赤葦とのデートは、デートと名前がついただけでいつもと変わらなかった。お互いが見たいものに付き合って、食べたいものを食べて、薄暗くなってきたら家路につく。そんな、心地よいデートだった。
 車で家まで送ってくれた赤葦が、わたしが車から降りるときに「十月くらいに連休って取れる?」と突然聞いてきた。まだ分からないけど、有休だいぶ残っているし取ろうと思えば取れますが。そんな曖昧な回答をすると「分かった。また連絡する」と言われた。どういうことだろうか。どこか行きたいところでもあるのかな。そう不思議に思いつつ車を降りた。
 赤葦の車を見送ってからマンションのほうへ方向転換すると、足が止まった。マンションの入り口。そこに、元カレがいたのだ。よりを戻したい、と連絡をしてきた人。大学時代に三ヶ月ほど付き合った。嫌がるわたしをベッドに押さえつけて、無理やり服を脱がせた一人でもある。
 怖いと思った。元カレの姿を見て、わたしははっきり、怖いと思っている。あのときのことを思い出して、また同じようにされるんじゃないかと。あのときは、男の人だしそういうことがしたくて少し力が入ってしまうのは仕方ない、と自分を言い聞かせてはいた。それでも、やっぱりわたしは、怖かったのだ。
 元カレがこっちを見た。気付かれた。そう心臓が飛び跳ねそうになったけど、足は動かない。こっちに近付いてくる。どうしよう。怖い。きゅっと自分の鞄を握る手がほんの少しだけ震えていた。
 名前を呼ばれた。焦った様子でこちらに近付いてきた元カレの様子がなんだか少し変だ。少し距離を取って「何……?」と小さい声で聞いてみる。怖いからあまり近付かないでほしい。そう思っていると、元カレが「あのときはごめん。俺が子どもだったよ。それで……今、付き合ってるやつとかいる?」と聞いてきた。やっぱりその話か。ブロックしてるんだから直接話しても無駄だってなんで分からないのかな。元カレが「いないなら俺とまた付き合ってほしい」とこちらに手を伸ばしてきた。怖くて顔を背けてしまいながら「やめて、怖い」とはっきり口から言葉が出ていった。

「こ、怖いの、ごめん。でも、仕方ないじゃん。無理やりあんなことされて、怖くないほうが、おかしいでしょ」

 勝手に涙が出た。そんなわたしを呆然と見つめた元カレが、ぽつりと「ごめん」とこぼす。はじめてできた彼女だったからつい舞い上がったとか、はじめて好きになってくれた子だったから嬉しくてとか、そういうことをぽつぽつ話す。そう言ってくれるのは素直に嬉しかった。一度はこの人ならと思って付き合った相手だから。でも、やっぱり、まだ怖かった。
 元カレには今は優しい彼氏がいるから付き合えない、とちゃんと伝えた。諦めの悪い人ではあるけど、ちゃんと伝えれば分かってくれる人だ。「そっか。ごめん」とだけ言ってわたしに背中を向けた。その背中にわたしも「ごめん」と呟いた。
 わたしはきっと、あの頃は普通の女の子だと自分に言い聞かせたかったのだと思う。彼氏ができればちゃんと、恋人同士がやることはできる普通の女の子だ、と。だから、告白してくれた人のほとんどにオッケーをして、それを証明しようとしていたのだ。良くない。本当に、わたしは良くない女だった。
 赤葦が、体を大事に、と言ってくれた意味が分かった。赤葦は分かっていたのだ。わたしが相手の男の人のことが好きで付き合っているわけではないと。自分の体を使って自分が普通の女の子であることを確かめようとしていたと、分かってくれていたのだろう。証明できないことの証明が積み重なって、ときに危険な目に遭って傷付くわたしを、ずっと心配してくれていたのだ。怖いと言えないわたしに気が付いて、そばにいてくれた。同じように自身がわたしにとっての証明できない証明≠ノならないように気持ちは言わないまま。別の誰かに無理やり抱かれて傷付く姿を見る羽目になっても、わたしのことをずっと近くで見守ってくれていたのだ。
 ああ、どうしよう。今さっき家に送ってもらったばかりなのに、もう赤葦に会いたい。こんなの、これまで付き合った人の誰に対しても思わなかった。バイバイしてこんなに寂しくなるなんて今までなかった。手を握ってほしいなんて自分から思うこと、なかった。胸が痛い。どうしてだか分からないけれど、決して嫌な痛みではない。とても心地よい痛みだ。
 思わず赤葦の車が走っていたほうに目を向けてしまう。まあ、もう見えるわけがないのだけど。勝手にこぼれた涙を指で拭いて一つ深呼吸。なんだか、一気にいろんな感情が襲ってきたから困惑してしまった。落ち着こう。そんなふうに思っていると、背後から車のライトが迫ってくるのが分かった。道にはみ出してしまっていた。危ない危ない。一人でそんなことを思いつつマンションの敷地内に入る。

!」
「……え、あ、赤葦?! どうしたの?!」

 車の窓から顔を出していたのは赤葦だった。なんで? 忘れ物のしようがないはずだけど、どうして戻ってきたの? そう驚いていると、わたしの真横に車を停めて赤葦が降りてきた。

「え、あの、どうしたの?」
「車を出してからバックミラーで見てたんだけど、誰かと話してたみたいだったから。ちょっと気になって」

 嫌そうな顔をしていたから、と赤葦が当たり前のように言った。それで戻ってきたの? 何もないかもしれないのに? ここはしばらく一方通行が続くし、この先は工事中で規制されている。戻ってくるためにはぐるりと大回りしてこないといけなかっただろう。戻るなんて余程のことがないと面倒で仕方なかったはず、なのに。
 呆然とするわたしに赤葦が微笑みかけた。「大丈夫ならよかった。安心して帰れる」と言う。その言葉に、ぶわっと、いろんなものが湧き上がってたまらなくなった。ぽろぽろこぼれる涙を見た赤葦がぎょっとしたのがよく分かる。

「え、ど、どうしたの? やっぱり何かあった? 大丈夫?」

 涙を指で軽くすくい取ってくれる。わたしの顔を覗き込んで「不審者? 嫌な人? なんだったの? 怪我してない?」と眉間にしわを寄せて、心配そうに聞いてくれた。

「赤葦」
「うん?」
「すき」
「……え」
「好き。大好き。ずっと一緒にいて」

 赤葦の隣が落ち着く。赤葦が笑ってくれると嬉しい。何かあると赤葦に聞いてほしくなる。しんどいときは赤葦に会いたくなる。赤葦とだけ子どもみたいな馬鹿騒ぎを一緒にしたいと思う。どんなにくだらないことでも赤葦に一番に報告しようと思う。かわいいと言われて照れくさく思うのは赤葦だけ。赤葦との約束があれば嫌な仕事も立ち所にやり終えられる。気味の悪い笑い方をしてもにかわいいと思えるのは赤葦だけ。触れ合うだけのキスがあんなにも愛情深く感じるのは、きっと、赤葦が相手だったから。触れたいと思った相手は赤葦だけだし、今この瞬間に触れてほしいと思うのも赤葦だけ。まだある。たくさんある。赤葦のことが好きだという証明が、わたしにはたくさんあるのだ。
 友達だと思っていた。でも、とっくにわたしは赤葦のことが好きだったんだ。けれど、関係が変わってしまうことが怖くて、別の人を彼氏にしようとしていた。わたしが好きなのは赤葦じゃない。だって赤葦は親友だから。そう自分に思い込ませようとしていただけだ。赤葦以外の男の人と付き合ったって結果はすべて同じだったのだ。きっと。
 ぐずぐず泣いているわたしを赤葦が瞬きも忘れて見つめている。ぐずぐず鼻をすすりながら赤葦の横を通りすぎて、車の助手席のドアを開けた。赤葦が「何、え? どうした?」と慌てている。そんなのは無視して助手席に勝手に乗り込むと、困惑したまま赤葦が運転席に乗り込む。ハンドルを握ると「あの、どちらまで?」と困惑しつつも笑って言った。

「明日仕事あるとか知らない。わたしは休みだもん。赤葦の家に泊まる」
「そ、れは全然、構わないけど……あの、、」
「赤葦」
「はい」
「家についたら、いっぱいキスして、ずっと抱きしめて」

 ぐず、と鼻をすする音が車内に響いた。汚い。鼻をかめ。そう自分でツッコミを入れるくらい情けない姿だろうと思う。
 赤葦の表情筋がおかしなことになっている。無表情でもなければ驚いているわけでもなく、なんとも言えない表情。ただただわたしを見つめている。しばらく間が空いてから、赤葦が唾を飲み込んだ。ぎゅっとハンドルを握り直すと、わたしから顔を背ける。「仰せのままに」と小さな声で呟いて一つ咳払いをしてから前を向いた。そうして車が動きはじめると、そこからはお互いに一言も話さなかった。お互いの呼吸の音だけを聞いて、自分の心臓の音だけを聞いた。その時間がなぜだかとても、好きだと思えた。


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