『ごめん、聞くの忘れてたんだけど、さんあの件どうかな、って』

 休憩時間に店長が電話をかけてきてくれた。怪我の具合を聞かれたので「全然出勤できます。本当にすみません」と大慌てで謝った。今日はわたしがラストまで出勤だったのだ。店長が代わりに出てくれているのだ。迷惑をかけてしまって申し訳ない。そんなふうに謝罪すると、店長は笑って「気にすんな〜」と茶化すように言ってくれて、ほっと息を吐いてしまった。
 店長が聞いてきたのは、新店の店長の件だ。今週中までに返事をして、と言われていた。まだ返事をできていない。早く返事をしたほうがいいに決まっている。これまでのわたしならそう焦ってこの場で返事をしていただろう。自分の意志ではなく、店長がなんと答えてほしいかを予想して。でも、それじゃだめだと、今は思えた。

「あの、やりたくないわけではないんですけど……もう少しだけ時間をいただけないでしょうか……」

 恐る恐るそう告げる。店長はちょっとだけ驚いたように「あ、うん」とだけ言った。早く決めなよって思われてしまった、だろうか。そう不安になる。でも、店長がすぐに笑った。「元々今週中でいいって言ってたしね。急かしてごめん」と。それから「いろいろ環境が変わっちゃうから悩んで普通だよ」と言ってくれた。そうして「お大事にね」と笑って、電話が切れた。
 ちゃんと伝わった。自分が思っていることをそのまま、しどろもどろ口に出しただけなのに。店長は嫌な声一つ出さずに分かってくれた。それが、嬉しかった。
 秋紀も、分かってくれるかな。優しくて、いつもわたしのことを考えてくれる。きっとどんなに話すことが下手でも、分かってくれる。解きほどいてくれる。秋紀はいつだってそうだった。そうじゃなかったときなんて一度もない。きゅっと握った自分の手の体温をしっかりと感じられた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 コツコツ、と階段を上る靴音がマンションのフロアに響く。いつもはエレベーターを使うのだけど、今日は息が上がっても汗をかいても、自分の足で階段を上りたかった。時間をかけてゆっくり。一歩一歩踏みしめて。
 わたしは確かに自分に自信がなかった。話すのが下手だからちゃんと伝えられない。だから、話すのが苦手。でも、それだけではないのだとふと気が付いた。わたしが怖いのは自分の気持ちをちゃんと説明できないことだけじゃない。ちゃんと伝えられないことと同じくらい怖かったのは、失敗だった。失敗してしまうことが怖かった。わたしの判断が間違いだったらどうしよう、わたしの選択のせいで失敗してしまったらどうしよう。いつもそんなふうに考えてしまっていたのだ。だから、新店の件に返事がなかなかできない。やってみたいと思う気持ちはあるのに、自分が了承したことで失敗してしまったらどうしよう、そんなふうに考えてしまうのだ。
 秋紀とのことも全部そうだ。このまま優しさにつけ込んで、甘えて、付き合い続けた先。情けない自分を抱えたまましがみついた果て。秋紀がわたしを嫌になってしまうんじゃないかと、フラれてしまうんじゃないかと。秋紀とのこれまでを、失敗という形で締めくくりたくなくて逃げたのだ。逃げて、結果、秋紀を傷つけてしまった。これだって失敗だ。ちゃんと話さなきゃいけなかったのだ。
 コツ、コツ。足音が止む。息が上がってしまっているのを、深呼吸をして落ち着かせる。一つ、二つ、三つ。そんなふうに心の中で数えてから、もう一度だけ大きく深呼吸をした。秋紀の部屋は手前から三つ目。もう何度も来ているからもちろん迷わない。また靴音を鳴らしながらドアに近付いて、真正面に向き合う。
 何が失敗で何か正解なのか。その答えを知っている人はきっとこの世にいない。分からないから、今自分が思うままに行動するしかないのだ。それは仕方のないことだし、思うままに行動しなければ嘘を吐いているのと同じこと。それはとても、不誠実なのだと思った。やっぱり一日時間をもらってよかった。混乱したままではきっとわけも分からず話していただけになっていただろうから。
 チャイムを押した。そのわずか三秒後にドアが開く。出てきた秋紀はなんだか泣きそうな顔をして、一瞬抱きしめようとしたのか両腕をわたしに伸ばした。けれど、それを慌てて止めてから「お疲れ」と噛みしめるように言った。無理やり笑って。わたしも無理やり笑い返して「お疲れ様」と言って、中へ入れてもらった。
 帰ってきたそのままになっている。秋紀は着替えずにスーツのままだし、鞄がソファの近くに置かれたまま。帰ってきてからずっと、待っていてくれたのだと分かる様子だった。

「何飲む? コーヒー?」
「ううん。何もなくて大丈夫だよ」
「遠慮すんなって。とりあえず淹れるから、気が向いたら飲んで」

 そう言ってキッチンに立つ。その後ろ姿を見ながらソファに腰を下ろした。秋紀、少し顔色が悪いように見える。もしかして、わたしのせいだろうか。やっぱりわたしは秋紀のことを考えられない自分勝手なやつだなあ。今更反省しても時間は巻き戻せない。
 これからのわたしが改心したとしても、人間の性格はなかなか治らないものだ。根本はきっと変われない。わたしが情けないことはきっと変わらないし、どんなに頑張ったって限界が来る。それは秋紀も同じだ。気持ちは無限じゃない。優しさにはいつか限りが来る。
 秋紀が机にコーヒーを置いてくれた。ミルクと砂糖も一緒に。それからわたしの隣に腰を下ろすと「元気そうで安心した」と笑う。やっぱり顔色が良くないし、目の下に隈がある。わたしのせいでごめんね。そんなふうに目を逸らしてしまった。そんなわたしに秋紀は「手、大丈夫か?」といつも通りの優しい声で言ってくれる。逃げちゃだめなんだった。また逃げてしまったなあ。情けなく思いながら、恐る恐る秋紀のほうを見直す。秋紀はそれに安心したような表情を浮かべて、にこっと笑いかけてくれた。

「あの……話を、聞きたいんだけど」
「……うん」

 これまでずっと秋紀をないがしろにしてきた自覚がある。優しくできていない。与えてくれたものに返せたものもない。仕事ばかりに気を遣ってしまっていた。そんな自分が情けなかったことや、そんな自分が嫌になること、いつか嫌になられてしまうのではないかという不安。そんなことを、ぽつぽつと言葉にしていく。言葉にすればするほど情けなさが浮き彫りになっていくようで、どんどん秋紀の顔を見られなくなってしまった。逃げるところも変わらない。これがわたしなんだなあ。

「秋紀が優しくしてくれると、わたしは何もできないのにって、なんだか、つらくなっちゃって」

 責任転嫁をするような言い方になってしまった。慌てて「わたしが悪いんだけど」と付け加える。わたしに優しくしてくれるのも大変だろうに、それでも秋紀は優しくしてくれたのだ。だから、その優しさを向ける相手がわたしじゃないほうが幸せなんじゃないかと、楽しい日々を送れるんじゃないかと、思って。
 視線を膝の上に落として、一つ息を吐く。うまく伝わっただろうか。言葉は難しい。ほんの少し声色が変わっただけで、たった一つの単語の印象だけで、相手の受け取り方ががらりと変わってしまう。わたしが思っている通りに口から出ていっても、相手の耳に入るときには色が変わってしまうことなんてしょっちゅう。それが最悪の結果を生む可能性だってある。だから、怖い。わたしは自分の考えを口にすることが怖いからずっと逃げてきたのだ。
 膝の上で握った手にじんわり汗が滲んだ。秋紀はまだ何も言わない。呼吸の音だけが密やかに響いて、わたしの耳に確かに届く。息遣いさえも好きだと思ってしまう。それくらいわたしにとって秋紀は大きい存在なのだ。そんなことを苦しく思えるほど実感した。
 息遣いが、ぐらりと揺れたように乱れる。鼻をすすった音。かすかに乱れた呼吸。びっくりして顔を上げて秋紀に視線を向けると、そこには、ぽろぽろと涙を流している秋紀がいて。言葉が出ないまま固まってしまう。わたしは、ひどいことを言った、のだと思う。優しくされてつらくなった、なんてひどい以外の何でもない。自己中心的。我が儘。贅沢者。そう非難されて当然だと思う。秋紀だってそう思っているだろう。傷つけた。大事な人を傷つけてしまうなんて、やっぱりわたしはだめだね。そんなふうにわたしも泣きそうになった。
 秋紀が無理やり涙を止めるように大きく深呼吸をした。それから口を開こうとして、もう一度深呼吸。きっと声が震えてしまわないように落ち着こうとしているのだ。わたしは怒鳴られたって仕方がないのに。やっぱり優しい。そう、つらくなる。
 ゆらりと揺れた秋紀の瞳が、しっかりとわたしを捉えたまま。ゆっくり動いた唇がやっぱり好きだな、と思ったら、苦笑いがこぼれてしまった。

「俺は、優しくしてるわけじゃない」

 その言葉に目を丸くしてしまう。だって、秋紀は付き合い始める前から今日までずっと優しい人だった。いつだってわたしのことをよく見ていてくれるし、些細なことでも覚えていてくれるし、気遣ってくれるし、怒らずに向き合ってくれる。そんな人のことを、優しいと言わずして、なんと言うのだろう。もう一度鼻をすすった秋紀の顔を見つめたまま、言葉が出せずにいる。

「優しくしてるわけじゃなくて」

 秋紀が視線を少しだけ逸らす。ぽろっとこぼれた涙を手で拭いながらもう一つ深呼吸をした。ゆっくり瞬きをして涙を出し切る。それから、また、わたしのほうをまっすぐに見つめてくれた。

「俺はのことを、愛してるんだよ」

 涙で濡れた秋紀の手がわたしの手を無理やり握る。ぎゅうぎゅう握られた手は少し痛いけれど、でも、嫌じゃなかった。だって秋紀の手だから。嫌なわけがないのだ。優しく握られるのも、強く握られるのも、秋紀だから嫌じゃない。それは昔から変わらない。

「優しいんじゃなくて、愛してるんだよ」

 見返りがほしいわけでも、同じようにしてほしいわけでもない。秋紀は鼻をすすりながらそう言った。ただ、愛しているから、勝手にしているだけのことだ、と。
 空気を震わせているのかと思うほど秋紀の息遣いをまた感じている。息遣いさえも好きだ。こぼれ落ちる涙がきれいだと思う。炎のように熱く感じる体温も、潤んだ瞳が光るのも、少し緩んだネクタイが揺れるのも、どうにか繋ぎ止めようとしてくれる声も、全部。すべてを好きだと思ってしまうことも、美しいと思ってしまうことも、きっと、愛しているからなのだろうと、わたしは思う。
 愛だった。仕事ばかりで時間を作れないわたしのために、無理やりにでも時間を作ってくれることも。自分だって疲れているのにわざわざわたしを迎えに来てくれることも。わたしが好きなものをたくさん知って、たくさん家に置いてくれることも。どんなに情けないことでも穏やかに聞いてくれることも。二人の時間に仕事の呼び出しがあるといつも謝ってくれることも。わたしの帰りが遅いと知ると必ず心配してくれることも。細やかな変化に気が付いて元気がないと気遣ってくれることも。いつもわたしのことを考えてくれることも、いつも先に謝ってくれることも。別れたいと言っても、別れてくれないこと、も。全部、愛だった。

「優しいだけでできるわけないだろ、これまでの全部」

 大きく息を吐いてから、秋紀が小さく笑った。ぽろぽろこぼれる涙はまだ止まっていない。それを「あー、ダサい。ごめんな」と恥ずかしそうに謝る。右手をわたしの手から離して、涙を乱暴に拭うと小さく俯いた。その右手がまたわたしの手を握ってくれる。
 ぽたりと落ちた涙に秋紀が慌てて「ごめん」と謝ってきた。あわあわしながらわたしの手を離して、近くに置いてある鞄を開ける。わたしが昔にプレゼントしたハンカチを出して「ごめん、びっくりしたよな。本当ごめん」と、優しく涙を拭いてくれた。自分の涙は手で乱暴に拭いたのに、わたしの涙は優しくハンカチで拭いてくれる。これも、愛なんだ。そう思ったら涙が止まらなかった。

「秋紀」
「うん?」
「わたしも秋紀のこと、愛してるよ」

 何もできないけれど、気持ちは本物だ。何も証拠になるものはないし、証明できるものはない。これまでの言動からしても信じてくれる人はいないだろうと思う。それでもわたしは、本当に、秋紀のことが好きだ。愛している。わたしなりに、何もできないなりに、怖がりながらも。
 秋紀は笑って「知ってる」とだけ言った。証拠も証明もないのに。信じてくれるのも、肯定してくれるのも、愛だった。余計に止まらない涙に、秋紀はもう慌ててはいなかった。

「じゃあ、あの、別れない、ということで」
「……うん。ごめんなさい」
「いい、本当に大丈夫、謝らなくていい本当に。いろいろごめん」
「ごめんね」
「いいって、本当。俺が悪い。ごめん。でも、正直ちょっと、生きた心地がしなかった」

 おかしそうに笑う。なんで秋紀が謝るのだろう。そう考えてすぐに答えを見つける。もうさすがに見失わない。そう思ったら、わたしもちょっとだけ笑ってしまった。
 秋紀がそうっと手を離してから、そうっと抱きしめてくれた。優しいけど力強い。これまでと変わらないけれど、なんとなく少しだけ違う熱を感じる気がした。わたしは今までこの熱に気付かなかったんだなあ。そう思うと、やっぱり情けない。でも、もう、それを、どうこう思う自分はいなかった。
 秋紀の真似をしてそうっと抱きしめ返すと、耳元で小さな笑い声が聞こえた。そのあとにまた息を吐く声。呼吸の一つ一つを確かに感じていると、素直に何もかもを感じられるようになっている自分に気が付く。

「わたしね」
「うん」
「言ってた新店の件、やってみようと思うの」
「いいじゃん。なら絶対大丈夫だよ。応援する」
「だからね、それが落ち着いたら」
「うん?」
「二人で旅行、行こうね」

 がばっと秋紀が勢いよく離れた。わたしの両肩を掴んで「本当?」と子どもみたいに嬉しそうに笑って言った。ちょっとびっくりした、けど、わたしも笑ってしまう。「うん。だから頑張るね」と返したら秋紀は「え、どうしよう、どこ行く?」と言いながらまた抱きしめてくれた。これまで計画してくれたところを当たり前のように覚えている。これまで計画してくれた場所を一つ一つ挙げてから、今度は今まで計画したことのないところも挙げていく。二人で行ってみたいと思っていたところを、わたしには言わずに頭に書き留めてくれていたのだろう。そう分かるくらいすらすらといろんなところを挙げてくれた。
 ああ、愛されてるなあ、わたしは。あまりにも幸福な確認をして、静かに呼吸をする。それだけでもう十分すぎるほど満ち足りている。わたしはこの人のことを本当に、心の底から愛しているんだなあ。秋紀にも伝わっているだろうか。聞かずとも自分で答えを導ける。秋紀が気付いていないわけがないよね。そう、笑いながら断言できた。


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