――高校三年生、夏

 練習終わりにボトルを片付けていると、体育館の入り口から「さん」という声が聞こえてどきっとした。バッと顔を上げてみると、そこには先月付き合いはじめたばかりの彼氏。もう部活は終わったのだろうか。というかなんでここに。そうどぎまぎしながら駆け寄ると「もう少しで終わりそうやったから、一緒に帰りたいなと思うて」と照れくさそうに言われた。終わります。終わらせます。今すぐに。そうぶんぶん首を縦に振る。彼は恥ずかしそうにしつつも「ほな、正門におるね」と言ってそそくさと去って行った。
 ハッピーすぎる。あんなに真面目でかわいい人、よくわたしの彼氏になってくれたなあ。毎日そんなふうに噛みしめている。とりあえず急いでボトルを片付けることにした。まだ自主練で残る人たちにボトルがいらないなら渡すように促すと、同輩の赤木が「が彼氏と帰るではよせえ言うとるで〜」と大きな声で言った。その頭を空のボトルで叩いてやると「さっき来とったん彼氏やろ」とにやけてわたしの顔を指差した。

「やらしいわ〜。うちのマネージャーがやらしいわ〜」
「なんでやねん。変な言い方せんといて」
「ええなあ。俺も彼女ほしいわ〜」

 同輩たちに絡まれつつ、とりあえずいらなさそうな人のボトルを奪い取る。残りは自分で片付けてください。そう言えば「は〜い」とにやついた声がいくつか返ってきた。
 ボトルを洗いに水道へ向かうと、ぬっと顔を覗き込まれた。角名倫太郎。後輩だ。いまいちに何を考えているか分からなくて二人きりになることを少し避けてしまっていた時期がある。まあ、いわゆる苦手意識というやつだっただろう。ただ、それも少し前になくなった。熱中症になりかけてダウンしたところを気遣ってくれたことがきっかけで。

「何? ボトルもうもらわへんかったっけ?」
「いや、たまには手伝ってポイントを稼ごうかと」
「なんやねんそれ」

 角名はそのままわたしと一緒に水道のところまで来て、本当にボトル洗いを手伝ってくれた。珍しいこともあるものだ。角名はどちらかと言えば覇気のない後輩で、元気な宮双子やその他賑やかな後輩に混ざると一人だけ異質に見えることさえある。とはいえ悪い後輩ではないことは確かだ。特に嫌いというわけではない。ただ、こんなふうに手伝いをしてくれる印象は微塵にもなかった。
 まあ、何の気まぐれかは分からないけれど助かった。素直にお礼を言うわたしに角名は「素直なさん、レアですね」とけらけら笑う。失礼な。割と素直に生きているつもりです。そう肘で横っ腹をつついてやった。
 角名は話し上手な子だと思う。あまり二人きりで話したことがないというのに、ぽんぽん会話のネタを出してくれる。わたしに興味があるわけではないのだろう。それでもわたしのことを聞いてくれる。これは女の子にモテモテになるやつだ。こっそりそう思う。でも、角名って彼女がいるとかいないとか、そういう話題を聞かないから不思議なのだ。好きな子がいるとか、何組の誰それちゃんに告白されたとか、そういう話が一切ない。個人的には侑や治より女の子に好かれる性格だと思うのに。
 びゅうっと強い風が吹いて砂埃が舞う。思わずぎゅっと目を閉じて顔に手を当てる。びしょ濡れの手から顔に水が伝い、そこに砂埃がくっついてしまった。最悪。そう言いつつ目を瞑ったまま手で払うけれど、手についた砂埃が余計につくだけ。水道で洗ってからにしよう。目を瞑ったまま手探りで水道を探していると、角名が吹き出して「何してるんですか」と馬鹿にしてきた。

「いま目開けたら砂が入るやろ。笑わんといて。それよりきれいなタオルくれへん?」
「タオルないんでちょっとこっち向いてくれます? 砂だけ取ります」
「角名からスナ℃謔チたら倫太郎しか残らんね。倫太郎くんお願いしま〜す」

 ダジャレだ。何の他意もない冗談。目を瞑ったまま角名のほうを向いてこぼしたそれに、角名は笑わない。寒すぎて反応できませんって感じか。愛知県民には難しい笑いでしたかね。そんなふうにふざけて言っておく。自分が滑ったのを特定の県民のせいにしたことは反省しつつ。あと子どものころから死ぬほど言われている可能性もあるし、余計に反省だ。
 自分の笑いのセンスのなさを悔やみつつ、黙ったままの角名に「何?」と声をかけた。「いえ」と角名が呟いてから、そっとわたしの頬に触れる。優しくわたしの顔を撫でた指が砂埃に引っかかると、肌にほんの少し刺激が走る。ざらざらとした嫌な感じのやつだ。スクラブ入りの洗顔みたいな感じ。あれはやろうと思ってやるからいいだけで、これは不本意に起こったざらつきだ。不快感はどうしてもある。
 なかなか払いきれないらしい。角名はわたしの顔を優しく撫でつつ無言だ。面倒なら無理に取らなくていいし、タオルさえ持ってきてくれれば顔を水で洗うだけなんだけどな。そう苦笑いをこぼしつつ言うと、「もうちょっとなんで」と言った。結構面倒見が良いタイプなんだな。それも意外。ああ、確か妹さんがいるんだっけ。それで面倒見が良いのかもしれない。案外良いお兄ちゃんなのかな。そんなことを考えた。
 払い終わった、と言った角名の手が離れた。恐る恐る目を開けると角名の顔がまず見えた。角名はわたしのことをじっと見つめて、どこか、寂しそうに笑っている、ように見えた。


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