職場に復帰して数日後。終電間近にふらふらと駅を歩いていると、横を通り過ぎた人が黄色い声で「めっちゃ背高かったね」と話しているのが聞こえてきた。特に気になる会話でもない。気に留めないままに歩いていこうとした、瞬間。くんっ、と腕を引っ張られた。驚いて顔をそちらに向けると「うわ、顔色ヤバないスか」と、懐かしい顔があった。

「……角名やん」
「咄嗟に腕掴んじゃいました。すみません」
「いや、全然。久しぶりやな」

 角名は後ろを振り返って「先行ってください」と誰かに声をかけた。「ええん?」と聞くけれど「どうせこのままホテル帰るだけなんで」と言った。角名はバレーボールを続けており、立派に選手として活躍中だという。そんなことさえもわたしは知らなかった。仕事のことで頭がいっぱいで余裕がなかったんだよなあ。そう苦笑いしてしまう。
 合宿終わりで飲み会をしていたそうだ。なるほど、だからこんな遅くに駅にいるのか。そう笑うと、怪訝そうな顔の角名がじいっとわたしを見る。「で、さんは何してたんですか?」と言いつつ、明らかにその視線がわたしのスーツを見ているのが分かる。

「仕事帰りや。残業やってん」
「……日付変わってるんですけど」
「せやなあ。社会はしんどいもんやわ」
「というかさん痩せました? 少し、というかかなり。顔色も悪いし、何かあったんですか」

 若干狼狽えてしまった。まさかそんなことを聞かれるとは夢にも思わなかったし、何より角名がそういうところに目をつけるとは思わなくて。失礼なことを思いつつとりあえず笑って誤魔化しておく。最近ちょっと忙しくて。その言葉に角名は怪訝そうにしつつも「そうなんですか」と一応納得してくれたようだった。
 忙しいというのは本当のことだ。嘘は言っていない。休んでしまった一週間分の仕事が溜まりに溜まっていたから、ここのところずっと残業づめだった。とはいえ、繁忙期でもないのに妙に忙しい。何かと思っていたら、上司がわたしに多めに仕事を割り振っていたようで。どうやらよほど精神的病気での欠勤≠ェ気に食わなかったらしい。上司の逆鱗に触れてしまったのであれば仕方ない。ほとぼりが冷めるまで大人しくしておくしかなかった。

「バレー部の飲み会も一回も来てないですよね」
「あー、そうやな。行きたい気持ちはあんねんけど……」
「先輩たちみんな心配してましたよ。尾白さんとか大耳さんとか、北さんも」

 何気なく出てきた名前に一瞬呼吸が止まった気がした。角名は何の他意もなく言っただけだ。動揺すると変に思われる。無理やりへらりと笑って「そうやなあ」と返しておく。角名はわたしの返事に不満そうに「来週の飲み会、さん以外参加予定なんですけど」と言った。全員参加はかなり珍しい。思わず「え、全員?」と聞き返してしまった。角名曰く、いつもは角名自身を含めたバレーボール選手の面々、そして農家になった北は不参加になってしまうことが多いのだという。幹事を務める赤木と補佐の理石は「参加率が悪い」とよく嘆いており、選手になった面々が参加したときは鬼のように飲ませてくるらしい。
 赤木は一度も返信したことがないわたしにも、毎回飲み会の誘いの連絡をくれる。返信したことがない、というより既読をつけたことがない、と言ったほうが正しい。きっと怒ってるんだろうな、と笑ってしまう。けれど、今更、どんな顔をして会えと。赤木や他のみんなにはもちろんだけれど、誰よりも、北に。
 角名が「既読くらいつけてあげてくださいよ」と言う。飲み会で毎回うるさい、と角名がぼやいた。自分のスマホの画面をみんなに見せて回って「どう思う? ひどないか? 未読無視やで?」と絡みまくっているのだそうだ。それは申し訳ない。申し訳ないけど、今回も我慢してもらうことになりそうだ。

「……本当に何かありました?」
「ううん。何もないで。元気元気」
「いや、その顔色で言われても信用できないんですけど」

 曖昧に笑った角名が「まあ、元気ならいいんですけど」と言って、手を振ってくれた。現役バレー選手のファンサだ。そうからかってみると角名は恥ずかしそうに「試合見に来てください」と笑った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ちょお待ってほんまに、狭いって。どっか個室の店行きましょうよ〜」
「ええやんけ、いっぺん治の店で飲み会やりたかってん」
「うち居酒屋ちゃうんですけど」

 がやがやとうるさいおにぎり宮店内。全員雰囲気や立場は変わったが、相変わらずうるさいところは変わらない。それに懐かしさを覚えつつ、小さく笑ってしまった。隣に座っている大耳が「相変わらずやな」とおしぼりで手を拭きながら笑う。思うことはみんな同じだ。大耳に「そうやなあ」と笑い返した。
 適当に買い集めた酒やつまみを治が振り分けつつ、ふと銀島に「やっぱ連絡なかったんか」と声をかける。銀島は何のことか一瞬考えてから「あー、そうなんやわ」と苦笑いをこぼす。その会話に赤木が「やっぱそうやんな?!」と少し大きな声で割り込む。

「ほんまあいつ、どないしたんやろ。

 その名前にぴくりと耳が反応する。反応しないわけがない。そして、少し視線が俯く。そうか、まだ連絡が取れないのは俺だけじゃないのか。そう安堵したような、不安なような。曖昧なままもう五年が経った。大耳がこそっと「連絡、まだ取れへんのか」と聞いてくる。それに「おん」と苦笑いで答えると、なんとなく気まずそうに大耳が「そうか」とだけ呟く。それが聞こえていたらしいアランも「どないしたんやろ、ほんまに」と頭をかいた。
 赤木がため息をつきつつ「どこで何しとんのやろうな、元気やとええけど」と言う。その言葉に反応したのは角名だった。「え」と短い言葉だったが、タイミング良く静かなときだったせいで全員が角名を見る。赤木が「何か知っとんのか?」と角名に詰め寄ると「いや、というか」と角名はちょっと意外そうな顔をした。

「務めてる会社とか、勤務地くらいは知ってるものかと思ってたんですけど」
「知らへんよ。、何も言わんと地元出てったしな。見送りくらいしたかったわ」
「ええ……そこまで音信不通だとは……」
「ほんまどこおんのやろうなあ、
「え、東京にいましたよ」
「は?」
さん、先週会いました。偶然駅で」

 うるさい二年生たちの声が店内に響く中、俺や大耳、アランに赤木は黙りこくってしまう。瞬きを忘れて視線を下に落としたまま固まってしまう。東京にがいた。ちゃんと生きていた。それだけで少し安心しつつも、ぎゅっと拳を握ってしまった。アランたち三人の視線がこちらに向いてから、今度は角名のほうに向く。「いつ、どこでや」と尋問を始める。角名は三人の剣幕に押されつつと会った日のことをしどろもどろ話した。
 深夜の日付が変わった時間帯、残業終わりだというが駅にいた。角名はそう説明してから、ちょっと言いづらそうに「なんか痩せてたし、顔色も悪かったんで気になって」と付け加える。

「別人みたいに元気がなかったというか。俺、気を遣うとか下手なんでうまく話聞けなかったですけど」

 は高校時代から、変に難しく考えることが多かった。悩みごととか困っていることとか、そういうことは人に話さないし気付かれないようにしていた。でも、なんとなく感じ取れてしまって。進路のことを言いたくなさそうにしていたのも、せっかく部活が休みだというのになかなか家に帰らないようにしていたことも、何か理由があるのだろうと、分かってはいた。分かっていたけれど、聞いていいか分からなくて聞けなかった。
 高校三年の夏合宿。大きなガーゼを頬に貼ってきたを見て、正直悔しかった。はそれを「転んでしもうただけや。ドジで困るわ」と笑っていたけれど、嘘だとすぐに分かった。俺はにとって、そういうことを話せる相手ではないのだと、突きつけられた気がして。ひどく悔しかったことを今でもよく覚えている。どうすればの手をちゃんと握ることができるのか、考えても答えが出ないまま、時間だけが過ぎていき。の手をつかめないまま、はどこか遠くへ行ってしまった。宙をかく自分の手がひどく格好悪くて、未だにふらふらと落ち着かずにいる。

「ちょお、ごめん信介、もう俺我慢できへんわ」
「なんやねん」
「お前今のままでええんか?」
「え、なに、喧嘩ですか? 店内破壊されると敵わんので外でやってもろてええですか?」
「てか北さんなんかしたんですか? アランくん怒らせるとか珍しないすか」

 アランが俺をじっと見て「ええんか」ともう一度言った。ええんか、と、言われると。曖昧に笑って「なんやねん急に」と誤魔化してみるが、もう効かないらしい。大耳が「やめえや、信介に言うてもしゃあないやろ」とフォローしてくれるが、それも効かず。それに赤木も混ざってくるともう誤魔化すことは不可能だと思い知らされた。

「急に音信不通になって自然消滅とか俺は許さへんぞ」
「どういう立場やねん、尾白アランは」
「信介、お前も男やろ! 見つけ出して絶対ヨリ戻そうや!」
「え、ちょお待って、北さんとさんって、え?」
「いや、ちゅうか」
「なんや信介! 北信介とあろうもんがビビっとんのか?!」
「別れてへんけど」

 しん、と静かになる。アランは鳩が豆鉄砲を食ったみたいに間抜けな顔をしているし、大耳も目を丸くしている。赤木にいたっては飲んでいたビールを口からぼたぼたとこぼしていた。

「え、今なんて?」
と別れてへんって言うたんや」
「いや、五年連絡取れてへんのやろ?」
「せやけど、別れようとも別れてほしいとも言うてないし言われてへんで」
「……え、信介、お前、ほんまに言うとる?」
「何がやねん」
「ちょっと待って、説明してもらっていいですか。後輩全員フリーズしてるんですけど」

 角名がおずおずと手を挙げる。「え、つまり北さんとさんって、付き合ってたってことでいいんですか?」と聞いてきた。それに「現在進行形やけど」と返すと、赤木が「いやいや、いやいや……」とビールを机に置いた。頭を抱えて「北信介、愛がでっかすぎるやろ」と項垂れる。アランが淡々と、普通は連絡が五年も取れない状態なら自然消滅したと思うものだ、と言う。自然消滅。確かに、そう言われても仕方のない状態ではある。それは分かるけれど、俺はそんなふうに思っていなかった。
 ついにバレたとの交際を後輩たちが、いつかのアランたちみたいに「いつからですか」とか「どっちから告ったんですか」と恐る恐る聞いてくる。別に聞かれて困る話ではない。聞かれたことには正直に答えた。その話を聞き終わってから、治が「いや、普通に自然消滅したと思うてまう状況ですやん」と苦笑いをこぼす。他の後輩たちも恐る恐る「自然消滅っすねえ……」と言うものだから、笑ってしまった。そんな俺を見てアランが「精神が鋼すぎるやろ」とため息をつく。

「せやけど、俺は今ものこと好きやし、別れよう言われたんやったらしゃあないけど、言われてへんしな」
「俺、女やったら信介のこと好きになっとるわ……」
「俺も……」
「愛がでっかすぎるやろ……」
「ははは」

 スマホをポケットから出して通知欄を見る。今日も通知なし。それを気付いたときに確認しては、少し笑ってしまう。もう五年も待ちぼうけになっている。

「約束したしな、なんかあったら必ず連絡するって」

 一週間に一度、既読さえつかないにメッセージを送っている。「ちゃんと食べとるか」とか「今日は寒いで気を付けてな」とか、そういうのばかり。季節によってたまに田んぼの写真やきれいに実った稲穂の写真も送る。一つとして既読はつかない。それでも、一週間に一度必ず送り続けている。あまりこういうアプリなどに詳しくないのだけど、大耳曰くブロックされたりアカウントが削除されたりしたら分かるとのことだった。だから、いつか見てくれるかもしれない。そう思ってメッセージを送ることをやめられずにいる。
 あのとき、ちゃんと手を握っていればよかった。抱きしめて離さずにいればよかった。未だそんな後悔がたまに、胸に痛い。

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