五年間、一体何をしていたのか。北にそれを一つ一つ説明した。正直に倒れたことも、入院したことも話すと、ようやく北が懐かしい真顔を見せてくれる。社員寮を出てこっちに戻ってきたことを話すと、「荷物こんだけなんか」と不思議そうな顔をされる。北は少し考えてから「ああ、実家置いてきたんか」と言ったけれど、首を横に振る。実家には帰っていないこと、ホテルにとりあえず置いてきたことを話す。ついでに実家に帰らない理由も、はじめて話した。北は黙って最後まで聞いて、わたしが話し終えると机に上に置いてあった車のキーを手に取る。

「ホテルどこのや?」
「え」
「荷物、取りに行くで」
「……なんで?」
「うち泊まったらええやん。ホテル代は出すで」

 びっくりしている間にホテルを聞き出され、車に乗り込み、駅前のビジネスホテルで北が諸々の手続きをしてくれた。わたしはスーツケースを部屋から持ってくると、北がすぐに持ってしまう。ホテルの人に「ありがとうございました」と北が言うので、わたしもぼんやり「すみません」と謝って、ホテルを出る。北の家を出てからあっという間にまた北の家に戻ってきてしまった。甘やかされすぎなのではないか。ちょっと申し訳なく思いつつ車から降りる。代金は先払いしてあるのだけど、車の中で北がずっと「俺がわがまま言うてチェックアウトさせたんやで」と言って何度も何度も金額を聞いてくる。さすがにそこまでは。意地でも金額は黙っておいた。
 スーツケースをひょいっと家の中に運び込むと、北が簡単に家の中を案内してくれた。いいの、かな。まだ罪悪感があるまま大人しく北の後についていく。最後に居間に戻ってくると「古いけどええとこやろ」と笑った。

「なあ、お願いあんねんけど」
「なに?」
「晩ご飯、作ってほしい」

 珍しい、と思った。というよりはじめてだ。北が何かをお願いしてくるなんて。そのお願いの内容がちょっとかわいくて、罪悪感とか申し訳なさで曇っていた気持ちがちょっと晴れた。笑ってしまいつつ「大したもん作れへんで」と返すと北は「作ってくれるんやったらなんでも嬉しいで」と言った。それに付け加えるように「やっと笑うてくれたな」と安心したように呟く。ずっと泣いていたから目の周りの涙が乾いてちょっと違和感がある。恥ずかしく思いつつ「ごめん」と言うと、北はなんでもないように「ええよ」と言った。
 台所を借りて、正直とても久しぶりの料理をした。北はずっと「これ切る?」とか「洗いもんはしとくで」とか、なんだかんだ手伝ってくれる。手際がいいとはもちろん言えないけれど、一応自炊していた経験はある。それなりのものができた、とほっとした。
 不思議な感じ。北とご飯を食べている。夢なんじゃないだろうか。昨日までの薄暗い自分の部屋がまぼろしのように消え去っていて、なんだかもう、いまいち思い出せないほどだ。北が何を食べても「おいしい」と言うから、照れくさくて。余計に夢なんじゃないかと何度もこっそり自分の腕をつねってしまった。

「夢みたいやなあ」

 北がそう呟くものだから驚く。わたしと同じこと思ってたんだ。ぼけっと北の顔を見つめるだけで何も言えない。北はそんなわたしを優しい眼差しで見つめ返して、表情をへにゃりとゆるませた。「夢なんちゃうか」と笑って自分のほっぺを軽くつねる。

「愛想尽かされてしもうたんかと思うとったから」
「……ごめん」
「ははは、謝ってばっかやな」

 食べ終わった食器を重ね始める。わたしも食器を重ねて持って行こうとすると、北がすぐにわたしの分も回収して台所に持って行ってしまった。慌てて後を追いかけると、思った通り洗い物をしようとしている。お邪魔している立場なのでそれくらいやるよ、と声をかけたけれど北は「ゆっくりしとき」としか言わない。何を言っても代わってくれなさそうだったので、置いてあったタオルで食器を拭いていくことにした。北が笑って「働きもんやなあ」と言いものだからなんだか気恥ずかしくて。うまく話せなかった。
 洗い物を終えると北が「風呂沸かすわ」と休むことなく居間から出て行ってしまう。まずい、すごくお世話されている。五年音信不通になったくせに突然会いに来てお世話されるなんて、とても、だめな気がする。何か手伝えることは、とそわそわ部屋をぐるぐる動いてしまうけれど、勝手に人の家のものを触るわけにもいかないし、どうすることもできない。どうにかしないと、と思っていたら、机の上に置いてある北のスマホが鳴った。スマホに目を向けて見ると、ロック画面にメールの通知が来ていた。内容は見ていない。けれど、ロック画面に驚いてしまう。

「あ」

 戻ってきた北が小さく声をもらしつつ、そそくさと机の上のスマホを手に取った。恥ずかしそうに「いや、ちゃうで」と言った。ちらりと見えたロック画面は、わたしのスマホにも保存されている、卒業式のときにとったツーショットだった。

「……と一緒に撮った写真、これくらいやったから」

 お互い写真を一緒に撮る、とかそういうことをするタイプじゃなかった。他の写真は部活で撮ったものだけだ。とはいえ、北はそういう写真を待ち受けにするタイプではないと勝手に思っていたから驚いてしまって。北の手にあるスマホを見てしまう。それに気が付いた北が恥ずかしそうにスマホをポケットにしまって咳払いをした。
 誤魔化すようにタンスからスウェットを出して「これくらいしかないわ」と渡してくれる。スーツケースに入れてきた服はパジャマにできそうなものはない。大人しくお借りすることにした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 はっと目が覚めると、深夜の三時半すぎだった。そうっと起きると、隣の布団で北が穏やかな寝息を立てて寝ている。起こしてしまわなかったようでほっとした。月明かりだけが室内を照らしていて、やわらかな色を落としている。静か。けれど、寂しくない。それにぎゅっと心臓が痛くなる。
 わたしは本当に甘えてしまっても良いのだろうか。北の優しさが怖いくらいで、ずっと呆気に取られている。情けない。そう小さく笑いをこぼして布団から出る。お水をもらおう。コップの場所は教えてもらったし、今日は月がとても明るいから電気を付けなくても大丈夫。起こすことはないだろう。そう、立ち上がろうとした。
 腕をぐいっと引っ張られた。びっくりして思わず少し声を上げてしまう。いつの間にか起きていたらしい北が、しっかりわたしの左手首をつかんでいた。体を起こしながら北は、少しだけ低いかすれた声で「どこ行くんや」とだけ言う。寝ぼけている、の、かな。聞いたことがない声にどきっとしてしまいつつ「お水、もらおうかと」としどろもどろ答える。けれど、北にはそれが聞こえなかったようで。起き上がって布団に座った北が問答無用で腕を強く引っ張ると、いとも容易くバランスが崩れる。そのままぎゅっと抱き留められると、もう身動きが取れなかった。完全に寝ぼけている。ふにゃっとした声で「どこ行くんや」とまた聞かれる。声はふにゃふにゃとしているのに、腕の力はしっかり入っている。
 あたたかい。北のにおいがする。静かに目を瞑ると北の心臓の音が聞こえた。規則正しいその音はゆっくりゆっくり眠気を誘ってくる。落ち着く。好きだなあ。一人でそう噛みしめていると、心臓の音が少し速くなった。あれ、と顔を上げると、明らかに目が覚めたらしい北が少し赤い顔をしているのが見える。

「……すまん、寝ぼけとったわ」
「そもそも起こしたんわたしやんな。ごめん」

 目は覚めたらしいけど、離してくれる気配がない。それに気付かないふりをして大人しくしておく。北はそっとわたしの髪を撫でるように手を動かすと、小さく息を吐いた。慎重に呼吸をしているように聞こえるそれに耳を傾けつつ、うとうとしてきてしまう。

「なあ、もっぺん約束してくれへんか」
「うん……?」
「もう黙ってどっか行かんといてな」
「うん、やくそく、する……」
「眠たそうな声で言われても信じられへんなあ」

 笑い声。ちょっと腕の力が強くなった気がする。たくましくなったなあ。ぼんやりとそう思っていると、口元がにやけた。ふふ、と笑い声がもれてしまった気がする。

「やっと抱きしめられたわ。もう離したらんで」

 家族のこととか、自分のこととか、いろいろ。抱えるものはまだまだ多くて、わたしは情けないままだ。それでも、何より一等特別な北がいるだけで、無敵かと思うくらい心が軽くなった。甘えてしまっているところが多すぎて情けないのだけど、それも北が許してくれてしまうから、心強くて。情けないままのわたしでもいいと言ってくれている気がして、ほっとしてしまう。

「朝になったらアランたちにも報告せなあかんな」
「……怒られそう。嫌やな」
「そらめっちゃ怒られるで。みんな心配しとったんやから。角名に話聞いたときもアラン怒っとったわ」
「角名?」
「会うたんやろ、駅で」
「……ああ、せやった、偶然会うたわ」
「あ、そういえばついにバレてしもたわ。俺とが付き合うとるって」
「ついにかあ」
「せやから侑たちにもちゃんと報告せなあかんわ。とちゃんと付き合うとるよって」
「どういう意味?」
「自然消滅やなんやってうるさかったんや」

 この前行われた飲み会での話を教えてくれる。五年も連絡が取れていないわたしと北は、もう自然消滅だとアランたちは言ったという。当の本人であるわたしもそう思っていたのだから、アランたちがそう言うのは無理ないことだ。それなのに、北は、まだ付き合っていると当たり前のように言ったという。「意地みたいなもんやったかもしれへんけどな」と笑った。それが、胸が痛くなるほど嬉しくて。ぎゅうっと北の服を掴んでしまった。小さな声で「ごめん」と今日何度目か分からない言葉を口にする。北は「せやなあ」と柔らかい声で言って、少し腕の力を緩めた。

「キスしてくれたら許したるわ」
「……めっちゃええ笑顔しとるけど」
「実はちゃんと怒っとんで」

 するりと頬を指で撫でられた。ぴく、と少し反応してしまうと「してくれへんの?」と北が面白そうに笑った。そんな悪い顔もするのね。ちょっと意外。そんなことをのんきに考えながら、北の真似をして頬を指で撫でてみる。つるんとしたきれいな肌は触り心地が良くてちょっと嫉妬してしまうほどだ。どんな手入れをしているか必ず教えてもらおう。
 そうっと顔を寄せる。一向に目を瞑る気配がない北に「目、瞑ってほしいねんけど……」と照れながら言ってみるけれど、北は「嫌や」とまっすぐな目で言うだけだ。そんな気はしていた。たくさん迷惑をかけた身なので文句は言えない。じいっと見つめてくる北の視線から逃げるように目を瞑った。そのままそうっと唇を重ねて、すぐに離れる。十分顔を離してから目を開けると、北が笑っていた。


「……うん?」
「おかえり。好きやで」

 「一緒に怒られよな」と言って、触れるだけのキスをした。それからぷつんと電池が切れたように、わたしを抱きしめたまま布団に横になると「あかん、もう眠いわ」とまたふにゃふにゃの声で言って、そのうち規則正しい寝息が聞こえてきた。夜更かしなんかしない人だ。五年経ってもそれは変わっていなかったようで、笑ってしまった。

「ただいま。好きでおってくれて、ありがとう」

 もう寝てしまっている北にそう言って、もぞもぞと体勢を整える。北、朝起きたら腕がしびれて動かせなくなってるんじゃないだろうか。そんな心配をしつつ、ゆっくり目を閉じた。
 起きたら全部夢でした、なんてことになっていないか不安だ。そう一瞬思ったけれど、北の確かなぬくもりが全身を包んでいる。ああ、現実なんだ。そう思うとこれまでのことが全部、この日のために必要だったんじゃないかと思えて、なんだかもう、どうでもよかった。
 ずっと抱きしめられたかったから、もうこれ以上何もいらないほど満ち満ちた。甘えてばかりの情けないわたしだけれど、力強い腕の力を感じたら全部溶かされたような、なんとも都合の良いふうに考えてしまう。ぎゅっと北にしがみつくようにして、一人で笑う。離さないでいてくれたら嬉しいなあ。どこまでもちゃっかりしてしまっていて情けないけれど。
 明日、アランたちに連絡した後、父親と姉に連絡しよう。できたら母親にも。話をしてみよう。どこかの地点で固まったままの時間が、少しずつ解けて動きはじめる。確かに動きはじめた時間の中で北は変わらずにいてくれたことが何よりも嬉しくて、やっぱりどうしても涙がじんわり滲んでしまう。好きだよ。ずっと好きだったよ。信じてもらえないかもしれないけど本当だよ。眠っているのに全然弱くならない腕の力が嬉しい。やっと抱きしめてもらえたなあ。そうにやけたり泣いたり忙しないまま、眠りに落ちた。

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