって、普通、わたしのことはもうなんとも思ってないでしょうよ。高校時代に恥ずかしいくらい浮かれていたであろう様子を見られている上に、もうずいぶん時間が経っている。良い人にたくさん出会って、きれいな人に言い寄られたことだってあるはずだ。それなのに、なんでよりによってわたしなんか。
 好きな人に恋人ができたら、大抵の人は心が折れると思う。恋人といる姿を見たら恋心は砕けるだろう。わたしならそうだ。わたしがいたかった場所に他の子がいる。その事実は十二分に凶器になり得る。だから角名も、あんな顔をしてわたしを見ていたのだろう。少し寂しそうな、なんとも言えない表情。学生時代からの恋人と社会人になってからも一応長く続いていたことを知っているのに、どうして、諦めなかったのか。痛い気持ちだったはずなのに、どうして捨てなかったのか。

さん。俺ね、思うんですよ。堅い意思≠ニか固い絆≠ニかって、砕ける瞬間は呆気ないんですよ。粉々になって形が分からなくなるし、集めて一つにしようとしても硬くて混ざり合わない。勢いよく砕けるから破片が飛び散っていろんなものを一緒に傷つけるし、結構最悪じゃないですか」
「なんの話やねん」
「だから、やわらかいほうがいいと思うんですよね。感情って」

 まったく意味が分からない。角名ってそういう哲学みたいなこと、言うタイプだっけ。わたしが目を細めて考えていることに気付いたらしい。角名は「そんな真剣に考えてくれなくていいですよ。そういうとこ好きですけど」とおかしそうに笑った。

「やわらかかったらナイフで刺されても穴は開くけど砕けることはないし、ばらばらにされても丸めたら元に戻るかもしれない。勢いよく潰されて辺りに散らばっても他のものは傷つけない」
「……それが何?」
さんへの気持ちは、特別やわらかくしておこうって思ったんですよね。さんに彼氏ができたとき」

 嫌な思い出にしたくなかったから、とまるでろうそくを消すみたいな声で言った。言葉を失う。角名の顔が今まで見たどんな顔よりも優しくて、寂しそうで、泣き出しそうだったから。

「やわらかい気持ちで見ていたからさんが笑っていたら嬉しかったし、さんが楽しそうだったら嬉しかったし、さんが幸せそうだったら、嬉しかった、ですよ」

 じゃあなんで今にも泣き出しそうなのか。そう聞きそうになる口をつぐむ。わたしが聞いても角名は本心を語らない。そう分かったからだ。
 角名が顔を少し俯かせた。自分の手を見つめて、少し指を動かす。まるで指先についた砂を落とそうとしているみたいな動きだった。一瞬の静寂は、どこかからか懐かしい風を呼び込むように思えた。高校生のときの自分を思い出す。とても、とても、充実した三年間だった。今という現実を切り離して考えれば、嘘偽りなく充実していたと言える。わたしにとっては。

「だから、今、さんが、泣きそうになっているから、俺も泣きそうです」
「……もう泣いとるやん」
「とりあえずあの野郎が何したのか教えてもらっていいですか」
「怖、急に人殺しみたいな顔すんなや」

 顔を上げたら涙が出ているくせ、とんでもなく怖い顔をするからわたしが笑ってしまった。
 右手を角名のほうへ伸ばす。前髪が睫毛に引っかかっているのが気になった。それを払ってやる。あの野郎が何をしたのかは、まあ今は置いておく。そんなことはどうでもいいと思えたから。
 お返事がまだでしたね。そう言うわたしに角名が「まだですね」とほんの少しだけ拗ねたように言った。わたしがあまり角名の思い通りに動かないからだろう。当たり前だ。翻弄されっぱなしは性に合わない。
 両手で角名の頬を包む。肌がきれいでむかつく。高校生のときからずっとつるつるかよ。ちょっとつまんでやったら「なんですか」と角名が拗ねたまま言う。拗ねるな。かわいく見えてきて困るから。
 そっと、唇を重ねる。三秒くらいでぱっと離れて、手も離す。角名は目をぱちくりして「え」と小さく声をもらした。

「はい、お返事」

 明日も仕事だからお風呂に入らなくては。しゃがんだままの角名の頭をぽんぽん叩いてやる。わたしお風呂入るで、適当に寛いどって。部屋にあるもんなんでも出してええし勝手にどうぞ。そう言えば角名は「あ、はい」とまぬけな声で答えて、ぼけっとわたしを見ていた。へえ、そういう顔もするんやな。おもろ。
 けらけら笑いつつ部屋を出て、脱衣所に入る。内側に鍵があるので一応かけておく。その瞬間、バタバタと足音が近付いてきて「ちょっと!」と角名の声が聞こえた。ドアを開けようとしてくる。鍵をかけて正解だった。

「なんやねんやかましい。夜中やで静かにしとって」
「ちょっと、もう一回、ぼうっとしてたんでやり直し希望なんですけど」
「ぼうっとしとったんが悪い」

 角名はしばらくうるさくしていたけど、ふとした瞬間に静かになった。勝った。そう機嫌良く服を脱いでいると、ドアの向こうから「できるだけ早く出てきてください」と低い声が聞こえてきた。え、怖。ゆっくり入ろ。苦笑いをこぼしつつ、なんだか目が覚めた気持ちだった。
 やわらかい気持ち、か。角名の言葉を借りると、わたしはこれまでどちらかというと硬い気持ちだったと思う。あの野郎のせいでそれが木っ端微塵に砕かれて、いろんなところに突き刺さって痛かった。二度と元に戻らないからただただ怒って悲しんで、苦しんだ。もうないものを探してイライラしている感覚だった。そうか、やわらかい気持ちで見れば、いいのか。なんとなくそう納得したのだ。
 あんなに憎くて、正直殺してしまいたいくらい激しい気持ちがあったのに、なんか、一気にどうでもよくなった。すごいな、やわらかい気持ち。感化されやすいわたしがすごいのかもしれないけれど。一人でこっそり笑っておく。一応角名に感謝しなきゃね。ありがとね。ドアの向こうで拗ねているであろう元後輩≠ノ呟いておいた。


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