〜もうお昼だよ〜。今更だけど仕事いいんだよね?」

 目を開けると、友達が笑っていた。「死んだかと思った」と言いつつお茶が入ったコップを渡してくれた。右手で受け取りそうになったわたしに「左手」と教えてくれる。申し訳ない。恥ずかしい気持ちになりながら左手で受け取った。
 友達はわたしと同じ接客業で、今日はちょうど休みだったのだという。わたしも休み、と言ったら「じゃなかったら困るわ」と笑われた。こんなふうに突然助けを求めたのははじめてだ。どうやら大目に見てくれているらしい。

「スマホ、鬼のように鳴ってたよ。充電切れそうだったから充電しといた」
「あ……ごめん、ありがとう」
「どうしたの。珍しくめちゃくちゃ飲んでたじゃん」

 友達がそう言ったと同時にまたスマホが鳴った。見てみると、三十五通目のメッセージ。秋紀からだ。「昼食べた? 大丈夫?」と来ている。どこまで優しいんだか。泣きそうになるのをぐっと堪えて、返信はしなかった。
 通知の一覧を辿っていくと、店長からもメッセージが届いている。「とりあえず明日も休んで様子見て。問答無用です」というメッセージとともにかわいいスタンプが届いている。昼まで二日酔いで眠りこけていました。本当に申し訳ない。がっくりしながら「すみません。ありがとうございます」と返しておいた。

「なんかあった? 仕事?」
「えーっと……彼氏……」
「お、珍しいじゃん。アキノリくんだっけ? 喧嘩?」

 わたしの隣に座りながら友達が笑う。軽く聞いている、という雰囲気をわざと作ってくれているのだ。わたし、そんなにひどかったかな。こっそり反省しながら一つ息を吐いた。
 この気持ちをなんと言葉にすればいいのか分からない。ただ、いつもいつも苦しくて、つらくて、胸が痛い。優しくされるたびに自分の情けないところがどんどん浮き彫りになる気がして、いたたまれなかった。もっともっといい人がいるのにどうして、と思う気持ちが止まらなくて、抑えられなくて。本当に情けない話だ。自分で呆れてしまうほどに。
 友達はわたしの話をじっと聞いて、ひたすらわたしの瞳を見つめていた。ときおり眉間にしわを寄せたり、ちょっと目を細めたりしているようだったけれど、一度も言葉は発さずに。そのおかげでわたしは自分の考えを整理しながらどうにかこうにか言葉にできた。
 と、いう感じで、別れようって言っちゃった。そんなふうに締めくくった。なんだか話していたらくだらないし、わたしが情けないだけのことだ。かといって明るい話でもないからおどけるしかできなくて。友達がどんな反応をするのかちょっと心配に思っていると「えー」と友達が、困ったように笑った。

「あたし、のこと好きだよ。あたしの話をいつも聞いてくれるし、否定したりとか馬鹿にしたりはしないけど、だめなことはだめって言ってくれるし」
「え、何急に。ありがとう」
「だから、あたしの好きな子のことをそんなふうに言われたら、悲しいなーって」

 わたしから目を逸らして友達が「うわ、はっず」と笑った。またわたしの顔を見ると「でも本当だよ」と言う。それから「それはアキノリくんも一緒なんじゃないかなーって思うよ」と呟いて、少しの沈黙。
 そう、かな。ぽつりとわたしが呟いたら、友達がわざとらしいへらっとした笑顔を浮かべる。「おいしいもの食べてぱーっと遊んだら、電話出てあげなよ」とわたしのスマホをちらりと見た。ずっと鳴っていた電話は彼氏からだと察したらしい。友達の、何でもない声色の言葉。それにちょっと元気が出た。素直に「うん」と返したら、友達は「それで良し」とわたしの頭を犬みたいに乱暴に撫でてきた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 夜まで友達はわたしに付き合ってくれた。二人で少し遠出をして、きれいな花を見た。何をするわけでもなくずっと歩いていたから足が痛い。それから、普段はちょっと入りづらくてやめてしまうような小さなカフェに入ってお茶をした。たくさん話して、たくさん甘い物を食べた。
 ずっとスマホは鳴っていた。電話もメッセージも。もうきっと通知が大変なことになるくらい。なんで諦めないんだろう。だって、わたしが勝手に捻くれて突然別れたいって言ったのだ。お前なんかもう知るかって投げ出すのが普通なのに。ずっと、ずっと、スマホは鳴り続けていた。
 別れ際に友達が「電話、出なきゃだめだよ」と言ってくれた。別れるにしても何にしても、ちゃんと話さなきゃ不誠実だよ、と諭してくれた。確かにその通りだ。わたしはほとんど何も話さないままなのだ。確かに、不誠実だね。また情けなくて笑ってしまう。
 でも、今日はもう遅い。もうすぐ日付が回ってしまう。秋紀は明日仕事だし、今日はあえて出ないほうがいいのかな、とか。ぐるぐるいろんなことを考えてしまう。今になって後悔している自分がいるけど、でも、間違っているとはなかなか思えなくて。
 秋紀の本心が知りたい。優しい人だから思うところがあっても言葉にしてくれない。きっと何度もわたしを面倒だと、嫌だと思う瞬間があっただろう。けれど、ただの一度も秋紀にそういうことを言われたことはない。そんなわけがないのに。
 情けないことに、家に帰ったら秋紀がいるかもしれない、なんて思ってまだ駅にいる。明日は仕事だから、無理して来るわけがないって思うのに。秋紀なら来るかもしれないって思う自分がいて。こんなぐちゃぐちゃな気持ちのままではうまく話せない。どうすればいいか分からないから、こうして逃げて隠れて。情けないなあ。そんなふうに俯いてしまった。
 鞄の中のスマホが震えている。取り出して見てみれば、やっぱり秋紀からの着信だ。今日何度目か分からない。ずっと出ない相手にずっとかけ続けている。今日はせっかくの午後休なのに。メッセージも着信も、ずっと鳴り止まないくらいで。余計に俯く。友達の言った通り、わたしはとても不誠実だ。秋紀はこうやって懸命に向き合おうとしてくれているのに。うまく言葉にできない上に向き合うことさえ怖くなってしまって。
 ぎゅっとスマホを握りしめる。うまく、話せなくても。不誠実だと思われて終わってしまうのは嫌だな。そんな自己防衛甚だしい気持ちがこみ上げる。笑ってしまう。最後まで自分のことばかり。鳴り続けるスマホを見つめて、一つ息を吐いた。自分のことばかりじゃだめだ。ちゃんと話して、ちゃんと聞いてもらって、ちゃんと話してもらわないと。今まで秋紀はわたしのことばかりを考えてくれたし優先してくれた。そんな人を、こんなふうにないがしろにしてはいけない。まだ鳴り続けてくれているスマホの画面に触れる指が、かすかに震えていてやっぱり情けなかった。

『もしもし?! ?!』

 息が切れていた。スマホを握る手の力が強くなりながら「ごめんね」と声を絞り出す。秋紀は「いや、全然、全然だけど、あの、話」とぜえぜえ言いながら言葉をなんとか繋げている。どうしてこんなに息が切れているのだろう。少し不思議に思っていると「今、どこ、家、いない、だろ」と途切れ途切れに言われた。
 秋紀は、電話に出ないし家にもいないわたしを、とにかく探し回っていたのだという。仕事はどうしても休めなかったから午後からだけだけど、と呟く。二人ではじめて行ったお店、わたしが好きなカフェ、二人で何度か行った公園、わたしが勤務しているお店。心当たりがある場所を走って回っていたのだろう。だからこんなふうに息が切れているのだ。

『本当、うざいのは承知で、本当、会って話したい、今どこにいる?』

 呼吸が少しずつ落ち着いてきた。秋紀は一つ咳をこぼしてから「すぐ行くから」と情けない声で呟く。その声に唇を噛んでしまった。

「あのね」
『うん?』
「あの、今話しても、ちゃんと話せないから、ごめん」
『いい、いいよ全然、話せなくていいから、とりあえず顔が見たいんだけど……』
「ごめん、明日まで時間がほしくて」

 精一杯だった。今すぐに会う勇気がなくてそう言うしかできない。秋紀は呆れただろうか。こんなに振り回しておいて明日まで待てなんて、と。言われても仕方がない。なんて言われるか俯いたまま待っていると、電話の向こうで秋紀の呼吸が揺れたのが分かった。
 小さく鼻をすするような音。その後で秋紀は落ち着いた声で「分かった」と言った。ほんの少しだけ笑っているように聞こえた。優しい声だ。呆れてもいないし、怒ってもいない。ただひたすらに優しい声。また、わたしは秋紀に優しくしてもらってしまった。それを申し訳なく思いながら、「明日、仕事終わりに行くね」と言う。来てもらうんじゃだめだ。わたしから行かなければいけない。秋紀は少し迷っていたけど、小さく笑って「約束な」と言ってくれた。


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