子どものころに家族で海外旅行に行ったことがある。そのときに見た、美しいターコイズブルーの海が忘れられない。海底が驚くほど近くに見えて、地上よりうんときれいだった。
 地上は息苦しい。大人になってじわじわとそれを知った。人間関係のいざこざ、恋愛のもつれ、職場のストレス。いろんなものがずっしり肩にのし掛かってくるせいだ。息苦しい。そのたびに、あの美しいターコイズブルーを思い出す。陸にとても近い場所にあるように見えた。きっと、あのきれいな海底のほうが、息がしやすいんだろうな。そんなおとぎ話みたいなことをいつも考えていた。
 赤葦の隣は、とても息がしやすかった。とても澄んだきれいな場所でもあった。まるであの美しい海底のように。でも、赤葦の隣は海底じゃない。ちゃんと両足でしっかり立てる地上だった。どうしようもなく。あんなに近くに見えた海底は、赤葦の隣にいるととてもとても深くにあるように見えた。息苦しそう。そう、思うほどに。
 いつの間にか眠っていた。目を擦って体を起こす。赤葦は隣にはいない。一緒のベッドでは寝ないと断固譲らなかった。好きだという気持ちを認識したあとで同じベッドに眠るのは嫌だろうと言って。どこまでも優しい。それが、とてもくすぐったかった。
 わたしがベッドで寝てしまってよかったのだろうか。とても寝心地は良かったけど、さすがに家主がソファはまずかったかもしれない。そう罪悪感を覚えつつそうっと寝室を出た。静かにリビングのほうへ歩いて行き、そっとソファを覗き込む。赤葦はまだ眠っていた。起きる気配はない。
 寝顔、もう結構何度も見ているけど、そのどれとも違う顔をしている。同じはずなのに。不思議だなあ。そうじっと観察していると、赤葦の胸が上下するリズムがとても心地よいことに気が付く。なんでだろうか、ずっと見ていられそうだ。面白いものでもないのになあ。
 そっと手を伸ばして、つん、と赤葦の頬に指を当てた。はじめて人に触ってみたいと思った。赤葦の頬は柔らかくて少し温かくて、ちょっとだけ髭がある。男の人の肌だ。ぼんやりそれを確認して、どうしてわたしは赤葦の頬を触りたくなったんだろうか、と首を傾げてしまう。これまで誰にもそんなふうに思ったことはなかった。触ってみたい、なんて。わたしがこれまで気持ち悪いと思ってきた人たちと同じじゃないか。
 ちょっとびっくりしている間に、ぱちっと赤葦の目が開く。あ、起きちゃった。思わずそう口に出すとすぐにこっちに顔を向けた。

「おはよう」
「お、おはよう。ごめん、ベッド貸してもらって……」
「全然。よく眠れた?」
「おかげさまで」

 むくりと体を起こした赤葦がぐるりと首を回す。ぱきっと関節が鳴った音が聞こえた。やっぱり寝づらかったんじゃないのかな。肩でも揉みましょうか。そう声をかけると赤葦は吹き出して「借りてきた猫みたい」と言って、わしゃわしゃとわたしの頭を撫でた。
 洗面所を借りて顔を洗い、歯を磨いた。わたしが歯を磨いている間に赤葦も顔を洗い、同じように歯を磨き始める。鏡に映った赤葦と自分の姿を見て、なんというか、言葉にはできない不思議な感覚を覚える。なんだかとても落ち着くというか、日常というか、見慣れた光景というか。これが当たり前に思えるくらい馴染んでいた。
 口を漱いでから髪を適当に直していると、同じく口を漱いだ赤葦がミラーキャビネットを開けた。お、何するのかな。朝のルーティーンですね。そんなふうに注目していると「髭を剃るだけですよ、ホームズ先生」と言う。そのノリいつまで続けるの、ワトスンくん。そうおかしくて笑うと「一生かな」と最高の返しをしてくれた。

「見ててもいい?」
「いいけど、別に面白くないよ」
「赤葦が髭剃るところ、見たことないから絶対面白いよ」
「何その謎の自信」

 電動シェーバーと思われるものと一緒に、化粧水みたいなものを持っている。髭を剃るときに塗るんですね。なるほど。観察していると赤葦がその化粧水みたいなものを顎に塗り始めた。髭剃りって肌に負担がかかるだろうから、ちゃんとケアしないとすぐ荒れちゃいそうだもんね。男の人のケアも大変なんだなあ。しっかりそれを塗ったあとに、電動シェーバーを手に取る。赤葦は慣れた手付きでスイッチを入れて丁寧に髭を剃りはじめた。
 じっとその横顔を見ていたら、なぜか、本当に何でか分からないのだけど、きゅんとした。いや、なんで? よく分からない。でも、赤葦が顎を上げて、まっすぐ鏡を見ている輪郭とか、視線とか、なんかその姿に、男性の色気みたいなものを感じたというか。うん。よく分からない。謎。思わなかったことにする。
 その謎の視線が赤葦に伝わってしまったらしい。「何?」と髭を剃りながら視線がこっちを向いた。いや、その視線とか。なんか色気を感じるからやめてほしい。こっちが照れる。

「なんか色っぽいな〜って思っただけ」
「……髭剃ってるだけなのに?」
「分かんない。男の人特有のものだからかも。謎です」

 照れつつそう言って、そそくさと洗面所を後にした。なんか緊張した。色っぽいんだもん、赤葦。びっくりした。
 ソファを背もたれにしてテーブルの前に座る。いつも持っている鏡を鞄から出してそこに置き、一旦悩む。化粧はするべきかしないべきか。このあとは予定がないから帰るだけだしいいかなあ。でも、一応家に帰るまでの道のりはあるしなあ。そう悩んでいると、髭を剃り終えた赤葦が戻ってきた。

「何してるの?」
「うん? 化粧するかどうしようか悩んでたの。もう帰るだけだしいいかなあ」
「え、帰っちゃうの?」
「え?」
「何もないならデート、どうですか」

 恋人なんだし、と付け加えつつわたしの隣に座った。地べたじゃなくてソファに座りなよ。そうぽつりとこぼしてから「行く」と返した。デートに行くなら化粧します。そう宣言して化粧ポーチを開けた。
 物珍しそうに赤葦が化粧ポーチを覗き込む。「これ全部使うの?」と聞かれたので「大体使うよ」と答えつつ下地を塗る。赤葦は一人っ子だ。お姉さんや妹さんがいる男の人なら多少は知っているかもしれないことも赤葦は知らないのだろう。使うものを出しつつ何に使うか勝手に喋っていくと「顔溶けそう」と笑った。

「でも、ってあんまり化粧濃くないよね? こんなに塗るのに」
「ナチュラルにしていますので。あと、塗るものが多いからって濃くなるわけじゃないよ〜」
「そういうものなんだ? 難しそう」
「なかなか上手にならなくてね〜。いろいろ調べながらやっております」
「え、上手でしょ。いつもかわいいから」

 ブッと吹き出してしまった。それを見た赤葦が「え、何?」と首を傾げる。何、じゃない。なんだこの野郎。そう肩を肘でつついてやる。いつまでやるんだ、その感じ。普通に心臓に悪い。
 拗ねつつ鏡に顔を戻す。もう知らない。赤葦のことは無視。構っていたら化粧が上手くできませんので。そう言うわたしに赤葦は「はいはい、ごめんね」と笑いながら言う。立ち上がりながら「朝ご飯、パンでいい?」と言う。ぱっと顔を赤葦に向けて「うん、ありがとう」と言うと、じっと顔を見つめられた。

「何?」
「すっぴんがかわいいから化粧してもかわいいんだなって納得してただけ」
「…………赤葦さ、なんか、変なスイッチ入ってない?」
「いや? 彼女になったへはこれが通常運転です」

 そう言い残してキッチンのほうへ歩いて行ってしまう。いや、嘘つけ。今までそんな雰囲気まったくなかったじゃん。そう一人で照れながらちょっと乱暴にファンデーションを塗った。


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