冷たい風を受けながら、大きなため息がこぼれた。全治二週間。そこそこの怪我だった。情けない。もう一つため息をこぼしたら、またしても冷たい冬の風がわたしを責めるように吹き荒れた。
 一番高い棚の、さらに高い位置に吊しポップをつけているときだった。店にある中で一番高い脚立を使って作業をしていたのだけど、ワイヤーを天井に付けようとしたときに、ワイヤーが脚立に引っかかっていたことに気付かなかった。ぐんっと予期せぬ力が加わり、そのまま脚立から落下。落ちたときに右手をついてしまい、骨は大丈夫だったけれど「絶対安静」と言われてしまった。
 店長が「店はいいから病院に行って」とわたしをお店から放り出した。結果を電話しなければいけない。電話をかけようとしたら先に店長からメッセージが入っていることに気付いた。内容は「電話はしなくていいから今日はもう休みなさい。診断結果だけメールください」というもの。気遣いの達人だ。申し訳ない気持ちになりながら、謝罪と診断結果を簡潔に書いてメールを入れておいた。
 出勤、は、できるかな。痛いけど動かせないわけじゃない。ラッピングとかはちょっと難しいかもしれないけれど、品出しやレジくらいなら、なんとか。休むわけにはいかない。店長からなんと返ってくるか、だなあ。迷惑をかけてしまっている。今日だって今の時間からラストまではわたしと店長二人だけだったのに。申し訳なくて俯いてしまった。
 明日もどうしよう。怪我でこんなことになっているのに、さすがにデートに行くわけにはいかない。秋紀にもなんて言おうか。情けない。だめだ。何をやっても、本当にだめ。未だに店長に新店のことも言えていないし、だめだなあ。そう落ち込みながら家路を急いだ。



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 利き手がうまく使えないのって結構大変だ。家で過ごしただけでそう実感した。着替えるだけで気を遣うし、食事も箸はちょっと痛いからスプーンにした。スマホは膝に置いて左手で操作するしかできなくて、いつもよりメールを打つのがとても遅くなっている。
 秋紀になんて言おうか迷ったまま夜になってしまった。さっきから秋紀とのトーク画面を開いて考えているのだけど、ストレートに怪我をしたからキャンセルで、と言ったら秋紀はどう思うだろうか。そう考えたらどうすればいいか分からなくて。手の怪我なら会えるじゃん、と思われるかもしれないし、実際その通りだ。ただわたしが気が引けているだけ。
 迷っている内に、先に秋紀から連絡が来た。その連絡を見てから「しまった!」と本当に声を出して叫んでしまった。秋紀、わたしが早退したこと知らないから迎えに来てくれてるんだ! メッセージには「終わった? 店長さんっぽい人は出てきたけど?」と来ていた。怪我のことの報告よりもその報告のほうが先なのに! 本当、わたしは馬鹿か! 半泣きになりながら大急ぎで電話をかけた。メッセージを打つよりそっちのほうが速いからだ。ワンコールですぐ出てくれた秋紀が「お疲れ。どうした?」とにこやかな声で言った。

「ごめん秋紀! わたし今日早退してて、もう家にいるの。 本当にごめん!」
『え、早退?! どうした? 体調悪いのか? 何か買っていこうか?』

 しどろもどろ仕事中に怪我をしたことを言ったら秋紀は「すぐ行くわ。夕飯食べた?」と言った。すぐ行く、って。明日も午前は仕事なんだから帰ったほうがいいよ。わたしは大丈夫だから。連絡忘れててごめんね。そんなふうに言ったら秋紀は「俺のことはいいから。怪我ってどれくらいの怪我? 骨は?」と矢継ぎ早に聞いてくる。
 俺のことはいいから、って、だめだよ。秋紀は秋紀のことを一番大事にしなくちゃいけないよ。どうしてわたしにばかり優しくして、自分には優しくしてあげないの。わたしなんか、秋紀を一番に考えられない、情けない彼女なのに。大事にしてもらえる理由がないよ。

「……秋紀」
『ん? 何食べたい? スプーンで食べられるやつがいいよな? カレーとか?』
「秋紀は嫌にならないの?」
『え? 何が?』

 わたしのこと、と絞り出した声で言ったら、秋紀は心底わけが分からないという声色で「なんで? え、どういう意味?」と苦笑いをこぼす。電話越しの秋紀の声は本当に困惑していて、ああ、鬱陶しいことに付き合わせてごめんね、と泣きそうだった。

? どうした? とりあえず今からすぐ行くから、』
「いいよ、大丈夫だから帰ってゆっくり休んで。ごめんね」
、本当にどうした? 何かあった?』

 教えてよ、と秋紀が優しい声で言った。子どもに言い聞かせるみたいに柔らかな声。いつからだろう。この声がこんなにもつらいのは。秋紀が優しくしてくれるたび、何もできない自分が情けなくて仕方なくて、首を絞められるような感覚がするようになったのは。

「秋紀」
『うん?』
「……別れよう」
『…………は?』
「今までごめんね」
『ちょっと待て、なんでそうなる? 今からそっち行くから、ちゃんと話を、』
「ごめん、わたし友達の家に行くから。ごめんね」

 秋紀の言葉を聞かずに電話を切った。すぐに折り返しの電話がかかってきたけれど、出ずに必要なものだけ鞄に詰めて家を出た。鳴り続けるスマホ。無視して友達に電話をかけると「久しぶりじゃん。どした?」と陽気な声。家にいるか聞いたら「いるよ。何?」と返事がある。鼻をすすって「急でごめん。泊めてほしいんだけど」と言ったら、友達は何か察してくれたようで「いいよ。お酒準備しとく」とあえて明るい声色で言ってくれた。
 つらい。とても、とても、つらかった。秋紀のことが好きだ。大好きだ。だから、優しくされるとつらかった。わたしのことばかり優先してくれる。わたしのことばかり見てくれている。もっとちゃんと自分のことを見なきゃいけないのに。わたしはわたしのことばかり見ているのに。秋紀の優しさを消費しているだけの自分がとても嫌いで、情けなくて、見ていられなかった。
 電話が止んだあとは、たくさんメッセージが届いた。「会って話がしたい」。「俺が何かしたのなら謝りたいから」。「友達って誰のこと?」。「家から遠いところじゃないよな? 夜だし危ないから場所だけ教えて」。「お願いだから、せめて電話に出てほしい」。「家には行かないから。電話に出て。お願い」。「ごめん。話したいから、本当にお願いします」。
 一方的に別れたいって言い出して、突き放して、そっぽを向いたのはわたしだ。秋紀はそれを怒ることはあっても、こんなふうに謝るなんておかしい。悪いのはわたしで、秋紀は何も悪くない。むしろめんどくさいやつだって吐き捨ててしまえばいいのに。
 友達の家は電車で三駅。駅についてしまえばすぐにつく。秋紀と鉢合わせる心配もないだろう。俯いて、鼻をすする。情けない。こんなふうに逃げることしかできないんだなあ。鳴り続けるスマホに唇を噛んで、痛い右手を無理やりぐっと握った。


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