頬にくすぐったい感覚があった。ゆっくり目を開けると、「あ」と声をもらした秋紀の顔。眠たい瞳をこじ開けているわたしに「おはよ」と照れくさそうに笑ってくれた。

「相変わらず朝弱いな。コーヒー飲むか?」
「ん……飲む……」

 もそもそとベッドから起き上がると、秋紀がけらけら笑って頭にかかっている布団を退けてくれた。それからくしゃくしゃ頭を撫でて、ぼさぼさになった髪を軽く直してくれる。朝はいつもこうだ。なかなか覚醒しないわたしの面倒を甲斐甲斐しく見てくれる。恥ずかしい気持ちになりながら一つ伸びをした。
 一つあくびをこぼしたわたしにコップを渡してくれた。受け取ってお礼を言うと「どこか行くか、のんびりするか。どっちがいい?」と隣に座りながら聞いてくる。秋紀は午後から仕事なんだからゆっくりしたほうがいいに決まっている。「ゆっくりがいいな」と答えたら「了解」とはにかんだ。
 わたしがもう一つあくびをこぼすと、秋紀が手を伸ばしてきて頬に触れた。あくびをして出た涙を拭ってくれたのだ。「疲れてるな」と苦笑いをこぼされたので「そんなことないよ」と返す。わたしなんか全然、疲れているうちに入らない。秋紀のほうが大変なんだから。そんなふうに言ったら少し微妙な顔をされてしまう。
 飲んでいたコーヒーのコップがなぜだか回収されてしまった。秋紀は自分の分も一緒に机に置いてから、くるりとこちらに体の向きを戻す。それから何も言わないままにぎゅっと両手で抱きしめてくるものだから驚いてしまった。嬉しいけど、こんなふうに急に抱きついてくることはあまりない。「どうしたの」と笑いながら聞くと、「うん」とだけ返ってくる。本当にどうしたんだろう。ちょっと心配になっていると、ぐいっと体が押される。そのままぼすんっとベッドに二人で寝転ぶと、秋紀が顔を上げてわたしを見下ろした。

「俺はさ」
「うん?」
「どんな些細な話でもちゃんと聞きたいし、教えてほしいって思ってるんだけど、だめ?」

 困ったように笑ってから頬を撫でてくれる。優しい指先。この人になら何をされてもいいって思うくらい好きな体温をしている。今も、昔も。
 わたしの話なんて大したことじゃない。秋紀に話すほどのことじゃないし、聞いてもらうような大それた話は一つもない。そう思っていても、秋紀がこんなふうに優しく聞いてくれるから、話してもいいのかなって思える。だから、ぽつりとこぼした。今度できるショッピングモール内の店舗で店長をやらないかと打診を受けている、と。大した話じゃない。やりたくなければ断ればいいし、そうじゃないならやればいいだけのこと。苦笑いをこぼして「ちょっと考えちゃってただけ」と付け足すと、秋紀はそっと抱きしめてくれた。

「すごいじゃん。、いつも責任感を持ってやってるから信頼されてるんだな」
「そ、そんなことはないと思うけど……わたしで大丈夫かなって不安で」
「うん」
「他にもっと、いい人がいるのにって……」
「うん」

 優しい相槌を打ってくれると、どんどん話してしまう。まだ入社して二年目だし、アルバイト歴が長いからって選ばれるのはちょっと変なんじゃないか、とか。経験もないのに突然売上が期待されている新店で店長をするのは不安だ、とか。それに、自分勝手だけれど、店長になったら今よりもっと休みが取りづらくなってしまうのではないか、とか。
 秋紀は最後の不安にだけは笑って「そうだな」と言った。それからぎゅっと抱きしめる力を強くして、頬を寄せる。朝のまだ温まり切っていない体がじわじわと熱を帯びてくる。秋紀はすごいなあ。いつもこうしてわたしに体温を分けてくれるし、絡まった糸をほどくようにそばにいてくれる。何も言葉はなくても十分なくらい、それだけで少し不安が和らいだ気がした。

、前に仕事好きだって言ってたじゃん」
「うん……仕事ができるわけじゃないんだけどね」
「好きになるのも才能だろ。仕事が好きなだけでもう十分だと俺は思うけどな」

 俺は好きなわけじゃないから尊敬する、と秋紀が苦笑いをこぼした。一般的に仕事が好きじゃないという人のほうが多いらしい。好きなものほど仕事にしたくないという人もいるのだとか。秋紀はそう言って「だから、好きな上に続けられるのはすごいことだって」と言った。
 顔を上げる。じっとわたしの瞳を覗き込んでから、優しくキスを落としてくれた。そうして、昔からずっと変わらない笑顔になる。「やりたくない、逃げたいって思わないならやってみたら?」と言った。きっと大丈夫だよ、とも。

「まあ……正直に申し上げますと」
「うん?」
「その店舗にが来たら、ものすごく嬉しいな〜っていう……下心がめちゃくちゃありまして……」

 秋紀はなんだか申し訳なさそうに、本当にごめんなさい、と言った。新店にわたしが異動になれば秋紀の家からかなり近くなる。引っ越すことにもなるから家同士も近くなる。今の職場と家の場所は秋紀の家からそれぞれ離れているから、かなり会いやすくなるのだ。わたしもそれは思った、けれど。そんなふうに言ってくれることが嬉しくて笑ってしまった。

「悩んでるのに自分のことばっかりで申し訳ない……」
「そ、そんなことないよ!」

 いつも秋紀が休みを合わせたり迎えに来てくれたりしなければ会えていない。秋紀がそういうふうに言うのは当たり前だし、何よりそう言ってくれて嬉しい。そんなふうに秋紀を抱きしめたら、「本当?」と不安そうに聞かれた。本当だよ。笑って返したら、ようやく秋紀も笑ってくれてほっとする。
 自分のことばかりなのはわたしのほうだ。いつもいつも、自分のことを考えてばかりで秋紀をないがしろにしている。とっくに愛想を尽かされてもおかしくないような彼女なのに、秋紀は優しい。一度も別れの危機はないし、秋紀がわたしに冷たくなることもないままだ。

「何かあったらできる限りで協力するし、応援するよ」

 こんなふうに、いつも背中を押してくれる。どんなことでもだ。わたしのことを考えて言ってくれているのが分かる。だから、いつも、胸が痛い。


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