休みを交代して、朝一から夕方までのシフトを終えた。お昼から来た店長に「お先です」と挨拶をしたら「さんちょっといい?」と声をかけられた。不思議に思いながら店内をパートさんに任せて二人でスタッフルームに入る。店長はまずはじめに「シフト変わったんだってね。ごめんね」と言ってくれた。それに「いえ」とだけ笑って返す。変わってほしい、と言われたら断りづらくて変わっただけだ。店長からお礼を言われることではない。
 店長はあの学生アルバイトの子はシフトの変更が多い、と苦笑いをこぼしつつも「でも辞められたら困るから、程々に付き合ってあげて」と言った。わたしも同じことを考えていた。だから「はい」とだけ答えておいた。

「ああ、それで本題ね。とりあえずここだけの話なんだけど」
「は、はい」
「来月、新店がオープンする話は聞いてるよね?」
「はい。新しくできるショッピングモールの中に入る店舗ですよね」
さん、そこで店長やってみない?」

 びっくりした。わたしは入社してまだ二年目の未熟者だ。他にもっと歴の長い人だっているのに、どうして。固まっているわたしに店長が笑って「本社の視察の人がさんがいいって推薦したんだって」と言う。余計に固まってしまった。わたしを推薦って、なんでだろう。可もなく不可もないどこにでもいる普通の店員なのに。
 店長曰く、元々新店の店長になる予定だった社員が、土壇場で断ったのだという。断った理由が急な妊娠だったこともあり、本社も話を白紙に戻したそうだ。おめでたいことだ。それなのに、空気の読めない男性社員が余計なことを言おうとしたらしい。それを女性社員が完全にシャットアウトしていた、と店長は笑って教えてくれた。
 もちろんもうほぼ決定していたことだったため、本社は大慌てだったそうだ。急遽各店舗で視察を行い、最終的にどうにかわたしに行き着いた、と説明された。

「学生の頃からアルバイトしてくれてて、本店の同期よりいろいろ詳しいしね。私もさんだったら大丈夫って答えてはあるんだけど……」

 新店は今の店舗からだと電車で一時間以上かかる場所だ。わたしは今住んでいる家はこの店舗に通うために引っ越したところだから、新店に行くとなると少し遠い。もし本当に新店で店長をすることになるなら引っ越しもしたほうがいいというわけで。引っ越し自体は問題ない、けれど。
 店長は少し慌てた様子で、ショッピングモールに入る店舗だからバイトも集まりやすいし、売上も出しやすいから心配しなくていいと言ってくれた。路面店と違っていろんな制約は面倒かもしれないけれど、その分ショッピングモールの運営サポートも受けられるし閉店時間をすぎても居座るお客様もいなくなるよ、と利点をたくさん挙げてくれる。

「来週中に決めてくれたらいいから。ゆっくり考えてみて」

 ぽん、とわたしの肩を叩いて店長が「急でごめんね」と言った。慌てて首を横に振ると、「でも本当、チャンスだよ。私はチャレンジしてほしいな」と笑ってくれた。その言葉に応えられずにいるわたしに「お疲れ様」とまた笑って、店長は店内に戻っていった。
 エプロンをロッカーにしまいながら、ぽつりと思う。新しくできるショッピングモール。秋紀の家が近いんだよね。今の店舗だと秋紀の家は少し遠いけれど、わたしが新店に行けば、終わってから会いにいける、かもしれない。でも、わたしで大丈夫なのかな。何より秋紀はそれを喜んでくれるかな。いろんなことが不安で、頭の中でぐちゃぐちゃになってしまった。
 コートを着ているときに鞄の中でスマホが鳴った。見てみると秋紀からのメッセージが入っている。「明日休みだったよな? 俺ちょっと遅くなるけど、もし気が向いたらうちにいてくれると嬉しいです」と来ていた。秋紀の家の合鍵は社会人になったと同時にもらっている。それに「分かった。待ってるね」と送り返して、スマホを鞄にしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 店を出て、電車で約一時間ほど。秋紀の家の鍵を鞄から取り出して、鍵穴に差し込む。簡単にガチャンと音を立てて鍵が開いた。真っ暗な部屋。入ってすぐに玄関の電気を付けると、見慣れた秋紀の部屋がようやく見えた。
 ちょっと散らかっている。小さく笑いながら、朝脱いだであろう服を拾い上げて畳んでおく。多分急に誘ってくれたのだろう。元々の予定より早く帰ることになったのだろうか。いつも家にお邪魔するときは片付いていることが多かった。散らかっているときは決まって急にお邪魔したときだけ。わたしが来るからと片付けてくれるのは嬉しいけど、案外こうやって散らかっている部屋を見るほうが好きだ。自然で、秋紀の部屋に来たんだなって思えるから。本人に言ったことはないし、これからも言うつもりはない。
 机の上に置きっぱなしになっている飲みかけのコーヒー。少し寝坊して遅刻しそうでも朝は必ずコーヒーを飲んでいる。片付ける時間もなくバタバタと出て行ったであろう光景が思い浮かんで笑ってしまう。すっかり冷めているコーヒー。それだけで秋紀のことを考えて、表情を思い浮かべてしまう。好きなのだから当たり前だ。だからこそ、俯いてしまう。
 台所に置かれている紅茶の箱。かわいいパッケージのコーヒー。コーヒーに入れる砂糖やミルク。全部秋紀は使わないものだ。紅茶は滅多に飲まないと言っていたし、コーヒーもいつも飲んでいるものはこのパッケージのものじゃない。コーヒーはブラックで飲む人だから砂糖もミルクも使わない。全部、わたしのために買ってくれてあるものだ。紅茶とコーヒーはわたしが家に置いているものと同じメーカーのもの。砂糖とミルクはわたしがたまに使うから置いてくれてあるもの。
 こんなふうに秋紀の部屋にはわたしが好きなものがいくつも置かれている。ソファに置かれているかわいいクッション。秋紀が買って少ししてからお邪魔したら「かわいいだろ」といたずらっ子みたいな笑顔を見せてくれた。「好きそうだなと思って」と言われた瞬間からこれはわたしのお気に入りになった。本棚の上に置かれているルームフレグランス。一緒に買い物に行ったときにサンプルがいい匂いだったから秋紀に「これいい匂いだよ」とわたしが言ったものだ。これまでそういうものは部屋に置いていなかったのに、ずっと同じものを買い続けてくれている。
 ちょっと見渡しただけでもこんなにある。秋紀の部屋なのに、わたしが好きなもので溢れていて、とても、胸が痛くなった。秋紀は優しいね。ぽつりと心の中で呟いて、小さく息を吐く。とても呼吸がしやすい。秋紀のそばは、本当に、呼吸がしやすいのだ。優しくしてくれるから。でも、それって、わたしだけなんじゃないかなって思う。わたしは優しくないから。
 コップに残っているコーヒーを流しに捨てて、コップを洗う。ずっと使っている見慣れたコップは、わたしが秋紀にあげたものだ。あげた、というか、割ってしまったお詫びに渡したものというか。家にお邪魔したときにコップを誤って割ってしまったことがある。似ているものを探して次に遊びに来たときに渡したら「いいのに」と笑っていた。それからずっと使ってくれている。
 きれいに洗ったコップを水切りかごに入れて、手を拭く。きっと夕飯は食べてこないだろうから何か作っておいたほうがいいのだろうか。聞いておけばよかった。少し後悔していると、スマホが通知を知らせていることに気が付く。見てみると秋紀からのメッセージだった。「あと一時間くらいで帰る。ご飯買ってくから!」というメッセージを見てほっとした。勝手に作らなくてよかった。空回りしてしまうところだった。そんなふうに。秋紀に「ありがとう。気を付けて帰ってきてね」と送り返しておく。こんな時間まで営業回りだったのか、バレーの練習だったのか。そんなことさえわたしは知らない。秋紀はわたしの休みの日や遅くなる日を聞いてくれるのに。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「ただいま!」

 玄関が開いたとほぼ同時にそんな声が聞こえてびっくりした。慌てて「おかえりなさい」と玄関を覗き込むと、秋紀がふっと優しく微笑む。それから二度目の「ただいま」を落ち着いた声で言ってくれた。
 職場の近くにピザ屋ができたのだという。買ってきてくれたピザを机の上に置きながら「あ、ピザだけで大丈夫か?」とちょっと心配そうに聞いてくれる。全然大丈夫。そんなふうに返しながらお茶の準備をする。晩ご飯にピザなんて大学生のときぶりかも。パーティーみたいでおかしいね。そう笑ったら秋紀も「楽しいかと思って」と笑った。たまには弾けた夕飯も楽しい。いや、秋紀となら、何だって楽しいのだけれど。
 秋紀が背広を脱いでハンガーに掛けると、そのままぐいっとネクタイを緩めてから外す。その仕草が好きでいつもこっそり見ている。秋紀はどうやら気付いていないらしい。何かを言われたことはない。ネクタイを背広を同じハンガーに掛けてからこっちに戻ってきた。いつもお風呂に入ってから着替えるから見慣れた格好だ。高校生のときを思い出して少しだけ懐かしい気持ちになる。

「重大発表です」
「えっ、何? どうしたの?」
「なんと明日、午前休を取りました」
「え……そ、そんなの急に取って大丈夫なの……?」
「大丈夫なの。そこそこ成績いいんですよ、秋紀さん」

 にこにこと何でもないふうに言う秋紀に、きゅっと自分の手を握りしめてしまう。わたしは接客業しか経験がないからよく分からないけど、友達で営業をしている子はいる。ほとんどの子がまともに有休が取れないと嘆いていたし、急な予定が入ったらいつも困っていた。
 本当に、大丈夫なのかな。負担になっているのではないだろうか。秋紀はそういうのを隠すのがうまい。鈍感なわたしは何も気付けないまま優しさに甘えてしまっているかもしれない。
 秋紀がわたしの顔を覗き込んだ。ピザを片手に持ったまま「えっと……」とちょっとだけ落ち込んだような声を出した。

「俺、余計なことした……?」
「えっ?! どうして?!」
「なんか微妙な顔してるから……一人で浮かれてすみません……」

 そう言われてしまって当たり前だ。彼氏が休みを合わせてくれたのだから喜ぶのが普通。慌てて「嬉しい、本当に嬉しいよ」と言うと、秋紀は「え〜本当かよ」とちょっと拗ねてしまった。
 恐る恐る、大丈夫なの、と聞いてみた。わたしにばかり合わせてもらって申し訳ないとも。秋紀はわたしの言葉に目を丸くして少し考えてから「まあ、全然大丈夫ってわけではないけど」と苦笑いをこぼす。やっぱりそうだ。無理をして合わせてくれている。ごめん、と言おうとしたわたしより先に秋紀が「でも」と笑って言った。

との時間を確保するためならこれくらい何でもないよ」

 秋紀が一口食べたピザを指差して「これ、絶対好きな味」と言う。食べてみたら秋紀の言う通り、わたしが好きな味のものだった。
 情けない。わたしも、秋紀との時間を作るためなら何でもないことだ、って思えればいいのに。なんで思えないんだろう。思えない、というか、行動に移せないというか。いつも言おうとしたら喉の奥がきゅっと締まって言えなくなってしまう。だめなやつなのだ、わたしという人間は。


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