『ちゃんと食べとるか?』
『なんか変わったことあらへんか?』
『元気にしとるんやったらええで』
『兵庫は快晴や。そっちはええ天気か?』
『今日は寒いで気を付けてな』

 五年間、一週間に一度必ず入っていたメッセージは、全部そんなものだった。ときおり挟まる写真は空の写真だったり、バレー部での飲み会の写真だったり、田んぼの写真だったり。わたしが思っていたようなものは何一つなくて、ただただ、変わらない北だけがいた。
 言葉を失ったままスクロールしていって、ようやくここ一ヶ月のメッセージまで辿り着いた。飲み会来うへんのか、肌寒くなってきたで気を付けてな、今年もええ米ができそうやで。そんなメッセージの一番最新のものは、はよ会いたいわ、だった。
 スーツケースにいるものだけ詰め込んだ。ぱんぱんになったスーツケースの一番最後に、容器に移したお米をぐいっと押し込んだ。米袋はリュックに入れて部屋を出る。今日買った食品は仲良くしてくれた同僚たちに分けて無理やり押しつけた。社員寮を管理しているところに電話して退寮する旨を伝える。「三日後では?」と戸惑っていたけれど、「もう出ます」と何度も言った。置いていくものの撤去や処分にかかった費用は請求してほしいと伝えると、会社のほうに請求が行くとのことだった。退職金から引くなりなんなりしてくれ。投げやりな気持ちになりながら「五年間お世話になりました」と言って電話を切る。これまで一度も電話を取らなかった上司に自分から電話した。カンカンに怒っている上司がすぐに電話に出たけれど、物怖じせず「今までお世話になりました。部屋の処理費は請求してください。ありがとうございました」と一息に言ってやる。上司がうろたえている間に電話を切った。
 走った。走ってもすぐ着くわけじゃないけど。いてもたってもいられなかった。走って最寄り駅に向かい、電車に乗り、目的の駅で降りてまた走った。スーツケースを握る手が痛い。肩に食い込む鞄のベルトが痛い。それでも走った。東京駅で新幹線のチケットを買って、それに飛び乗るようにして東京を出た。どんなに急いでも、どんなに焦っても五年の月日は消えないし埋まらない。それでも、わたしは、急がずにはいられなかったのだ。
 新幹線の中で北が五年送り続けてくれたメッセージをもう一度全部見た。嬉しかった。嬉しさと申し訳なさと情けなさで涙が出た。隣に座っていた女性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれてポケットティッシュをくれた。恥ずかしい。でも、俯かなかった。「すみません」と笑ってティッシュを有難くいただいてから「嬉し涙なんで、大丈夫です」と答える。女性は少し目を丸くしてから笑って「それならよかったです」と言ってくれた。
 こちらからメッセージは送らなかった。ちゃんと、直接言わなくちゃ。そう思ったから。名古屋駅で一旦停車したときに通知が入った。北から。開いてみると「、今どこにおるんや」というメッセージだった。既読がついたことに気が付いたみたいだ。焦っているのが文面だけで分かる。心配してくれていたのだろうとすぐに分かって、内心謝る。それでもメッセージは返さない。そのうち北から着信が来たけれどそれにも出なかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 スマホのマップを見ながら歩く。のどかな風景が続いている道をまっすぐに。スーツケースはホテルに置いてきた。実家に帰ると母親がいる。まだ会う勇気がなくて結局ホテルを選んでしまった。情けない。でも、涙は出なかった。
 鞄には財布と少しの化粧品、ハンカチと新幹線でもらったティッシュ。それと、中身は容器に移したお米の袋。米袋の裏に生産者の住所が書いてあった。もちろん北の名前も。それを頼りにここまで来てしまった。もう夕日が落ちかけている。行ったところでいないかもしれない。連絡したほうが早いかもしれない。そうだとしても、ちゃんと会って言葉で伝えたかった。
 駅からバスに乗ってそれなりに近くまでは来たけれど、もう三十分以上は歩きっぱなしだ。バスの路線を間違えたかもしれない。というか降りる電車の駅を間違えたかもしれない。そう思いつつただただ歩いた。道は間違っていないはず。その証拠に黄金色が遠くで揺らめいているのが見えていた。きゅっと唇を噛む。急いでいた足を余計に急がせる。疲れてなんかいられない。こんな程度で五年間は埋まらない。
 九月下旬。生ぬるい風が穏やかに吹くと前髪が揺れる。頬を撫でるように優しいそれに励まされて呼吸をして、ただただ歩き続ける。馬鹿だったな、わたし。本当に。呆れられても怒られても仕方ない。どんな禊ぎが待っていても文句言えないなあ。
 きらきら光る稲穂。それが目の前に広がる。きれい。そうぼんやり思って、ふと、思い出した。はじめてのデート。初心者でも登れるような低めの山に登った。ほとんどハイキングだったあのデートで見た展望台からの景色。きれいという言葉以外何も出てこなかった。そのときと似た感情だ。風に穏やかに揺れる、垂れた稲穂。夕日に照らされて本当に宝石のように見えて、スマホをぎゅっと握った。ぎゅっと握ったその手を少し上げてカメラを起動させる。パシャリ、と一枚、写真を撮る。きれい。どこまでも澄んだ金色と柔らかな匂い。写真なんかでは分からないそれが、目の前であまりにも美しく呼吸をしていた。
 急いでいた足が、ゆっくりになる。この光景をただの景色として流せなかった。じっと食い入るように見つめながら歩いて行く。ゆっくり、ゆっくり、踏みしめる。音がほとんど何も聞こえない。静かな時間と静かな空気。心がゆるやかに凪いでいくのがよく分かる。深い呼吸をすれば心臓さえも凪いでいく。遠くのほうで鳥が鳴いたのが聞こえると、自然と顔がほころんだ。
 会いたい。本当はずっと会いたかった。でも、わたしが情けなくて、だめなやつだから。なんだか北の隣にいることに、勝手に気が引けて曖昧なまま逃げ出した。情けない自分を見られたくなかった。本当はずっとずっと、北に会いたかったのに。ずっと北に甘えてしまいたかったのに。素直にそう思えた。自分の気持ちに素直になればなるほど、凪いだはずの気持ちがまた大きな波を立ててしまう。揺れる稲穂を見つめて泣いた。せっかく我慢していたのに、結局だめだった。情けない。情けないけど、正直に生きたい。これからはもう嘘はつきたくなかった。
 風に涙がさらわれた。それを服の袖でこすって、視線を持ち上げる。あとどれくらい歩くだろう。そう稲穂の海から視線を道の先に向けたときだった。少し先の田んぼの隅に人影があった。中腰になって何か作業をしている。何をしているかは分からない。けれど、わたしはその後ろ姿を、明らかに、知っていた。止まらない涙をそのままにそうっと歩いて行く。ときおり顔を上げて汗を拭いているその人は、まだこちらに気付いていない。
 近くまで来た。何も聞こえていなかったはずの静かな時間はどこかへ吹き飛んでいく。うるさい心臓の音がわたしの中に響いて仕方ない。スマホを握る手が震えていた。声をかけられない。言葉が出ない。出て行くのは涙だけだった。
 ぱっとその人が振り返った。手を止めて、目を丸くして、じっとこちらを見ている。そのとき、ぶわっと強い風が吹いた。わたしが止めていた時間を動かしてくれるように、さらってくれるように。鼻をすする。その音にはっとしたように、北がようやく瞬きをした。そうして、なんだか困ったように笑った。
 きらりと光る金色。まるで宝石みたいに見えて、ああ、わたし、やっぱりこの人のことが、好きだなあと心から思った。

「なんやその顔。目になんかゴミでも入ったんか?」

 汗を拭いながら優しく笑って、軍手を外す。それをポケットにねじこんでこちらへ歩いてくる。一歩、一歩、一歩。まるでこれまでの時間を辿るように、昔へ帰って行くように。しっかりした足取りは昔から変わらない、迷いのないもので。それがとても羨ましくて、眩しくて。殺していたはずの気持ちが怖いくらい鮮明に光り出してしまう。

「あかんわ。俺、手洗ってへん」

 少し離れたところで立ち止まって照れくさそうに笑った。近くに水道を引いているところがあるとかなんとか言って、やけに饒舌に話し始める。「手洗ってくるわ」とふいっと視線をそらされて、まっすぐの直線から外れていこうとしてしまう。それを見たら、思わず、駆け出していた。手からスマホが滑り落ちたのもどうでもいい。鞄を道ばたに捨てたのもどうでもいい。全部どうでもよかった。
 歩いて行こうとする北の腕を強引に掴んで引っ張った、けど、バランスが崩れて転びそうになる。最悪、北まで巻き込む。そうきゅっと目を瞑ったけれど、どういうわけだか転ばずに済んだ。

「危ないやろ」

 そう笑って、北がわたしの背中をぽんぽんと軽く叩く。「服、汚してしもうたな」と言ってから、少しだけ、ぎゅ、と腕に力が入った。

「痩せたんとちゃうか。ちゃんとご飯食べてへんかったやろ」
「うん」
「顔色も悪いで。ちゃんと寝てへんかったやろ」
「うん」
「そらあかんなあ」

 そっと腕がほどかれた。その代わりに手を握ってくれる。その手があまりにもたくましくて、優しくて、余計にぼろぼろ涙がこぼれた。その手を弱く握り返して「ごめん」とようやく言葉が出せる。足りなすぎる。あまりにも足りない。そんな一言で済ませるつもりはなかったけど、今はそれでいっぱいいっぱいだった。
 わたしの言葉に北は笑って「何がやねん」と言った。ぼそぼそと連絡をしなかったこととか、何も言わずに地元を離れたこととか、いろんなことを謝る。もう取り返しがつかない五年間。何をしても埋められないけれど、それでも言葉を尽くした。べそべそと泣いたままで情けなかったけれど。
 最後に恐る恐る「怒らへんの」と聞く。怒られる覚悟だった。わたしが悪いのは明白だから。むしろ怒られて当たり前なのに。北はその言葉にも笑って「そうやなあ」と穏やかに言う。

「怒るより、会えて嬉しいっちゅう気持ちのが大きいわ。来てくれてありがとうな」

 ふと北が「でもどうやってここ分かったん?」と首を傾げる。涙を拭きながら北の手を引っ張って投げ捨てた鞄まで歩いて行く。北はハテナを飛ばしていたけれど黙ってついてきてくれた。鞄の中から取りだした、お米の袋。北はそれを見て「それ」と驚いたような声で呟く。

「近所の、スーパーに、売っと、った」
「なるほどな。スーパーの人に感謝せなあかんな」
「おいし、かった」
「はは、せやろ」

 近くに落ちていたスマホを北が拾ってくれた。わたしの鞄も持ってくれると「歩けるか?」と言う。頷くと「こっちや」と北が歩き始める。どこに行くのか分からないけれど、拒絶されなかったことが、何より嬉しかった。北はそろそろ収穫の時期だと嬉しそうに田んぼを見渡す。「きれいやろ」と誇らしげに言う顔が、やっぱり、一等特別好きだった。

「北」
「ん」
「わたし、北のこと、好きや。もういっぺん、付き合って、ください」
「いや、ずっと付き合っとるやろ。俺も好きやで」

 当たり前みたいに言う。北のせいでまた涙が止まらなくて、そのくせ北はずっと笑っていて。すれ違った知り合いの農家さんらしき人に「どないしてん、信介くん。泣かしてしもうたんか?」と笑われてしまった。

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