――高校三年生の夏、うだるような暑さにくらくらする。ゆっくり目を開けたその先に、どこか穏やかな顔をしている後輩がいたことを、どうにも忘れられずにいる。

 会社の飲み会終わり。お酒のせいでくらくらする頭を押さえて駅のホームにしゃがみ込んでいる。さすがに飲みすぎた。後輩ちゃんの寿退社祝いの飲み会だったこともあって羽目を外しすぎた。仲のいい子だから嬉しくてつい。人に迷惑をかけた記憶はないからとりあえずは良しとしておくけれど、今度からは気を付けよう。
 ゆっくり立ち上がって五十メートルほど先にある椅子を目指す。数人しかいないホームは、何かが過ぎ去ったような切なさが滲んでいるように感じる。電車が来るまではあと十五分。次が終電だから逃すわけにはいかない。とりあえず眠らないように気を付けつつ休憩だ。
 肩からずり落ちそうになるバッグを持ち直す。タクシーだと金額がまあまあするから電車を選択したけど、たぶんこれは選択ミスだったな。今更そんなふうに後悔してもどうにもならないけれどそう思わずにはいられない。まあ、とはいえお金がもったいないのでタクシーに乗るつもりはさらさらない。幸いにも明日は休み。最悪ここで終電を逃しても適当なビジネスホテルに辿り着ければどうにかなる。第一希望、帰宅。第二希望、ビジネスホテル。そう思ったら楽になれた。頑張れわたし。
 どうにか辿り着いた椅子に腰かける。飲みすぎ。やりすぎ。自省しながら頭を持ち上げ天井を見上げる。後輩ちゃん、幸せそうな顔をしていたな。ちょっとだけ羨ましかった。そう、一人で笑ってしまった。
 いい飲み会だったなあ。みんな笑っていて、食事もおいしくて、お酒もおいしくて。上司も先輩も同輩も後輩も、みんな楽しそうだった。わたしも楽しかった。調子に乗った先輩がカラオケでカツケンサンバを歌い出したときは全員大爆笑だったなあ。わたしも同輩と一緒に学生時代に大流行りしたアイドルの歌をダンスしながら歌って楽しかったなあ。
 楽しかったことばかり考えてしまう。嫌なことばかり見るより全然マシだと思う。でも、たまに、焦りを感じることがある。このままでいいのかな。わたしはずっとこうなのかな。そんなふうに不安にさえ思ってしまうのだ。
 ハッと目を開ける。楽しいことを思い出していたはずが、いつの間にか夢を見ていたらしい。こんな寒空の下で寝るとか。さすがに大人の女としてアウトでしょ。そう一人でけらけら笑っていると、とんとんと肩を叩かれた。びっくりして顔を上げると、懐中電灯を持っているおじさんがわたしを見ていた。え、誰? そう一瞬身構えたけれど、よく見てみればその人は駅員さんの制服を着ていた。

「お姉さん、もう電車あらへんで」
「……へ?」
「最終はもう十分前に行ってもうたで。悪いんやけど駅から出てくれへんかな?」

 あ、どうやら完全に眠っていたらしいです。第一希望は無事アウト、ということで。
 駅員さんに連れられて駅を出た。タクシーを呼ぼうか提案してくれたけれど、近くのビジネスホテルに行くと告げてぺこぺこ頭を下げながらその場を去る。だらしない女だと思われただろうな。まあ、その通りなんだけど。
 こんなわたしにも三か月前まで彼氏がいた。高校生のときから付き合っていて結婚秒読みだった相手だ。お互いの両親にも紹介していたし、彼氏の妹とは二人でお茶をするほど仲良くなっていた。それなのに、わたしは彼に振られた。他に好きな子ができた、と言われて。
 とても優しい人だった。高校生のときからどちらかというとおとなしいグループにいて控えめな性格だった。真面目な人だから先生にも頼られていたっけ。お互いはじめての彼氏彼女だったこともあり、最初は距離感を掴むことに必死。何をするにも相手の反応が気になって会話のテンポが変だったなあ。
 優しくて、おとなしくて、真面目な人だと思っていた。浮気なんかする人じゃないと無条件で信じていた。それが打ち砕かれたのが三か月前。仕事終わりに二人でレストランで食事をしているときだった。唐突にそういうお店≠ナ知り合った女の子のことを本気で好きになった、と言われた。相手の子も一緒になりたいと言ってくれている、とも。とても気まずそうな顔をして、ちっともわたしの顔を見ないままに。
 ああ、騙されている。そうすぐ思った。そういうお店≠フ女の子は誰にでもそう言うのだ。決して本気でそういうことは言わない。これからもリピートしてほしいから言っているだけに違いない。すっかり騙されているだけ。そういうお店≠ノ行ったことには目を瞑るから正気に戻って。そう彼に告げた。
 でも、聞く耳を持たなかった。あんなにきれいな心の子を信じられないなんて、とわたしが呆れられた。母親の病院代と生活費のために仕方なく働いている子なんだと力説された。あと五百万貯まればお店を辞められるからと頑張っている子なんだと語られた。誰が信じるか、そんなありふれたストーリー。信じるやつがいたらソイツは間違いなく馬鹿だ。ああ、だから、あなたは馬鹿なんですね。ただの一度もそんなふうに思わなかったよ、わたし。
 怒りはじめた彼はわたしへの不満をぶちまけてきた。いい歳してデートのたびに手を繋いでくるのが鬱陶しい。作る料理の量が多いし味が自分に合わない。化粧をしないからだらしない。そんなふうに細いところをたくさん言われた。
 好きな人と手を繋ぎたいと思って何が悪い。十年後も二十年後も、おばあちゃんになったって、わたしは相手のことが好きだったら手を繋ぎたいと思うだろう。料理は元々少なめに作っていたのに彼が「もっと食べたい」と言ってくれたから量を増やしたし、お腹が出てきたことを気にしていたからカロリーに気を付けた結果薄味になっていただけ。化粧はナチュラルにしているから薄いだけでしていないわけじゃない。よく見れば馬鹿でも分かるくらいにはしている。全部、そう言い返した。
 バンッとテーブルを叩いた彼が最後に吐き捨てたのは、ベッドでのことだった。反応が薄いし何をしても良くならないからお前とのセックスは疲れる。それに引き換えお店の子は気持ちいいと言って喜んでくれる、幸せな気持ちになれる。お前と違って女として魅力的だ。そう吐き捨ててレストランから一人で出ていった。
 それきりだ。着信拒否をされているしラインもブロックされている。繋がったところでよりを戻すつもりはない。ただ、アイツの家にある私物を送ってほしいだけ。ま、どうせもう捨てられているだろうけれど。どうでもいいや、もう何もかも。

「申し訳ございません。本日はすでに満室でして……」

 二軒目のお断りだった。週末は結構忙しいのか、ホテルって。繁忙期じゃないだろうと舐めていた。全国展開しているビジネスホテルが二軒とも満室。残るは、ここから歩いて十分のところにある、ラブホテルしかない。
 まあ、気持ちは死ぬけど野宿よりはマシだ。女一人でいいか確認して、もしだめだったときは諦めてタクシーだ。諭吉まではいかないにしてもそれなりにお札が飛ぶけれど。ため息をつきながら一人ラブホテルを目指して歩いていく。
 アイツと別れたあと、一応いい感じになった人がいた。今は退会しているジムに通っているときに出会って、軽く挨拶をする仲の人だ。向こうから連絡先を聞いてくれてちょこちょこ二人で会うようになった。爽やかだし良い人だし、もし好きになってくれたのなら嬉しいな。そう思っていたら告白してくれてお付き合いには至った。
 でも、体の関係を持つことができなかった。つまらないと言われたあの日を思い出してしまって。お誘いを三回お断りしたのち無事に振られた。当たり前だ。その人は決して悪くないとわたしは思う。
 もうしばらく恋愛はいいや。そう渇いた笑いをこぼしてラブホテルに到着。一人での利用を制限する記載がなかったので部屋を選ぶパネルを覗き込んだ。安い部屋は埋まっているけど、一つランクが上の部屋が空いている。ラッキー。ここにしよ。やけくそになりつつボタンを押して、部屋の鍵を受け取りエレベーターに乗り込んだ。


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