「待って、、話したい」

 最悪だ。連日アイツと鉢合わせないように細心の注意を払っていたのに、ついに鉢合わせてしまった。職場から歩いてすぐの最寄り駅。まさか自宅以外でも待ち伏せをするなんて思っていなかった。完全に油断していた。
 話しかけてくるクソを無視しつつ歩く。電車に乗るのはやめて来た道を戻り、会社に向かおうとしたのだけど、さすがにこんなプライベートの問題を職場に持って行くのは情けない。会社を通り過ぎて、今は行く宛てはないまま大通りを歩き続けている。
 気色が悪い。詐欺女に捨てられたからってこっちに戻ろうとするなんて虫が良すぎる。わたしだったら恥ずかしくてそんな真似できない。よくこうも恥を晒せるものだ。見ているこっちが恥ずかしい。
 ビジネスホテルを見つけた。迷わず中へ入って、申し訳なかったけれどに男性のホテリエに声をかける。変な人に付き纏われて困っている、助けてください。そう頭を下げたらもう一人男性を呼んできてくれて、ヤツを引き離してくれた。警察に連絡しようか聞かれたけれど、さすがにそこまですると大事になってしまう。簡単に事情を説明して迷惑をかけたことを謝罪した上で、一室空いていないか聞いてみた。すぐに一部屋手配してくれて、女性のホテリエが案内してくれることになった。
 静かな部屋に一人きり。あーあ、何やってんだろ。その場に鞄をどさっと置いて、床にへたり込んでしまう。どうしてこうなったんだろう。わたしの人生。今頃アイツと結婚して、それなりに幸せな家庭を築いている予定だった。あんなことがなければ。
 鞄に入れっぱなしのスマホが鳴った。こんなときに誰だ。そう思いつつも、期待している自分がいる。きっと。もしかして。そんなふうに。画面を見ないまま電話に出て、スマホを耳に当てた。

「はい」
『あ、なんかへこんでますね。大丈夫ですか』

 角名だった。わたしが、期待した相手だった。ああ、助かった。少しは気持ちが軽くなる。どうしてなのかは分からない。分からないということにしておく。
 角名の言葉を遮って、高校時代の楽しかった話を勝手にはじめた。部活の合宿で双子が大喧嘩をしたときのこと。試合前に北が珍しくボケたこと。練習中に勘違いをしてアランと喧嘩しかけたこと。いろんな思い出を話していれば今のことはどうでも良くなる。わたしにとって高校時代の思い出はそういう、痛み止めみたいなものになっているのだ。
 ひたすらに笑った。ぐしゃぐしゃになっている顔を無視して。こんなことあったやんな。おかしいな。そんなふうに話すと角名はただただ聞いてくれる。ときたま相槌を打ったりエピソードに追加をしたりして。今日は楽しい日だ。お酒でも飲んじゃおうか。そう言ったわたしに角名が、静かな声で「あの」と言った。

さん。今、何かとても嫌なことがあるんじゃないですか』
「え〜? なんで?」
『昔のさんの話を聞くのも好きですけど、今のさんの話も聞きたいですよ。どんな話でもいいので』

 どうぞ、と角名が穏やかな声で促してくれた。目を逸らさせてくれない。今を見ろと優しく言われている。ああ、どうしても付き纏ってくる。それがつらくて、しんどくて、無理やり笑っていたというのに。

「角名さ」
『はい』
「もしもやで? もしもの話やでな?」
『はい、どうぞ』
「……わたしが今、会いたいって言うたら、どうする?」

 何を聞いてるんだわたしは。自分で呆れてしまう。でも、誤魔化すことはしなかった。今更誤魔化したところで角名は誤魔化されてくれないからだ。

『そんなの、会いに行って抱きしめるに決まってるじゃないですか』


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