「もうお姉ちゃん見てられへん。帰っておいで」

 姉は妊娠して地元に帰っている。それなのに、わたしを心配して東京に来ている。学生時代、大好きだったはずの姉が、目の上のたんこぶになった。わたしのことをいつも気にかけてくれていた姉を拒絶した。それなのに姉は、誰よりもわたしを心配して、わたしのために泣いている。それがひどく、申し訳なかった。
 姉と姉の旦那さん、そして父親から説得されて会社を辞めることになった。上司に退職願を出しに行ったら怒鳴られて破り捨てられてしまって。それを父親に相談したら退職代行サービスというものを紹介された。それを利用して退職。社員寮はあと三日で退寮することになっている。
 情けない。会社を一人で辞めることもできないのかわたしは。そう思えば思うほど余計に体調が悪くなり、さらに落ち込む。悪循環。それ以外の何物でもなかった。上司から鬼のようにかかってくる電話。姉と姉の旦那さんに「絶対出るな」と言われているから出ないようにしている。着信拒否を姉がしようとしたけれど、元はといえばわたしが自分で辞められなかったのが悪い。そう言うと姉はきゅっと唇を噛んでいた。
 鳴り止んだスマホを手に取る。そうっと履歴を見てみると、上司や先輩、同僚からの電話が何件も入っていた。その通知の一番下に、三日前に届いたメッセージの通知がある。通知のアイコンをスライドして消しておく。メッセージの中身は、一度も見たことがない。一週間に一度必ず届く同じ人からのメッセージ。何が書かれているか確認するのが怖かった。たまに送られてくる写真が何かを見るのも怖い。こうやって五年、もうずっと逃げている。
 北、元気かな。そう小さな声で呟いてから、ぷっ、と笑ってしまう。元気に決まってんじゃん、あの北だし。そう静かに目を閉じる。今でもはっきり思い出せる。北の顔、北の声、北がバレーをしているところ、北が泣いたところ、北と見た景色。わたしがはじめて好きになった人。はじめてのキスも覚えている。じんわり瞼の間から涙が落ちそうになる。情けないなあ、わたしは。ごしごし目をこすりながらそう呟く。お別れを言うのが怖かった。いつか北から言ってくるだろうと思っているくせに、ろくにメッセージを開けないままの自分。もうとっくにフラれているだろう。だって、五年も連絡を取っていない。どこにいるかも言っていない。そんなやつを好きなままでいてくれるわけがない。きっと良い人を見つけて、幸せにやっている。そう信じている。でも、一度でいいから、思いっきり抱きしめられたかったな。そう思ったらぽたりと涙がこぼれていった。
 ちょっとだけ、元気が出た。北のことを思い出すと少しだけ元気が出る。ちゃんとしなきゃって思えるのだ。ぐちゃぐちゃになった顔を洗って髪を適当にまとめた。服を着替えて財布とスマホを持つ。まずは食事から。ここ最近ちゃんとしたものを食べていなかった。入院していたときに久しぶりに三食しっかり食事をした。温かいご飯を食べたのが久しぶりでうっかり泣いてしまったことを思い出す。看護師さんから相当呆れられたし、先生からも怒られた。ちゃんとご飯は食べなさい。そう言われたことをふと思い出したのだ。
 上京してきてしばらくの間は自炊をしていた。そのときによく行っていたお気に入りのスーパーに久しぶりに行くことにした。冷蔵庫の中は何もないし、外食に行く気分じゃない。久しぶりに料理をしたい気持ちもあった。家から歩いて十分もしないスーパーを目指して歩いて行く。久しぶりに顔を上げて歩いていると、ちょっと驚いた。とても呼吸がしやすい。これまでいつも息苦しくてたまらなかったのに。会社を辞めただけでこんなに気持ちが変わってしまうものなのか。そう純粋に驚いた。

「いらっしゃいませー」

 店員さんの声。久しぶりに来たスーパーは相変わらずいろんなものがあってちょっとわくわくする。このスーパーはちょっと変わっていて、普通のスーパーには置いていないような食材や調味料などをたくさん扱っているのだ。日本中いろんなところから取り寄せた食品をお手頃価格で買えるので、近所の人からも絶大な支持を受けているという。分かる。見ているだけで面白いんだよね。そう思いつつかごを手に取った。
 入り口付近には大きなPOPで「関西特集」と書かれており、懐かしい調味料や食材がずらりと並べられていた。今は関西をピックアップしているらしい。懐かしい、ちょうどいいタイミングで来たな。そう思うとついついいろんなものをかごに入れてしまう。何を作ろうかなんて考えていない。こんなに買ってもあと三日で寮を出るのに。そう苦笑いをしてしまった。
 ハ、と思い至る。お米買わなきゃ。うちにはお米なんて一粒もない。ちゃんと食べるならお米がないとはじまらない。スーパーのお米コーナーには実はあまり行ったことがない。お得に買える安いお米が置かれているところしか見たことがないからだ。今日は気分が上がっているので地元のお米でも買ってみようか。そう一人で笑う。不審者でしかない。きゅっと口元に力を入れつつ、お米コーナーを覗き込む。
 ずらりと並んだお米の袋。あまり銘柄を気にしたことがなくて、どう選べばいいのかよく分からない。でも、このスーパーはそんなお客に優しい。一つ一つの商品に説明が書かれたPOPが付けられているのだ。お米も同様だ。農家さんの紹介まで書かれたそれはコミカルな文章だったり堅い文章だったり、銘柄や農家さんの印象に合わせて説明が書かれていて面白い。一つ一つ読んでいくと、大阪の農家さんのお米や奈良の農家のお米が出てきた。地元のもあるかな、なんて思いつつ次のPOPに目をやった。

「……え」

 伸びた前髪が間抜けに目にかかる。瞬きを忘れて見つめる先には、北がいた。美しい黄金の稲穂を抱えて笑っている。少し焼けた肌以外は、わたしが知っている北のままだった。POPには「若い農家さんを応援! 堅実に真面目にちゃんと≠ィいしく育ったお米です!」と書かれていて、すでに何人かに買われていったらしく、手前側に少しスペースが空いている。
 農家、って、お米のだったんだ。間抜けにそう喉の奥で呟く。勝手ににんじんとか大根とか、そういう野菜を育てているのかと思っていた。思い起こせばそんなことさえもわたしは北に聞かなかった。卒業後のことはあまり見たくなくて、知らず知らずのうちに避けていたのかもしれない。北はそんなわたしをどう思っていたのだろう。今、どう、思っているのだろう。
 思考が停止したままお米の袋を手に取って、レジに並んだ。ぼけっとしたまま店員さんの問いかけにも上の空で答え、スーパーを後にした。重たい袋を持ったまま歩く。俯いた視線はわざとだ。なぜだかこぼれる涙が恥ずかしくて、人に見られたくなかった。
 家に帰ってすぐ、しばらく使っていなかった炊飯器を出した。お米のおいしい炊き方をネットで調べて、その通りに準備する。他の料理を作る気はもうなくなっていた。スーパーで見たPOPに貼られた写真が頭から離れない。自分から連絡を絶ったくせに、未だに忘れられないままでいる。北だった。わたしが好きになった北のままだった。それが嬉しくて、悲しくて、寂しくて、ぼろぼろ泣きながらお米を洗った。
 真っ白できれい。これが北が作ったお米。やっぱり北はすごいな。わたしなんかじゃ、やっぱり、釣り合わないね。鼻をすすって声に出して笑ってやる。これからどこに行っても絶対このお米を食べて生きていこう。そうすれば少しはちゃんとできるかもしれない。なんて、思いつつ。
 北の涙を思い出した。きらきらしていて美しかったあの涙は、今もきっと枯れていない。今もきらきらと美しいまま、北の中で光っているに違いないのだ。これまでの全部が滲んで透き通った涙。わたしの黒ずんで汚い涙とは天と地の差があるなあ。当たり前か、北は、すごい人なのだから。
 スマホを手に取る。恐る恐る写真フォルダを開いて、お気に入り登録してある写真を開いた。卒業式の日、大耳が撮ってくれた写真。数年ぶりに見た。楽しかったな、このころ。自然と溢れる涙に構わず、バレー部の写真を久しぶりに全部見た。みんな元気かな。侑はテレビでたまに見るし角名はこの前会ったけど、他の人は本当にぱったり会っていない。まあ、わたしのせいだけれど。どうしているのだろう。
 写真を見ている間に炊飯器のメロディが鳴った。知らない間に時間が経っていた。スマホを置いて茶碗を手に取る。なんとなく緊張して炊飯器の前に立って、そうっと炊飯器を開けた。久しぶりに見た温かい湯気。おいしそうなにおい。きらきら光ったお米が瑞々しくて、食べてしまうのがもったいないくらいだった。数年ぶりに持ったしゃもじでお米をよそって、そそくさとテーブルに戻る。正座をして静かに手を合わせて「いただきます」と言ってから、箸を握る。そうっと口に運んで、ゆっくり噛みしめる。甘い。噛めば噛むほど。一粒一粒がしっかりしているのに、そこまで粘り気がなくていくらでも食べられる。そんな、おいしいお米だった。
 ふと思った。北はすごい人だ。それは本当だし間違いないと思う。でも、わたしは北がすごい人だから好きだったわけじゃない。わたしにとって、北が、何よりも一等、特別だったのだ。北がたとえすごい人じゃなかったとしても、わたしにとって北は特別だった。このお米だってそうだ。おいしいことに間違いはない。けれど、わたしにとっては一等特別おいしいのだ。どうして特別になったかなんて分からない。気が付いたら特別だった。今も一等、何にも替えられないくらい、特別なんだ。

「……ちゃんとせなあかんなあ」

 しっかりご飯を食べ終えてから、一つ深呼吸する。鼻をすすって上を向き、涙を拭った。ちゃんとしなくちゃ。ずっとこのままじゃいけない。北に失礼だ。ようやく気が付いた。これまで本当に精神がおかしくなっていたのかもしれない。これから少しずつでも治していかないと。
 特別な人だからこそ、ちゃんと、言わなくちゃ。スマホを手に取る。これまでごめん、と伝えなくてはいけない。もう良い人が見つかっていたら無視して、と添えて。五年も放ったらかしにされて北はきっとうんざりしただろう。真面目な人だから、ちゃんと別れないとすっきりしないと思っていただろう。
 溜まりに溜まった北からのメッセージ。別れ話とか、いい加減にしろとか、そういうものに違いない。五年間ないがしろにしてきた罰だ。震える指先を無理やり画面に押し当てて、北とのトーク画面を開いた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「信ちゃん、休憩せんか」

 顔を上げるとばあちゃんがいつの間にかいて、ひらひらと手を振っていた。驚いて作業を切り上げつつ「来るんやったら迎えに行ったのに」と声をかける。ばあちゃんは笑って「運動がてらの散歩やで」と言った。じいちゃんは家で最近趣味ではじめたカメラいじりに夢中なのだという。そんなじいちゃんも二時間前に様子を見に来てくれたのだけど。笑いつつばあちゃんの荷物を持った。
 今年もきれいに稲穂が実った。ばあちゃんはそれを見渡して「きれいやねえ」と言ってくれた。二人でそれを眺めながら家に帰っていく。ばあちゃんはよく様子を見に来てくれる。俺が住んでいる田んぼの近くにある家から歩いて数十分のところに住んでいる。じいちゃんはその家から田んぼに軽トラックで来ていたそうだが、年齢のこともあって免許を返納した。うちに来るには歩いてくるしか手段がなくなったため、来るときは必ず連絡をしてほしいと言っているのだけれど。じいちゃんもばあちゃんもあまり連絡はくれない。歩いてくるものだから少し困っている。嬉しいけれど。

「こないきれいなお米作るんやで、信ちゃんはええお嫁さんもらえるなあ」
「またその話しとる。予定ないって言うとるやろ」
「そういやあ信ちゃん、好きな子おれへんの?」
「……おるよ。ずっと好きな子」

 ばあちゃんが目を丸くした。はじめて言ったから驚いているのだろう。ちょっと照れくさく思いつつ「フラれっぱなしやけどな」と笑っておく。ばあちゃんはしばらく驚いていたけれど、ふとした瞬間に穏やかに笑って「どんな子なんやろ、楽しみやなあ」と言ってくれた。
 家につくとばあちゃんが縁側にお茶菓子を用意してくれていた。「お茶淹れてくるでな」と言って、俺が止めようとするのも構わず台所のほうへ歩いて行ってしまう。甘やかされっぱなし。ちょっと反省しつつ縁側に腰を下ろす。これを食べたら作業に戻ろう。もう日が暮れるけど、何かしないと落ち着かない。
 ばあちゃんが用意してくれたお茶菓子。かわいらしいうさぎの形をしていたので、写真を撮って送っておくことにした。写真の善し悪しはよく分からない。今度じいちゃんに教えてもらおう。そう思いつつスマホで一枚。それからトークアプリを開いて、五年ずっと一方的に送り続けている上に既読がつかない相手の名前をタップして開いた、その瞬間。呼吸が止まった。

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