優子に言われた「最低でも一週間はやってみてよ」という期限は終わった。 休日だからと出かける気にはならない。 朝から撮りだめてあるドラマを観ようと早起きをした、のに。 さっきからスマホばかり見て、テレビの画面なんて何も観ていない。 無音の部屋に聞こえてくるのは外から聞こえる車の音や鳥の鳴き声。 あとはわたしの呼吸音だけ。
 迷っているのだ。 わたしはこの人を信用していいのだろうか。 メッセージのやり取りというあまりにもか細い信頼を、全面的に信じてもいいのだろうか。 もともとあまり良い印象のない出会い方で、男性経験が豊富ではないわたしの判断で、信じてしまっていいのだろうか。 あんなに否定的だったのに、と言われそうで優子にも相談できずにいる。 わたしは今、Kさんと会ってみたいなんて、思ってしまうことを良しとするかどうしようか、迷っていた。
 けれどわたしが会いたいと言い出したら。 そう考えてしまう。 今までの男性に対してわたしは「会いたいと言われてショックだった」というような感想ばかり抱いてきた。 それはKさんも同じなのではないだろうか。 今までただメッセージのやり取りをしていただけの、顔も知らない女に会いたいなんて言われても困るんじゃないだろうか。 それこそはしたない女だと思われるかもしれない。 そういうことを目当てにしていたんだと思われるかもしれない。 それが嫌だった。
 それが嫌だって思うということは、わたしは、Kさんに好意を持っている、ということなのだろうか。 声も分からない、顔も知らない、本名も知らない、本心も当然知らない。 そんな男性に恋をしてしまったというのだろうか。
 そんなわけ、ないじゃん、何言ってんの。 一人で苦笑いをこぼす。 こんなのやってる人、みんな、体目的ばっかりだよ、どうせ。 優子はたまたま運が良かっただけ。 優子の友達もみんなそう。 こんなの使って成功するほうが珍しいんだ。 わたしみたいな地味な女に成功なんかつかめない。 ……知らない内にコンプレックスになっていたのだろうか。 鏡に映る自分の顔から眼をそむけた。 Kさんだってもし会ってくれても、絶対にがっかりする。 ため息。 もう、それ、会いたいって思っちゃってるじゃん。 自分がそんなことを思う人間だとは思わなかった。 それにちょっとショックを受けている。
 スマホが通知を知らせる。 通知欄でメッセージ内容を確認すると、やっぱりKさんからだった。

『今日はお休みですか? 良い休日をお過ごしくださいね。 どこか行かれるんですか?』

 これだもん。 好印象以外の何でもないよね?
 誰ともなく同意を求めたけれど誰も同意はしてくれない。 Kさんはどんな人なのだろう。 三つ年上の落ち着いた男性。 そういうイメージしかプロフィールとメッセージからは想像ができない。 それ以外の判断材料がないから仕方ない。 誰にも分からないことなのだから。 会ってみなきゃ分からないのだ。 そう分かっているからこそ悩みは螺旋階段のようにどんどん続いていく。 解決方法は分かっている。 けれど、その解決方法を使いたくないのだ。
 わたしは、Kさんに、恋をしてしまった。 会いたいと思ってしまった。 それゆえに会いたいと言えなくて、好きになってしまったと言えなくて。 はじめて、Kさんからのメッセージへの返信を、その日のうちにせずに一日が終わっていった。









「アプリどう? 続けてる?」

 会社からの帰宅中、優子からそう話を振られた。 一週間はもう経ったから聞いてきたのだろう。 優子の問いかけに「一応続けてるよ」と言うと「ね、おすすめって言ったでしょ」と笑った。 続けてはいる。 けれど、本当はあの土曜日以降、ログインをしていない。 Kさんから追加のメッセージは来ていない。 わたしがログインしていないことはページを見れば分かることだ。 もしかしたらKさんはわたしがもうやめるつもりなのかもしれない、と思っているかもしれない。 そうなれば別の女の子に目が向くだろう。 Kさんのページを見れば女の子からどれだけの数いいねをもらっているかは見られる。 顔も映っていないしプロフィールも当たり障りのないことしか書いていない。 それなのにKさんはいいねをそれなりにもらっていた。 たぶん真面目そうに見えるのと写真から分かるスタイルの良さからだろう。 きっとわたし以外にも女の子とメッセージのやり取りをしているにちがいない。 その子たちとやり取りをしているからわたしがログインしていない、なんて気付いていないのかな。 たくさんいるうちの一人、なんだもんね、きっと。
 Kさんとメッセージのやり取りをするようになってから、少しだけ物を見る目が変わった。 買い物に行くと「ああこれ、Kさんがおいしいって言っていた飲み物だ」とか、「これ便利だって教えてくれたものだな」とか。 Kさんが教えてくれたことばかりが頭に浮かぶのだ。 それは優子の言葉を借りれば「好きな人がいると毎日が楽しい」と思えるうちに入るのだろう。 けれど、今のわたしからすればそれだけではないのだ。 ただただ、けどKさんとはマッチングアプリでメッセージのやり取りをしただけの、不誠実な仲だから。 そんなふうに思ってしまう自分がまだいる。 それに加えて会いたいとも好きだとも言えない相手を好いていたって何も得られるものはない。 ただただつらいだけじゃないか。 そう思うと、このアプリを教えてくれた優子のことも、わたしにいいねをくれたKさんのことも、憎らしく思えてしまって、もうどうしようもなくなっている。
 頭を抱えているわたしに優子が「え、何かあった?」と心配そうに聞いてくれる。 話しても、ばかにされないかな。 そう少しだけ決心して顔を上げたときだった。
 朝、たまに同じ車両に乗るおばあちゃんが視界に入る。 わたしが電車に乗ってから三駅後くらいに乗ってくることがあるのだけど、腰が悪いそうでいつもゆっくり歩いているのだ。 わたしが乗る駅は人が少なく、それ以前も人が少ないので座席に座れることが多い。 あのおばあちゃんを見かけるたびに譲るようにしている。 ゆっくりドアが閉まると、おばあちゃんは少しだけ辺りを見渡してから入口付近の手すりにつかまった。 こんな時間に珍しい。 辺りを見渡すとちらほら立っている人もいるし、優先席の人たちはみんなスマホを見ていて気付いていない。 優子に「ちょっとごめん」と声をかけてから、おばあちゃんに近寄る。

「こんばんは」
「あら、あなたは……」
「よかったらあそこ、座ってください」

 先ほどまで座っていたところを指さす。 おばあちゃんは「悪いから」と遠慮したけれど、その手に病院でもらったらしい薬の袋があるのが見えた。 ほとんど無理やりだったけれど席に座ってもらう。 おばあちゃんは「ありがとうねえ」と言って鞄からお菓子を出してわたしと優子にくれた。 席を譲るといつも何かくれるので、なんだかこちらが申し訳ない気持ちになるけど、朗らかに笑ってくれるからつい受け取ってしまう。 優子はそのお菓子を見て「やば、めっちゃ懐かしいこれ!」と言ってから「ありがとうございます」と人懐こく笑う。 もらったのはわたしたち世代が子どものころによく食べていたパラソル型のチョコレートだった。 ほのぼのと世間話をしているとふと、おばあちゃんが笑って言う。 「あなたたちみたいな子が嫁いできてくれるといいんだけどねえ」と困った顔をした。 なんでも息子さんが付き合っている女性が言葉遣いが少し乱暴で、おばあちゃんのことをあまり良く思っていない節があるそうだ。 なんとも言えずにその話を聞いていると、おばあちゃんが降りる駅に到着した。 おばあちゃんは何度もお礼を言ってから電車を降り、また一つお辞儀をしてくれた。
 電車が動き出してから、優子が話を戻した。 「そんなにやるのしんどかったら、あたしに遠慮なんてしないでさ。 本当にやめてね」と心配そうな顔をする。 その表情を見て、自分が意地を張っているのがなんだか申し訳なく思えてきた。 出会い系アプリみたいなものに後ろめたさを覚えて。 Kさんに好意を抱いたことに後ろめたさを覚えて。 優子とその彼氏にも後ろめたさを覚えて。 真剣におすすめしてくれたし、はじめたあとも逐一相談に乗ってくれた。 そんな優子に失礼なことをしているかもしれないと反省した。

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