「ヤバ、治の線香花火、秒で死んだんだけど」
「そんなんやからお前はいつまで経ってもサムやねん」
「ツムに言われたないわ」
「いや、お前ら死ぬまでサムやしツムやろうが」

 夏合宿最終日。ギャアギャアとうるさい中、申し訳程度の花火が行われている。あまりにうるさいので情緒もへったくれもない。まあ、それが稲荷崎っぽいといえばそうなのだけれど。騒いでいるアランたちの輪を、少し離れたところから座って見ている。その隣には真剣に線香花火と向き合っている北がいる。
 わたしの左頬には大きなガーゼが被されている。成績が少し落ちた。学年順位もギリギリ十位だった。それが母親の逆鱗に触れて「あんた今すぐ部活辞め。マネージャーなんかおってもおらんでもええやろ」と言われ、生まれてはじめて母親をぶった。先に手を出したのはわたしだ。わたしが悪いのは認める。それでも、謝る気にはなれなかった。伸びた母親の爪がわたしの左頬を引っ掻いたことで流血。仕事から帰ってきた父親が引き剥がしてくれたおかげで大事には至らなかった。まあ、その日から母親とは一言も口を利いていないのだけれど。
 ぽとり。北の線香花火が落ちた。わたしのはとっくに落ちている。「終わってしもうたな」と笑うと北はバケツの中にしっかりそれを捨ててから「今年で最後やな」と、馬鹿騒ぎしているアランたちを眺める。

は結局進学するん?」
「さあ、どうやろうなあ」
「……俺、もしかしてはぐらかされとる?」
「ちゃうちゃう。ほんまに分からへんの。ごめんな」

 とりあえず笑っておく。最近、曖昧に笑うことが増えてしまった。進学、就職。なんかどっちでもいい。そんな状態がずっと続いている。情けない。どうやらしっかり卒業後の道を決めているらしい北を前にすると、余計に情けなくて。できたらその話、しないでほしいなあ、なんて。

「……俺な」
「うん?」
「じいちゃんの跡、継ごうと思てんねん」
「……北んちって自営業やっけ?」
「じいちゃん、農家なんや」

 少し笑って北が話をしてくれる。ご両親に話したら少し反対されたのだという。けれど、しっかり話し合っていくうちに徐々に応援してくれるようになった、と嬉しそうに言った。おじいさんはもちろん大喜びだったし、おばあさんも泣いて喜んでくれたと、誇らしげに言った。
 すごいなあ。そうぼんやり思う。すぐ隣にいるはずなのに、すごく遠くにいるような感覚。やっぱり北はすごい人だ。わたしなんかには、もったいないくらい。自分の意見がなくて、どうしたいかが分からなくて、全部母親に当たってしまって。北はわたしの左頬の傷がどうしてついたのかを知らない。北だけじゃなくてバレー部の誰にも言っていない。適当にはぐらかしたけれど、どう思われているかは分からない。でも、どう勘違いされるよりも現実がよっぽど情けないに違いないのだ。適当に想像してくれたほうがわたしとしては有難かった。

「北はすごいなあ」

 ぽつりと呟く。それとほぼ同時に侑の馬鹿でかい「ギャー!」という叫び声とともに、ネズミ花火が暴れ出した。あまりのうるささに北が重い腰を上げる。「そろそろええ加減にせえや」と言いつつ侑たちに近寄っていくと、真っ先に角名が逃げた。逃げ遅れた侑と治が「すんません」と暴れ狂うネズミ花火の中、こんこんと説教される姿が面白くて。お腹を抱えて笑う。ああ、どうしてこの世に永遠はないのだろう。そう、こぼれそうになるものを飲み込んだ。
 しっかり説教し終わった北が戻ってくる。「片付けはじめるわ」と声をかけてくれたので、近くに置いてあったバケツを持ち上げる。すると、北がすぐにそのバケツを取っていってしまう。「あっちのバケツ、持って来てくれへんか」と指差したのは子ども用の小さいバケツ。やっぱり優しい。そう笑ってしまいつつ指示の通りバケツを手に取った。食べたものの片付けや花火の残りの片付けは他の部員たちに任せて、二人で少し離れた水道のほうへ向かう。
 ド田舎の山の中にある合宿所は、諸々いろんなものが古くなっている。ただの建物でも薄暗いところで見るとちょっと怖い。そんな不気味な雰囲気が漂う中を二人で歩いて行き、ろくに明かりもない中ゴミ袋に花火のゴミを入れていく。合宿、終わっちゃうんだな。そうちょっとしんみりしていると、「」と突然呼ばれた。「ん?」と手元に向けていた視線を北に向けた瞬間、ふに、と唇に柔らかいものが当たった気がした。

「…………え、今?」
「…………すまん」

 暗い中でも分かる。北の顔が真っ赤になっていた。無言でゴミの仕分けを再開する北をぽけっと見つつ、わたしも無言でゴミの仕分けを再開する。
 ファーストキス、だったんですよ。小声で呟いてみた。じわじわと顔が熱くなってきた。北は少し間を開けてから「俺もや」ととんでもなく小さな声で呟く。そんな北の声、はじめて聞いた。それが余計に顔を熱くする。あまりの恥ずかしさに北の脇を肘で突いてやる。「すまん」とまたもや消え入りそうな声で言った北は、少しだけ笑っていた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 終わった瞬間というのは、どうしてこうも、風とか匂いとか声とか。何もかもが遠くに思えてしまうのだろう。駅に向かうまでの空き時間。誰にも声をかけずに一人で体育館の外に出た。
 外にあったベンチに座って、ぼけっと空を見上げる。良い天気。一人でそう呟いてからまた口を閉じる。終わったんだなあ。実感がない。実感はないけれど、確かに終わってしまった。その事実だけが手中にある。
 俯いた瞳から、知らない間に涙がこぼれた。終わっちゃった。笑いながらそう呟いて、ずずっと鼻をすする。こんなところ選手には見られたくない。わたしは所詮マネージャーだ。悔しく思うのは選手なのに。やっぱり情けない。涙を絞り出すようにぎゅっと目を瞑って俯く。それでもなお馬鹿みたいに溢れる涙を袖でごしごしと拭いてやった。パシンと自分の頬を叩いてゆっくり目を開く。ジャージにぽつぽつと涙の跡がついてしまっていた。情けない。またそう自分で自分を笑って、前を向いた。

「どっか行くなら誰かに声かけてかなあかんやろ」
「……いつからおったん?」
が目こすっとったときくらいやな」

 ちょっとだけ笑って北がわたしの隣に座る。恥ずかしい。泣いているところを見られてしまった。ちょっと気まずく思っていると、北がわたしの顔を覗き込んできた。「なに」とちょっと睨んでみると「これでオアイコやなと思うて」と言う。オアイコ、とは。思い当たる節がなくて首を傾げてしまう。

「やけにしげしげ見とったやろ。俺が泣いたとき」

 そう言われてすぐに思い当たった。北がはじめてユニフォームをもらった日。ぼけっと北の顔を眺めてしまっていたのを、北は気付いていたのだろう。それはちょっと申し訳ない。別に面白がったわけじゃないんです。そう弁解しておく。「それは分かっとるわ」とけらけら笑ってくれたので安心した。
 冷たい風。頬を切るように痛いそれに思わず目を瞑る。北も同じように「さむ」と呟きつつちょっと身を縮こめた。

「……わたしな」
「おん」
「就職することにしてん」

 母親には大反対された。姉と同じか、それ以上の大学に入るように何度も言った。でも、わたし、別に勉強が好きなわけじゃない。何か学びたいことがあるわけでもない。そう淡々と言うわたしに、父親が「分かった」と言ってくれた。家を出たいことも、しばらく母親と会いたくないことも、父親がすべて受け止めてくれた。
 社員寮がある関東の会社に内定をもらった。母親は未だにそれを認めてくれないし、「もうあんたなんか知らへん」と言っている。それはそれでもう仕方がないことだと思っているし、逆にほっとした。自由になれた。そんな気がして。
 いつ、北に言おうかずっと悩んでいた。北はおじいさんの跡を継いで地元で農業をすると言っていたから、わたしとは遠距離になる。何よりも家族から逃げるように関西を出て行くことが情けなく思えて言えなかった。どんなふうに思われるかが怖かったし、とても堅実に人生を歩んでいこうとする北を前にすると自分が恥ずかしくて。

「関東のほうやから、なかなか会えへんくなるな」
「……そうか」
「ごめんな。ずっと、言わへんくて」

 北の前髪が風に揺れる。少し前まで汗で張り付いていた髪は、きれいさっぱり乾いてしまっている。熱気に包まれて赤らんでいた頬ももういつも通りの白い肌に戻ってしまっていて、それ、少し寂しい。色素の薄い北の髪が柔らかな光をきらきら反射させると、あの日の涙のようにきれいに見えた。

「約束してほしいねんけど」

 その言葉に目を丸くしてしまう。約束。北は今、約束、と言った。もう二度と会わない人だったり、もう二度と関わりたくない人と約束はしないだろう。つまり、これからも、北の人生にわたしがいてもいい、のだろうか。別れ話をされる覚悟だったわたしにとって、あまりにも突拍子もない言葉だった。

「お願いやから、一人で泣かんといてほしい。なんかあったら絶対、連絡してな」

 そう言って北はわたしの手を握った。ぎゅっと、力強く。それから苦笑いして「飛んで行く、とは言えへんのやけど」と言った。真面目。そうだよ、畑ほったらかしにしちゃだめだよ。大事なおじいちゃんの畑だもんね。北の手をぎゅっと握り返して「分かった」と笑って答えられた。

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