「これ、落としましたよ」

 そう笑って渡してくれた女性は、どこにでもいるようなOLさんだった。 そのときは「あ、すみません。 ありがとうございます」とだけ返してイヤホンを受け取り、特に何もないままに女性とは別れた。 あの人が拾ってくれなければまた数千円だして新しいイヤホンを買うところだった。 そのことに感謝はすれど、女性に対して特別な気持ちを抱くことはなかった。
 次の日の朝、通勤のために電車に乗ると少し離れた場所にイヤホンを拾ってくれた女性が見えた。 あの人もいつもこの時間に乗るのか、と思ったくらいで特に何もない。 分かるのは座席に座っているところからして、俺よりもずいぶん前の駅で乗ったのだろうということだけ。 大体俺が乗る場所からだと座れる確率がほぼないので少し羨ましい。 それくらいのことだった。
 その次の朝も女性と同じ車両に乗っていた。 恐らく並ぶ場所がお互い同じ車両になるのだろう。 今日も座席に座っている。 羨ましい。 そんなふうにぼけっとしていると、女性が急に立ち上がったのが見えた。 まだ駅についていないのにどうしたのだろうか。 横目で見ていると、女性はお年寄りに席を譲っているようだった。 この前は俺のイヤホンを拾ってくれたし、やっぱり良い人なんだな。 好印象ではあったけど、特別な感情はなかった。
 一週間のうち、女性と同じ車両に乗るのは三回か二回だった。 そのうちの必ず一度は女性が人に席を譲っている姿を見た。 そんな姿を見て「良い人だなあ」と思うたび、それが積み重なって行って、気付けば同じ車両に彼女がいないかを探すようになっていた。 そうして彼女が良い人だと思うたび、彼女に対して好意を抱いていくことに気が付いた。 自分だって仕事へ向かっているのだから気持ちが乗らなかったり疲れていたりするだろうに。 にこにこと笑って、お年寄りや体の不自由な人に積極的に声をかけている。 そんな姿が、俺には、とても健気で素敵な人に見えてしまった。
 彼女の名前が知りたかった。 話すきっかけがほしかったけどそう思うたびに、そんなナンパのようなことをすれば彼女は怖がるだろう、と思った。 知らない男に話しかけられるだけで怖いだろうに、背の高い表情があまり出ない男なんてもっと怖いはずだ。 しかも毎朝あなたのことを見ていて、なんて言われたらストーカーだと思われるかもしれない。 なんとかして自然に彼女と知り合いになれないだろうか。
 そんなふうに悩んで二年程。 帰りの電車でも彼女と乗り合わせることが数回あるようになっていた。 決して、断じて、俺が彼女の帰宅時間を調べて合わせたわけではない。 本当に偶然、何度かいっしょになったのだ。 ……そこからは故意に時間を合わせたことは、ないとは言えない。 けれど、ストーカー行為と言われることは断じてしていない。 ……言い訳はこのくらいにしておく。
 彼女と帰りの電車でいっしょになったとき、何度かいっしょにいるところを見た女性と二人でスマホを見ていた。 そのときは割と近くの席にいたので会話の内容が聞こえたのだけど、その会話の中で「イマコイ」というアプリの名前を聞いたのだ。 自分のスマホを取り出して調べてみると、マッチングアプリというものらしく、男女が出会うのを手助けするアプリだと知った。 彼女の友人が勧めたようだと様子を見て察する。 これを使えば、彼女と自然に知り合えるのではないだろうか。 彼女はすでに登録していることは分かっている。 それに、これだけいっしょの電車に乗り合わせていると、友人との会話がこうして聞こえてきたりするので名前はもう知っていた。 彼女を見つけるのはそう難しくはないにちがいない。 そう思ってアプリをダウンロードし、登録作業をしていたときだった。

「年下はちょっと」
、年上が合いそうだもんね」

 その会話に少しショックを受けた。 彼女の年齢まではさすがに知らない。 ただ、自分より年上か、同い年くらいであろうことは分かる。 俺が彼女を見かけるようになったのは二十四歳のとき。 朝の通勤中、彼女が資料のようなものを見ている姿を何度か見た。 その様子がなんとなく新入社員ではない、と感じたのだ。 もしかしたら一つ下とかかも、と期待も持てるが登録してからの判断では遅い。 明らかに年上の設定にしておいたほうがいい。 そう思い、実年齢より五歳上にサバを読み、登録した。 そこから三十一歳という設定になったわけだ。 三十代ということはないだろうから、これで確実に年上の男性、というふうになったはず。 もし、万が一、彼女と実際に会えて、お付き合いに発展出来たりしたときに謝ろう。 そう心に誓った。
 彼女を見つけたときは心から安堵した。 アイコンに使われているキーホルダーで分かった。 これは彼女が鞄につけているもので間違いない。 ユウコ、とニックネームはされていたけれど、これは彼女がよくいっしょにいる友人の名前だった記憶がある。 勧めてきたのがあの友人の女性のようだったし、名前は借りたのかもしれない。 ネットに本名をさらしているほうが心配になるので、それは気にしないことにした。
 すぐに彼女にいいねをつけた。 それ以外の女性のページは見たことすらない。 これでいいねが返ってこなかったらメッセージを送ることはできない。 そのときは潔く退会して、彼女と別の手段で知り合う方法を考えよう。 そう思っていたら、彼女がいいねを返してくれたのだ。
 それからは毎日が正直、楽しかった。 彼女とのメッセージのやり取りが楽しくて、うれしくて。 会社の同僚にも「最近いいことでもあった?」と聞かれたくらいだった。 ただ、年齢をサバ読みしているため年齢確認ができず、一日にできるメッセージのやり取りには限度が決められていた。 早く返してしまうとまったく返せない時間が長くなってしまう。 できるだけ彼女への返信は間を開けて、一つ一つの間隔が均等になるように努めた。
 楽しかった日々が少しだけ止まる。 彼女からの返信が来なくなった。 土曜日に送ったメッセージ。 もう月曜日の朝になったけれど、彼女から返信はまだない。 もしかして他にいい男性と出会ってしまったのだろうか。 それとも俺とのやり取りが煩わしくなってしまったのだろうか。 実際には知り合いでも何でもないので、どう思われているかなんて確認できる術がない。 土日はもちろん電車で乗り合わせるなんてないし、今日の朝は同じ車両にはいなかった。 今までのメッセージを読み返した。 何を言ってしまったか。 不快に思うようなことを言ってしまっただろうか。 確認すれどどれが彼女を不快に思わせたのか分からずじまいだった。
 メッセージが返ってきたとき、まだ会社にいた。 机においてあったスマホが通知を知らせたときはダイレクトメールか何かだろうとうんざりした。 スマホを見てみたらあのアプリからで、残業中の部署内に俺の「え!」という声が響いたのは今でも恥ずかしい。 メッセージには土日は予定があって忙しかったこと、今日は仕事が忙しかったと書いてあった。 なんだ、よかった、飽きられたわけではなかった。 安堵から今までで一番長い返信になってしまったけれど、彼女はとくに変わらずまたやり取りをしてくれるようになった。
 そうしていくうちに、どうやって彼女を食事に誘おうか、それを自然に考えるようになっていた。 そればかり考えている自分が、果たして彼女から見たらどんな男に見えているのだろうと少し不安になってしまった。

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