帰宅後、ぼうっとする頭に手を当てると、なんだかまだ熱い気がした。 Kさん、いや、赤葦さん。 すごく良い人だった。 イメージと何もちがわない。 むしろ、より良い印象を持った。 こんなに良い人と出会えるなんて思ってもいなかった。 騙されてないよね? 嘘じゃないよね? そう思っていると優子からメールが来た。 「どうだった?」というメールに「すごくいい人だった」と返した。 本当にいい人だった。 怖いくらい。
 なんだか静かな部屋で自分の心臓がうるさく思えて、慌ててテレビをつけた。 恋ってなんだか毒な気がする。 ずっとどきどきして仕方ない。 一つ息をつくと、テレビから大きな音が聞こえて少し驚いてしまった。

――おおっと、木兎選手! これは惜しかったですね!
――いいコースだったんですけどねえ!

 スポーツ中継だ。 バレーボールのようだ。 そういえば今日はバレーボールの中継があると前々から大々的にテレビで宣伝されていたっけ。 バレーボールに全く縁のないわたしにはあまり興味のないものだった。 チャンネルを替えようとリモコンをテレビに向ける。 テレビ画面いっぱいに一人の男性が映っていた。 選手のステータスが表示されている欄を見ると、「木兎光太郎」という名前が並んでいる。 ぼくと、って変わった名字だなあ。 そう思っただけで別段興味はない。 いつも見ているチャンネルを押そう、とした。
 ぼくと、って、あれ、どこかで聞いた気がする。 珍しい名字だから知り合いにいればすぐ思い出せる。 けど知り合いにそんな名字の人はいない。 さっきも変わった名字だとは思ったけど、そんなに、なんていうか、はじめて見たって気はしなかった。 どこかで聞いたことがある。 そんなぼんやりした記憶だけなのだけど。 誰だったかな。
 そう思ってチャンネルを替えずにぼうっとバレーボール中継を見ている。 木兎選手は日本代表選手で、わたしより一つ年下の二十七歳だった。 一歳とはいえ、もうスポーツ界はすっかり年下の選手ばかりになってしまったなあ。 そう苦笑いをもらす。 画面に映るほとんどの選手がわたしより年下だった。
 珍しい名字といえば、赤葦さん、というのも珍しい名字だ。 漢字はその場で教えてもらったけど、教えてもらわなければ書けなかった。 今日は珍しい名字に縁のある日なのかもしれない。
 そんなふうに思って笑っていると試合が一旦中断する。 たぶんタイムみたいなものをとったのだろう。 カメラが選手たちを追ってベンチに向く。 選手の話し声は聞こえないけれど口の動きだけが見えた。 そして、木兎選手は向いているカメラを見つけると、笑顔で手を振って何かを言っている。 それに解説の人が笑って言った。

――木兎選手、これはまたあれですね。
――高校時代の後輩に向けてですかね〜。 たぶんまた”赤葦ー!”って言ってるみたいですね。

 その言葉に時が止まった。 赤葦。 解説の人が言った名前をもう一度頭の中で繰り返す。 たしかに今、赤葦、という名前を言った。 木兎選手の口元も、そう言っているように見える。
 いや、でも、おかしい。 赤葦さんはわたしより三歳年上だ。 三十一歳だと言っていた。 先ほどテレビの解説の人は木兎選手の後輩、と言った。 木兎選手は二十七歳。 いくつ年が離れていようが、後輩という以上は二十七歳以下なのだ。 二十八歳のわたしより、年上なわけがないのだ。
 解説の人曰く、木兎選手はインタビューや取材など、事あるごとにとある人物の名前を出すそうだ。 それが、高校時代の後輩でセッターというポジションだった赤葦、という人。 二人は仲が良く、今でもよく飲みに行っているのだとか。 その話を聞いた瞬間に思い出した。 カフェで赤葦さんに声をかけていた先輩だという男性。 その人が赤葦さんに言っていた。 「今度木兎と飲みに行くから仕事終わり開けておけ」と。 木兎、も珍しい名字。 赤葦、も珍しい名字。 この二つが重なることはそうそうない、と思う。

「…………ど、どういう、こと?」

 思わず声に出てしまった。 それくらい頭が混乱していた。 赤葦さんが嘘を吐いているということなのだろうか。 けれど、年齢で嘘を吐くとき、大抵は年下だというんじゃないだろうか。 どうして実年齢より年上だと嘘を吐く必要があるのだろうか。 何の得があるのかわたしには分からない。
 そこまで考えて、赤葦さんはこの木兎選手が言っている赤葦のお兄さんなのではないかと思った。 そうだ、きっとそうにちがいない。 そう思い直したけどやっぱり、あのカフェで話しかけてきた男性のことを先輩だと言っていたことが否定する。 ついでにアプリでのプロフィールに家族構成も書かれていたけれど、お兄さんがいるとは書かれていなかった。
 じゃあまったくの別人ということ? 同じ名字の知り合いがいるだけの赤の他人? そう思い込むのは少々無理がある気がした。 同一人物、だとするのも、訳が分からない。
 赤葦さんが嘘を吐いているとする。 わたしより二つ年下の二十六歳だとする。 三十一歳だと嘘を吐く必要とは何だろうか。 それが分からないから先に進めない。 ただ分かるのは、一つ嘘があったら別にも何か嘘があるのではないかということ。 今日いっしょにいた赤葦さんは、本当に赤葦さんなのだろうか。 わたしとメッセージのやり取りをしてくれて、真面目で、穏やかな、年上の男性なのだろうか。 そのすべてが不確かなものにすり替わってしまった。 やっぱり、アプリなんかで、誠実な出会いはないのだろうか。 年齢ごときでと言われるかもしれない。 けれど、もし赤葦さんが本当に嘘を吐いていたとしたら、嘘を吐いたという事実だけがわたしには残るのだ。 それがショックでたまらなかった。
 混乱しているわたしの耳にスマホの振動音が聞こえた。 目をスマホに向けると、あのアプリからの通知だ。 赤葦さんからだ。 見てみると「今日はありがとうございました。 楽しかったです。 もしよかったらまた誘ってもいいですか」と書かれていた。

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