「お姉ちゃんは県内で一番の高校に行ったんやけどねえ」。数学のテスト中、母親の言葉を思い出してしまって、シャーペンをきつく握りしめてしまう。思い出すな。今思い出したって仕方ない。それに母親は別にわたしを蔑んで言ったわけじゃない、と、思う。ただ自慢の娘は姉というだけ。二つ上の姉。姉は、わたしにとっても、美人で賢くて優しい自慢の姉だった。子どものころは。
 地元で一番偏差値の高い高校に通い、名門大学へ入学した。そんな姉はいつしか、わたしにとってコンプレックスになっていた。あんなに大好きだったはずなのに、優しくていつでも気にかけてくれる姉が、煩わしくて。ここのところわたしにずっと「大学はお姉ちゃんと一緒のところ行きたいやろ?」と当たり前のように言ってくる母親が煩わしくなってしまって。勉強中やテスト中に分からない問題があるたび二人の顔が出てきて、どうしようもなく、腹が立つ。
 ぐっと力が入ったせいで、ポキッとシャーペンの芯が折れた。その瞬間にテスト終了を告げるチャイムが鳴る。先生が「後ろの席のやつ回収頼むぞー」と言い、周りから「終わったー」とか「だる〜」という声が騒がしく消えてくる。ああ、今日も最後まで解けなかった。あと二問だったのに。対策した範囲だったはずなのに。どうせまた母親がぼそりと言うんだろう。「お姉ちゃんは高校生のとき、こんな点数取ってきたことなかったんやけどなあ」。嫌になる。

「いまいちやったんか?」
「……二問解けへんかった」
「まあそういうこともあるわな」

 二年でも同じクラスになった大耳がテスト用紙を回収しつつそう言う。大耳も成績いいし、ちゃんと自主学習してるんだろうな。練習も忙しいのに勉強まで怠らないなんて、わたしには真似できない。それなりに勉強しているつもりだけど、いつもこうだ。
 姉に勉強で勝ったことがない。学年一位なんて夢のまた夢。一年生の期末テスト、これまでで一番頑張っても学年順位は六位だった。母親はとてもがっかりしていた。「来年はもっとちゃんと勉強せなあかんで」と苦笑いしていた。そのあとで言いづらそうに「成績、これ以上下がるようやったら、部活も考えやなあかんなあ」とため息をついていたっけ。
 回収したテスト用紙を先生に渡し終わった大耳がわたしの後ろの席に戻ってくる。大耳のほうを振り返って「なあ」と声をかけると、視線がこちらを見てから「ん」と返事があった。

「大耳って進路どうするん?」
「まだ二年やしそこまでしっかりは考えとらんなあ」

 大耳は考えるそぶりをしつつそう答えてくれる。そのあとで同じ質問を返してきた。まあ、そういう流れになるよね。分かっていたことだ。わたしも「ちゃんと決めてへんわ」と笑っておいた。本当のこと。ちゃんと決めていない。わたし以外の家族は決めたつもりでいるみたいだけれど。
 わたしと同じ悩みを抱える人なんてこの世にごまんといる。よくあるちっぽけな悩み。ちっぽけな苦悩。別に息苦しく思う必要はない。人生どうにかなる。そう分かっているけど結局割り切れない。

「バレー続けるとかは?」
「ああ、まあ、続けられたらええやろうけど。それで飯食うてこうとは思わへんな」
「え、そうなん?」
「バレーで飯食えるんは一握りや。それこそ侑とか治みたいなやつやろうな」

 大耳は愉快そうに笑った。わたしからすれば大耳だって十分すごい選手だ。けれど、宮兄弟、とりわけ侑の異質さには頷いてしまう。たしかに。一握りに入るのはああいう異質なやつに違いない。大耳は異質、というよりはすごい選手。その違いはなんとなく、分かってしまうらしかった。

「大耳はあれやな、市役所とかそういうお堅いとこで働きそうやな」
「はは。そうやったらええけどな。はなんやろうなあ」
「今のところ普通のOLになる予定や」

 二人でけらけら笑っているとチャイムが鳴った。休み時間はあっという間に終わってしまうものだ。次も英語の小テストか。嫌になる、けど、さっきよりは頑張れそう。そう思うと握りしめていた拳から、ほんの少しだけ力が抜けた。



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「難しい顔しとんな」

 いつの間にか視線がこちらを向いていたらしい。驚いて顔を上げると小さく笑った北が「そない驚かんでも」と言う。貴重な部活が休みの日。図書室に寄ってから帰ろうとしていたら北に声をかけられた。図書室で勉強していくと言えば北もそうすると言ったので、二人でこうして静かに勉強をしている。
 正直、わたしは家に帰りたくないだけだ。勉強がしたいわけじゃない。もともとそんなに勉強は好きじゃない。ただ、何かを言われることがストレスだからやっているだけ。そんなわけであまり捗っていないわたしに対して、北はすらすらと問題を解いていたしよっぽどわたしより真面目に勉強している。それを情けなく思っていたタイミングだったのでちょっとドキリとしてしまった。
 北はわたしのノートを覗き込んで「分からへんとこでもあったんか?」と聞いてくれる。優しい。それにお礼を言ってから「ちょっと考え事」と返しておいた。

「北は進路とかもう考えとんの?」
「えらい急な話やな」
「まあ……言うて来年受験やし、みんなどうするんやろうなって」

 堅実にしっかり物事を考える北のことだ。もうそれなりに将来のビジョンは描けているのだろう。良い大学に行くとかどうとか。兵庫を飛び出して関東に、とも思ったけれど、おばあちゃん子の北が地元を離れるイメージはない。この辺りの良い大学を目指すのだろうか。
 そんなふうにぼんやり考えていると北は少し考えてから「やってみたいことはある」とだけ言った。それが何かは教えてくれなかったけれど、北がやりたいというのだからきっととてもすごいことなのだろう。わたしなんかでは、どうこうできないような。
 「叶うとええな」と北に笑いかける。北もそれに小さく笑って「は?」と聞き返してくる。想像していた流れだ。大耳と話したときみたいに「まだなんとも」と誤魔化しておく。北は「普通はそうやろ」と言ってから、ノートに視線を戻した。
 きゅっとシャーペンを握り直す。本当は、少し考えていることがある。母親の意見なんか全部かなぐり捨てて、どこか遠くへ行きたい。誰にも比べられない、誰もわたしのことを知らないところへ。それこそ関西を出て行くくらいでいい。そうすれば、もう少しくらい自分に自信が持てるんじゃないか、なんて期待している。

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