エレベーターの中でもわたしたちは一言も言葉を交わさなかった。ずっと繋いでいる手がお互いに熱くなってきただけで、それ以外は知らん顔を続けている。
 目的の階で降りて、歩きながら空いている手で鍵を探す。いつもすぐ取り出せるようにしているはずなのに、今日だけはすぐに見つけられない。内ポケットを探っても、鞄の底を探ってもなかなか出てこない。一人で恥ずかしいやら情けないやらでこっそり息をついた。
 ようやく鍵を取り出したときにはドアの前に来ていた。わたしが鍵を差し込もうとしたとき、角名がその手を空いている手で掴む。びっくりして角名に顔を向けると、少しだけ首を傾けた角名がじっとわたしを見下ろしていた。

さん」
「……なに?」
「入っていいんですか」

 むかつく。思わず声に出そうになった。言わせようとしている。それが分かったからだ。わたしは先輩なのでぐっと堪える。後輩にむかつくと言うのはよろしくない。一つ深呼吸。むかつく、けど。そう喉の奥で前置きをしてから「いいです」と目を逸らしつつ返しておいた。角名の口調を真似してやった。ちょっとはむかつけ。そう思ったけれど、一切響いていないらしい。わたしを見下ろしたまま角名が笑った。余計にむかつく。笑うな。
 鍵を開けようとしていた手が解放された。鍵を差し込んでいつも通り回せば、当たり前にガチャンと鍵が開いた。毎日聞いているはずなのに、今日はどうしてこんなにうるさく聞こえるのだろう。分かるような分からないような。
 知らんふりしてからゆっくりドアを開けて「どうぞ」と角名に言うと、角名はにこにこ笑ったまま「お邪魔します」と言った。手を離さないと、狭いし動きづらいんですけど。そう思いつつも角名が離さないからそのままでいる。狭い玄関で靴を脱いでから、角名のほうを振り返る。角名は後ろ手で鍵を閉めてからしっかりU字ロックもしてくれていた。
 わたしに続いて角名が靴を脱ぐ。それから、わたしの瞳をじっと捕らえた。その視線にどきっとしてしまっていると、角名が動こうとした。思わず「待て」と声をかけると角名が止まる。それからゆっくり口を開いた。

「待たないです」
「あかん、ちょっとだけ待って。とりあえず部屋あがって」
「なんでですか」
「なんでもええから待て。先輩命令」

 繋いだままの手をぐいっと引っ張る。角名は目を細めてじっとわたしを見つめて、とてつもなく不満げだった。そう黙っている間に歩けるでしょ。そう言いつつぐいぐい手を引っ張れば、仕方がないといったふうに歩きはじめてくれた。
 正直に言う。急に怖気付いた。ここで、もし、抱きしめられたら、戻れなくなる気がした。角名のことを後輩だと思っていた自分に。果たしてそれは角名のためになるのか。そして、わたしは、それでいいのか。突然いろんなことが起こったから早まっているのではないか。急にそんなことを頭の中でこねくり回してしまったのだ。
 とりあえず部屋にあがった角名の手をどうにかこうにかほどいて「とりあえずコート、かけるから」と右手を差し出す。角名はその手をじっと見つめてから不満げにコートを脱いだ。預かったコートをハンガーにかけて、自分のコートも一緒にかけておく。荷物は適当に置いてください。そんなふうに言えば角名は無言のままテーブルの近くに鞄を置いた。
 何か出せるような飲み物、あったかな。うちに人が来るなんてめったにないから何も用意がない。ミネラルウォーターはあるけどそれでもいいだろうか。そんなことを考えつつちらりと角名を見ると、立ったままじっとこちらを見ている。瞬きくらいしたほうがいいと思う。またちょっと、怖気付いてしまった。
 角名が一歩踏み出した。わたしは一歩後退る。それが何度か繰り返されるうち、わたしの背中が何がにぶつかる。びっくりしつつ目を向けると見慣れたカーテンだった。気付かない間に掃き出し窓まで追い詰められてしまった。逃げ場がない。角名は躊躇なくわたしの目の前まで来ると「さん」と甘ったるい声で、文字をなぞるように囁いた。

「いい加減、諦めてほしいんですけど」

 困ったように笑われた。そんな顔は、はじめて見た。でも、ちょっとだけ似た顔を知っている。高校生のときに見せた少しだけ寂しそうなあの表情。それと温度が似ているような気がした。
 角名の右手が伸びてきた。びくっと思わず肩が震えたのがバレて笑われてしまう。角名の手はわたしの顔に向かって来て、その人差し指で目元を撫でる。すべるように肌を撫でて、横髪を指先がかすめる。
 右手がそのままカーテンを押さえるようにして、掃き出し窓についた。カーテンに包まって逃げてやろうか。そうこっそり左側を確認すると同時に左側のカーテンも押さえられる。そのまま角名が顔を寄せてくるから、思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。それをくすりと笑った声が耳元で聞こえた。

「五秒だけ待ちます」

 五秒で何をしろと言うのか。シンプルにそんな文句がこぼれそうになる。
 五。ああ、そうか、左右には角名の腕があるとはいえ、背が高い角名と低めのわたし。腕の下からならいつでも逃げられる。がら空きだし、角名はそこを防ぎようがない。
 四。でも、ここで逃げたら、ただの思わせ振りな女で終了してしまう。たとえ話とはいえ会いたいみたいなことを言った上、部屋にまであげたというのに。さすがに罪深い気がする。それは、嫌だな、とか。
 三。でも、やっぱり。傷ついているときに優しくされたから、みたいなふうになっている気がして、それはそれで、嫌だとも思ってしまう。角名はどう思っているんだろうか。
 二。高校時代の、角名の表情がまだ忘れられない。なんであんな顔をしてわたしを見ていたのか。今となっては理由は明白。でも、わたしはその顔を見たとき、揺らぐことはなかったけれど。
 一。正直、嬉しいと、思ったのだ。
 角名は躊躇という言葉を知らないらしい。あと、加減という言葉も。さっきいい加減≠ニいう言葉を使っていたことは無視しておく。カーテンが千切れそうだからやめてほしい。そんなどうでもいいことを考えていないと、全部熱に持っていかれそうだった。
 抱きしめられた体が強張っているのが自分でも分かった。呼吸をするだけで必死。これが現実だとはとても思えなくて何度も瞬きをしてしまう。あと、背中、窓だから、正直怖い。割れたらどうするの。ぐいぐい押してこないでほしい。踏ん張るにも角名の力が強すぎて負けてしまう。
 わたしが余計なことをぐるぐる考えていることが伝わったらしい。角名の体が一旦離れた。それから、ゆるく両手を引っ張られる。思わず二、三歩前に足が進んでから、また抱きしめられた。さっきより少し優しい力だ。窓が割れるだのカーテンが千切れるだの、余計なことを考える必要がなくなって、ただただ角名の体温と腕の力だけを感じる。あと、心臓の音。意外と鼓動が速い。それはどう聞いても騒がしいものだろうに、不思議と落ち着く音だった。
 ちょっと。耐えられない。そう思って角名の腰をばんばん叩く。少しだけ体を離した角名が「ん?」と甘ったるい声で顔を覗き込んでくるからびっくりしてしまう。なんだその声と顔は。わたしそんなの、知らない。ゆるんだその腕から素早く抜け出すと、角名が優しい表情から一変して不機嫌そうな顔になった。

「まだ何かごちゃごちゃ考えてます?」
「べ、別に……」

 そろそろと視線を外してキッチンへ向かう。わたし夕飯食べてないからちょっとお腹空いたかも、なんて独り言をこぼしながら。そのあとすぐに角名が近付いてくる足音が聞こえて、どきっと心臓が高鳴る。角名も何か食べる? せっかく来てくれたしおもてなしくらいしますよ。そんなふうに無駄によく回る口。黙れ。自分で自分が恥ずかしくなった。
 角名に背中を向けたまま冷蔵庫を開けようとしたときに捕まった。冷蔵庫を乱暴に閉めつつ、後ろから抱きしめてくる。お腹が空いたとか喉が渇いたとか、わたしの言葉は全部無視される。わたしの首元に顔を寄せた角名が、触れる程度に唇をあてた。それからすりすりと頬をすり寄せた。

さん」
「……はい」
「好きです」

 耳をくすぐるような声に、とっくに熱くなっている全身がもっと熱くなる。感じたことがないそれが少し怖くて、ぎゅっと自分の手を握ってしまった。
 ふいに角名がわたしの肩を掴んだ。びっくりしている間にぐるりと体の向きを変えられる。すぐ目の前に角名の顔。ちょっと背中を丸めてくれてる。じっと見つめてくるその瞳に耐えられなくて、恐る恐る顔を背ける。でも、すぐに角名が追いかけてきた。わたしの顔を覗き込んで、二回瞬きをする。それから、ちょっとだけ乱暴に、唇が重なった。
 顔の向きが正される。肩を掴んでいた手が背中に回って、ぎゅうぎゅう抱きしめてきた。ちょっと苦しい。わたしとの身長差、分かってるのかな。思わず角名の服をぎゅっと握ってしまう。何してんだろ、わたし。後輩相手に。そう情けなくなった瞬間に、口をこじ開けられた。さすがに慌てて角名の胸元を押し返すけど潔いほどに無視された。
 苦しい、と思った頃合いに呼吸をさせてくれる。でも離してはくれない。自然と息があがってしまう。苦しい、けど、優しい。開けていた目を閉じた。このまま、ずっと続けばいいのに。そんな馬鹿みたいなことを考えながら。


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